国会議事堂がほぼ完成したころ、上落合1丁目470番地(吉武邸が建設されたころは上落合469番地)の吉武東里邸Click!へ大分新聞の記者が取材に訪れ、議事堂を建設する際の経緯やエピソードについてインタビューしている。無事に仕事をやりとげたばかりの吉武東里は、郷里の新聞記者を迎えリラックスした様子で取材を受けている。
 国会議事堂は、1893年(明治26)5月に衆議院書記官長だった水野遵(じゅん)と貴族院書記官長だった金子堅太郎が、当時の内閣総理大臣である伊藤博文Click!あてに出した「議院建築上申書」から、支柱となる鉄筋が組みあがった1927年(昭和2)4月7日の棟上式まで都合34年、棟上式から1936年(昭和11)11月の竣工まで9年が経過している。建設の着工から竣工までは丸18年、初期計画の段階から竣工までは実に50年余がたっていた。1890年(明治23)第一次仮議事堂の時代から数えても、すでに46年もの歳月が流れている。
 帝国議会議事堂(現・国会議事堂)の建設について、両院の書記官が1893年(明治26)に首相あてに作成した上申書の一部を、渡鹿島幸雄様Click!よりお送りいただいた『帝国議会議事堂建築報告書』(大蔵省営繕管財局編纂/1938年)の資料から引用してみよう。。
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 而シテ其計画ノ順序ハ、議院ノ製図ヲ募集又ハ調製スルヲ以テ第一トス、其製図確定セサレハ、設計方法及費額等ヲ定ムルコト能ハス、況(いわん)ヤ議院ノ製図ノ如キハ、欧米建築技師ト雖モ、未タ一定ノ考案ナキカ如キ一大難事ナルヲヤ、故ニ今日先ツ本議院建築ノ議ヲ決定セラレ、普ク世間ニ広告、懸賞問題トシテ、内外国人ヨリ議院ノ製図ヲ募集シ、内務省ニ於テ之カ調製設計ニ著手(ママ)スルコト目下ノ急務ナリト信ス、依テ此段及上申候也
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 国立公文書館を調べてみると、金子堅太郎による第一次仮議事堂の資料や、水野遵による日清戦争中の広島臨時仮議事堂に関する資料を、いくつか見つけることができる。
 

 帝国議会議事堂が、ようやくその全貌を周囲へ見せはじめた竣工の年、1936年(昭和11)2月26日には“原理主義的社会主義”を唱える陸軍皇道派の将校たちによる二二六事件Click!が勃発し、市内全域に戒厳令が発令・施行されている。その間、吉武東里たちは工事どころではなかっただろう。吉武は大雪の朝Click!、山手線や西武線が動いていないため出勤できず、上落合の自宅にいただろうか?(午前中は、電車が運休していたとする記録が多いが、実際に乗って通勤・通学した方が大勢いる) それとも、わたしの祖母がそうしたように通りがかりの円タクで、大蔵省へと駆けつけているだろうか? 当時の蔵相は、赤坂の自宅で殺害された高橋是清だった。
 吉武邸からわずか100m余のところ、邸の隣家だった野々村金吾邸(戦後は落合第二小学校)の南側の上落合1丁目512番地には、蹶起将校のひとりである竹嶌継夫中尉Click!の家があった。また、吉武邸から北北東へ500mほどの下落合3丁目1146番地の佐々木久二邸Click!には、官邸を脱出した岡田啓介首相Click!が身をひそめていたのを、当日の吉武東里はおそらく知らない。
 わたしの祖母と、千代田小学校Click!の生徒だった親父は二二六事件の朝、円タクを雇って日本橋から竹橋、霞が関、溜池、赤坂周辺を兵士の「誰何」Click!に何度か停車させられながらめぐっているので、おそらく竣工間近な帝国議会議事堂の姿も車窓から目にしているだろう。工事は、二二六事件で少なからず遅れたにちがいないのだが、同年の11月の竣工式Click!になんとかこぎつけることができた。その前の月、1936年(昭和11)10月に大分新聞の記者が吉武邸を訪れ、インタビュー取材を行っている。10月28日に掲載された、同紙の記事から引用してみよう。
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 (前略)東国東(くにさき)郡来浦町出身の吉武東里氏(吉武郁爾氏長男)は、嘗て宮内省東宮御所御造幣に奉仕、貢献したる近代建築界の名匠で、新議事堂着工と同時に大蔵省営繕管財当局が、未曽有の大建築に鑑みて特に懇請、主任技師として重任に当らしめたものである 二十五日記者は写真班を携へて淀橋区上落合一の四七〇吉武氏邸を訪ふと、折よく快晴の日曜に盆栽の手入れ中だつた氏は「いやァわざわざ、別に苦心談なんてなんにもないがね」と稍々薄くなつたざんぎり頭に手をおいて快よく記者を応接室に招じた----
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 ・・・という出だしのインタビューは、議事堂設計のコンペティションの段階から竣工にいたるまで、おおよそ全体の経緯が語られているので、かなりの長時間にわたる取材だったと思われる。吉武東里は、世界の建築史上でも例がない特徴として、以下のように語っている。

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 僕が一番苦心した点、即ち此議事堂の最も変つた点、或は誇つていゝ特徴といふか・・・それは便殿と中央大ホールである、形態を以ていふならこれに類するやうな建築が世界史上前例が無いのである、なほいへば調度、内部装飾等が総て日本古来の趣きを以て現はしてあることである 従来世界一と称せられて居た大英帝国国会議事堂にしても、コヂツク (ママ) 建築を以て十二年、然るに日本新議事堂は、近代ルネツサンスの粋をあつめて最進歩の建築工程を辿つてなほ十八ヶ年半を要した、敷地二万坪、建坪五千七百坪、総建坪一万五千七百八十坪の全容積で旺盛な四本の列柱大玄関に向つて右は貴族院、左が衆議院である、一階事務所、二階政府委員室、三階職員室並に会議室となつて居り議席は貴族院四六〇名、衆議院四六六名分であるが将来増員の場合を考慮に容れて最大限六三五の議席が各準備されて居ります
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 現在の議員数は、向かって右の参議院が242席、左の衆議院が480席となっている。竣工当時に比べれば議員総数は減っているが、衆議院の議席数は逆に増えている。チープガバメントの観点から、衆議院の議員数が多すぎるという批判がたえないのは周知の事実だ。
 また、用いられた建築資材や部材などの調達についても、一般建築の既製品が存在しないため、吉武は製造や入手の苦心談を披露している。
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 今日完工して見れば何でもないやうですが大体骨組みの出来上るまでの営繕管財局の苦心は非常なもので、このため八幡製鉄所では新たに工場を造るなどといふやうなこともあり、材料にしましても全部国産の建前から朝鮮、台湾等全国から集められ、現に議院石などゝいふ名前も出来て居ります、大理石でも広く探して見れば却々(なかなか)良いのがあるもので、山口、徳島、高知、茨城等には殊に良質なものがそのため尠からず発見されました、或はシヤンデリヤの具台或は換気、さては新聞社の原稿発送機関に至るまで、細かく申上ぐれば苦心の結晶でないものはありません、然し自分としてはたゞ大局的に主任技師としての責を果したまでゞ営繕管財局諸員一同の協力と、一方これに細部的に携つた延人員二百五十万といふ多数の人々の努力に依つて初めて完工したものであります、
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 「植込みの方も既に綺麗に出来上りましたしサボテン、芝生等の紅緑すつきりした中に地上二百十六尺の塔上に登れば東京湾は脚下に、遠く富嶽と対することが出来ます」と語る吉武東里だが、わたしは中央塔からの展望の記憶がない。国会議事堂は、子どものころ二度ほど見学したことがあるが、塔上へのぼらなかったのか、あるいは周囲の建物に遮られすでに展望がきかなくなっていたものか、見通しがよかった憶えがないのだ。もっとも、1960~70年代の東京はスモッグがひどく、中央塔へのぼったとしても富士山はおろか、東京湾も見えたかどうか怪しいのだが。

◆写真上:1936年(昭和11)10月26日に、上落合の吉武邸で撮影された家族写真。応接室の壁に架けられている静物画らしい作品は、吉武東里本人による制作Click!だろう。
◆写真中上:上左は、貴族院の書記官長・金子堅太郎と衆議院の書記官長・曾禰荒助による第一次仮議事堂改築に対する参観告知。上右は、1894年(明治27)の広島仮議事堂建設に関する陸軍用地借用照会。下は、1890年(明治23)11月に竣工した第一次仮議事堂。
◆写真中下:1936年(昭和11)10月28日の大分新聞に掲載された吉武東里インタビュー。
◆写真下:上は、1927年(昭和2)4月7日に鉄骨が組みあがった段階で行われた上棟式。吉武は「右木綿綱付」として、前から4人目にいる。下は、中央広間(左)と参議院本会議場(右)。