山本和男様・彩子様ご夫妻Click!が保存されている、松下春雄Click!が撮影した落合第一小学校Click!と第四文化村Click!界隈の風景写真Click!について、もう少し詳しく検討してみたい。前回の記事にも書いたが、この写真は佐伯祐三Click!も直接目にしているほぼ同時期の実景なので、佐伯作品とも照らし合わせて改めて考察したい。
 まず、手前のモッコウバラと思われるバラ垣は、箱根土地本社の不動園Click!と第四文化村の敷地を分ける小道沿いに設けられた、不動園側の生垣のように思われる。バラの下には、垣根のような棒状のものが見えており、松下は垣根をこえて不動園の内側から、落合第一小学校の西側校舎と講堂のある南東の方角を向いてシャッターを切っていると想定できる。不動園内へ深く入りこんで写生した、松下作品『文化村入口』Click!(1925年)も存在するので、当時、箱根土地(のち中央生命保険倶楽部)前の不動園は、一般人が自由に出入りし散策できた可能性が高い。
 不動園の北端、旧・箱根土地の本社屋に接する東側で生徒たちが記念撮影した、落合第一小学校の卒業アルバムClick!も残されている。おそらく箱根土地の不動園は、ボタンで有名な西坂・徳川邸の静観園Click!とともに、小学生たちの図画授業における野外写生や、画家たちの風景作品の制作ポイントClick!になっていたのではないだろうか。特に、モッコウバラ(松下は「野茨」と表現)が咲く5月下旬ごろは、あちこちでスケッチブックを拡げる画家や絵が趣味の人々、そして生徒たちの姿が見られたのだろう。そんな中に、松下春雄や佐伯祐三たちもいた。
 松下は撮影をする際、画面構成のイメージからだろうか、長く伸びたバラのつるを左右へアーチ状にわたして整形し、その間から深い渓谷(前谷戸Click!からつづく谷戸地形の谷間)を撮影するような構図でシャッターを切っている。中央に見える大きな建物の切妻は、落合第一小学校(のち落合第一尋常小学校→落合第一尋常高等小学校→現・落合第一小学校)の講堂であり、左手の横長の建物は、同小学校の第四文化村に面した西側の校舎Click!だ。松下は、『下落合文化村』Click!(1927年ごろ)で竣工間近な同小学校を描いており、同作の画面では右手の講堂の支柱が建てられ、まさに建築中の様子がとらえられている。同作は、もう少し早い時期の制作かもしれない。

 
 小流れのある中央の渓谷をはさみ、右手の丘上に見えている建物は、位置的にみて文化村「スキー場」Click!の尾根上に立つ建物の1軒のように思われる。佐伯祐三が描いた『雪景色』Click!(1927年ごろ)の丘上にある、箱根土地の住宅建設資材倉庫あるいは資材加工場、ないしは目白文化村の建設工事の関係者が寝泊まりする“飯場”と思われる、横長で平屋の建物の一部かと思われるのだが、写真からはハッキリしない。また、文化村「スキー場」の急傾斜も、この角度からだと傾斜面が撮影位置とほぼ垂直になり、ハッキリと視認することができない。
 1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!には、巻頭のグラビアに落合第一尋常高等小学校を市郎兵衛坂Click!あたりから撮影した校舎全体の写真が掲載されているが、1929年(昭和4)の松下写真からわずか3年後にもかかわらず、小学校の西北側(左手)に開発された第四文化村には、ちらほら家々が建ちはじめている様子がとらえられている。この写真で、中央あたりの校舎の屋根上に見えている火の見櫓は、1932年(昭和7)に淀橋区が成立するまで存在した落合町役場に近接する、消防落合出張所のものだ。
 また、西側(左側)校舎の外れ、遠景に見えている大きな西洋館と思われる建物は、第四文化村入り口にある谷へとくだる坂道の、向かって右手(西側)に建てられて間もない高木邸ではないかと思われる。高木邸は、1945年(昭和20)4月13日の文化村空襲(第1次山手空襲Click!)にも、また5月25日の第2次山手空襲にも焼け残り、戦後の空中写真で確認することができる。ただし、改正道路(山手通り)の敷設により、邸の西側敷地をやや削られているのではないだろうか。

 
 松下春雄は、写真の撮影位置に近いポイントから、南南西を向いて1925年(大正14)に仕上げたのが『五月野茨を摘む』Click!であり、翌々1927年(昭和2)に南東へ向いて制作したのが『下落合文化村』ということになる。『五月野茨を摘む』では、第一文化村の水道タンクや同文化村の洋風建築を入れて描いているけれど、当時の第一文化村Click!はすでに住宅がもう少し建てこんでいたのではないかと思われ、このような緑濃い中に洋館が1棟ポツンと建っているような風情だったかどうかは、多少疑問の余地がある。松下の画面上における“構成”なのかもしれない。
 また、竣工が近い落合第一小学校をモチーフにした『下落合文化村』では、やはり不動園のおそらく内側に入りこんで、南東側の第四文化村および落合第一小学校のほうを向いて制作している。同作が描かれた1927年(昭和2)に、同小学校の新校舎は落成するので、建設の最終段階に入った同校の姿をとらえていると思われる。また、佐伯祐三の『下落合風景』シリーズClick!では、「制作メモ」Click!の1926年(大正15)10月12日に「小学生」(15号)のタイトルが見えるので、ひょっとすると佐伯も完成が近い落合第一小学校の近くで、小学生を画面に入れた風景作品を描いているのかもしれない。つまり、松下春雄と佐伯祐三はあちこちでニアミスを繰り返していた可能性があるのだ。どこかで出会って、互いに会釈ぐらいはする仲になっていたのかもしれない。
 

 1926年(大正15)から翌年にかけての冬、佐伯祐三は第四文化村の坂道をくだって谷底に下り、降雪のあと住民たちがスキーやソリを楽しむ文化村「スキー場」の情景を描いている。松下春雄の写真でいうと、中央に暗く落ちこんだ谷底あたりから、西側急斜面の尾根上を見あげている構図だ。また、松下が箱根土地本社Click!のレンガ建築Click!を入れて『文化村入口』(1925年)を描いたあと、佐伯はおそらく翌年、まさに松下が1928年(昭和3)から暮らしはじめる近辺、前谷戸に面した第一文化村北辺の二間道路Click!を描いている。キャンバスやイーゼルを抱えた目立つこのふたりが、下落合のどこかで出会わないほうがむしろ不思議だ・・・そんな気さえしてくるのだ。

◆写真上:山手通りから眺めた落合第一小学校の現状で、谷の下に見える大谷石の擁壁は第四文化村のもの。松下春雄の撮影ポイントは、山手通りの下になっていて立つことができない。
◆写真中上:1929年(昭和4) 5月24日に松下が撮影した、バラの生垣と落合第一小学校。レンズを少しずつ南へずらして、角度を変えながら撮影しているのがわかる。
◆写真中下:上は、竣工から5年後の1932年(昭和7)に撮影された落合第一小学校の全景。下は、松下春雄『五月野茨を摘む』(1925年/左)と松下春雄『下落合文化村』(1927年/右)。
◆写真下:上左は、1925年(昭和14)に描かれた松下春雄『文化村入口』。上右は、1927年(昭和2)ごろ制作の文化村「スキー場」を描いた佐伯祐三『雪景色』。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる松下写真の撮影ポイント、およびそれぞれの作品の描画ポイント。