先日、東京タワーへ「山本作兵衛の世界」展を観に出かけたついでに、芝神明(しんめい)宮へ立ち寄ろうとしてすっかり忘れ、帰ってきてしまった。この社は、神田明神Click!などに比べれば比較的新しい社で、1005年(寛弘2)の藤原時代に創建されたのだが、江戸後期に伊勢宮の代参社として、また旅の無事を祈念する道中安全の神として大流行りした社だ。
 先年も墳丘長が127m、周濠を想定すれば200m近いと改めて想定された芝丸山古墳Click!に出かけたついでに…と思っていたのだが、やっぱり立ち寄るのを忘れて地下鉄に乗ってしまった。同社に近づくとなぜか健忘症になるようで、よほどわたしとは縁がないのか相性が悪いのだろう。^^; 子どものころ、一度だけ親父に連れられて同社へ立ち寄った記憶があるのだが、芝神明宮の「だらだら祭り」にちなんだ「だらだら餅(太々餅)」の幟ぐらいしか憶えがない。
 神明宮の祭りが「だらだら祭り」と呼ばれるのは、毎年9月11日から21日まで延々と行なわれるからで、江戸期に誰かが「いつまでも、だらだらやってんじゃねーよ!」とイラついたことから、その名がついたものだろう。たいがいは、サッとはじまって3日ほどでサッと終わる、どこか儚(はかな)さが漂う祭りが多い江戸の町内で、11日間もつづく祭礼は異例というか異様だ。このあたりも、わたしの波長に合わない理由なのかもしれない。奉られているのは、天照大神と豊受大御神、それに源頼朝と徳川家康だが、地元とは無縁なヤマトの神々や、庇護し援助してくれた歴代の権力者を“神”にしておもねるところも、わたしの性に合わないゆえんだろう。
 そんな“だらだら”としまりのない芝神明宮なのだが、江戸有数の「ケンカ場」としてはしごく有名だ。史実としても、また芝居の舞台としても広く東京じゅうに知られ、今日にいたるまで連綿と語り継がれている。もともと、芝神明宮の近くには花柳界があって賑わっており、実は芝神明に参詣するというのが口実で(実際に参詣したかどうかはわからない)、男たちが神明町にあった花柳界へ出入りするのが目的だった…という見方もできる。むしろ、参詣客で賑わったと伝わるのは、花柳界が賑わったというのと同義ではないだろうか。芝神明宮の境内で大乱闘を演じたのは、品川の谷山(やつやま=八ツ山)Click!から因縁持ちこしの、町火消し「め組」(鳶職)と相撲取り連だった。

 ケンカの様子は読売(瓦板)で江戸じゅうにバラまかれ、のちに芝居『神明恵和合取組(かみのめぐみ・わごうのとりくみ)』(通称は「め組の喧嘩」)として竹柴其水が台本を書き、のちに師の河竹黙阿弥Click!が三幕目を加筆している。史実では、神明宮の境内で開催中だった相撲の春場所を見物しようと、め組の辰五郎たちが取組場へ入ろうとすると、そのうちのひとりが木戸銭を要求されたところからはじまる。芝神明の一帯は、め組の所轄受け持ち区域であり木戸御免が通常なのだが、相撲の木戸番には含むところがあったものか、木戸御免を無視して通さなかった。この場は、力士の九龍山が木戸番に加勢したので、辰五郎はいったん引き下がった。
 気分なおしに、辰五郎たちは近くの芝居小屋へと向かうのだが、そこで再び木戸前でもんちゃくを起こした九龍山と鉢合わせしてしまい、先ほどの仕返しとばかり、力士の肥満や巨体を笑って芝居小屋の満座の中で恥をかかせた。それに激高した九龍山は、辰五郎らと芝居小屋で本格的なケンカになってしまう。火消しの頭(かしら)や相撲の年寄り連などが仲裁して、ケンカはいったん収まったかのように見えたが、満座の中でコケにされた九龍山は腹の虫が収まらず、同じ部屋の力士たちを焚きつけて、町火消しに再びケンカを売った。
 め組のほうも、町中の半鐘を打ち鳴らしては火消し仲間を集め、芝神明宮の境内で力士たちとの大乱闘となってしまった。駆けつけた町奉行所の与力や同心たちが間に割って入り、死者こそ出なかったものの怪我人が多数出て、火消し側と力士側の双方合わせて36名が捕縛された。
 
 町火消しは町奉行所の管轄だが、相撲は寺社奉行所の管轄であり、事件の後始末が少々ややこしくなる。当時としては異例の、町奉行と寺社奉行に第三者の勘定奉行も加わっての評定になった。奉行が3人そろって、ひとつの事件を裁くのは異例中の異例だったことからも、江戸じゅうが沸騰したこの事件に、幕府がケンカ再燃の火種をのちまで残さないよう、裁きのしかたに腐心していたのがわかる。結果は、先にケンカをしかけた火消し側にきびしく力士側に甘いものだったが、いちばん重い刑が百叩きで江戸追放(追放といってもほとぼりが冷めるまでだが)と、おしなべて軽い刑だった。この裁きで面白いのは、人間たちの罪を相対的に軽くするためか、火消しを集めるのに鳴らされた半鐘が「遠島」になっていることだ。半鐘というモノに最大の刑罰を与え、人間には深い恨みを残さぬようできるだけ配慮した…という気配がする。
 「め組の喧嘩」では、芝神明宮の境内が2幕出てくるのだが、二幕目の木戸銭を払う払わないでモメた相撲場の場面と、四幕目の大喧嘩の場面だ。外題である「めぐみ」とシャレた『神明恵和合取組』は、其水の師である黙阿弥が命名したといわれている。芝居の登場人物たちは、め組の浜松町・辰五郎、纏(まとい)Click!持ちの露月町・亀右衛門、柴井町・藤松、宇田川町・長次など、すべてめ組の管轄内にあたる町名がふられているのが面白い。いまでは、芝神明宮の境内はせせこましくなり、とても大勢の人間が大乱闘できるようなスペースはなくなってしまっている。

 
 芝神明宮前の参道にあった「だらだら餅(太々餅)」だが、わたしは一度も食べたことがなかったように思う。幕末あたりからつづいていた菓子のようなのだが、親父も買わなかったのだろう。名前からして、きっとひと口では食べられない、ダラダラした太くて長い餅だったのではないだろうか。w  いまでは名前さえ聞かないので、きっと地域に根づかず廃れてしまったのだろう。

◆写真上:目白崖線よりも険しそうな、東京タワー下にある芝の大バッケ(崖地)を上から。
◆写真中上:だらだら祭りのクライマックスを描いた、安藤広重「芝神明祭礼止図」。
◆写真中下:左は、誰も撮影しないと思われる芝崖線の森中からの東京タワー。w 右は、1953年(昭和28)に撮影された芝神明宮で、左手に「だらだら(太々)餅」の提灯が見えている。
◆写真下:上は、『神明恵和合取組』一幕目の舞台で辰五郎が15代目・市村羽左衛門、九龍山浪右衛門が3代目・市川左団次、四ツ車大八が2代目・実川延若。下左は、め組の辰五郎が当たり役だった市村羽左衛門のブロマイド。下右は、3代・国貞と2代・広重の合作浮世絵「芝神明生姜市」で、人物の背後に「だらだら(太々)餅」を売る参道の大見世が描かれている。