以前、神田川(旧・平川)沿いの丘陵あるいは斜面、低地などに「百八塚」Click!の伝承が残り、無数の塚=古墳が存在していたのではないかというテーマで、いくつかの記事を書いてきた。その中で、東側の「丸山」Click!(御留山の麓あたり)と西側の「摺鉢山」Click!(聖母坂下あたり)という典型的な古墳地名にはさまれた、下落合氷川明神社も古墳を整地して築かれているのではないかと仮定してきた。また、上落合には「大塚」という古墳地名も残り、実際に山手通りの建設で崩されるまで浅間塚古墳(落合富士)Click!が存在してきたことからも、古代には「古墳群」と名づけてもいいような、塚の密集地帯ではなかったかと想定している。この“密集”状況は、神田川沿いの戸塚(富塚=十塚)Click!あたりから大久保地域Click!まで、古墳跡が連続してつづいているように見える。
 今回は、東京にある氷川明神社の中で、実際に古墳の墳丘が整形されたものであることが、発掘調査や玄室の出現、埴輪の出土、玄室に使われた房州石の確認などで考古学的に証明されており、その上に社殿が建立されている例を見ていこう。下落合や高田と同様に、それぞれ土地の名前をとった「〇〇氷川神社」(明治期以降の呼称)と命名されてはいるものの、それにかぶせて境内全体が古墳名として呼ばれている聖域だ。
 南関東の古墳では、玄室の石組みに房州石(千葉県南部産で貝化石が混じる凝灰質砂岩)が用いられることが多く、古墳専用の石切り場が房総半島の先端部に存在し、石材をおそらく水運によって関東各地へと供給していたことが知られている。房州から運ばれた石材は、専門の石工集団や古墳設計者によって加工され、南関東に展開する古墳群に使用された。社(やしろ)の境内にあった巨石が、従来は縄文期の遺物、あるいはそれ以前の巨石信仰の名残りであるメンヒルと考えられていたものが、調べてみると房州石であることが判明し、古墳の玄室に用いられた石材の一部だと規定された例も多い。ただ、国分寺崖線や府中崖線に連なる古墳では、房州石ではなく同地域の地中から露出した、やわらかい凝灰質砂岩が用いられているケースもあるようだ。
 さて、東京の丘陵地域はともかく、低地に古墳が次々と発見されたのは、皇国史観Click!の呪縛から解放され、少なくとも科学的に古代史がとらえられるようになった、おもに戦後になってから(ここ60年ほど)のことだが、足立区の毛長川あるいは綾瀬川の流域が“古墳の巣”のような状況であることが判明したのは、1980年代後半になってからのことだ。もちろん、バブル経済のさなかだった当時、マンション建設などの再開発が進み、その工事の過程で次々と古墳が出現したからだ。現在では、すべてが住宅街の下になってしまっているが、地名や塚名だけを挙げても、摺鉢塚や駒形塚、庚申塚、兜塚、二本松塚などの古墳が確認されている。
 同地の入谷氷川明神になっているのが、足立区入谷にある「白幡塚古墳(入谷古墳)」だ。この氷川明神の歴史は新しく、それまでは墳丘に八幡が奉られていたことから「八幡塚」ないしは「八幡山」と呼ばれていたらしい。氷川社が勧請されたのは、近代になってからのことだ。古墳の形式は、直径が30mほどの小規模な円墳で、時代的には弥生末期から古墳時代初期の遺跡とみられている。白幡塚古墳の近くには、より歴史が古く由来が不明な伊興氷川明神と、鎌倉期に勧請された舎人氷川明神とがあるが、いずれも古墳上に造営された氷川社だ。
 
 
 足立区東伊興にある伊興氷川明神は、古墳時代には旧・入間川の流域だった地域に建ち、沿岸に築かれた円墳「伊興氷川神社古墳」の上に築かれている。もともと土台となった円墳からは、さまざまな古墳期の遺物が出土しており、副葬品と思われる鏡など古墳特有の祭祀遺物が発見された。のち氷川明神が築かれるときに円墳は崩され、方型に整形されたとみられている。伊興氷川神社古墳に接した東隣りには、金塚古墳があったという伝承が残る。
 もうひとつ、旧・利根川水系だったとされる毛長川の沿岸には、鎌倉期に大宮氷川社からスサノオが勧請された舎人氷川明神がある。この氷川社も、古墳期の円墳と思われる塚上に築かれたものだとの伝承が残っている。周辺には、弥生期から古墳期にかけての集落跡や方形周溝墓の遺跡が密集している地帯だ。現在では、墳丘がまったく残っておらず、鎌倉期に氷川社を勧請した時期にすべて崩されてしまったとみられている。
 氷川社ではないが、足立区東伊興から南へ8kmほど下がった、荒川区南千住の千住大橋南詰めに建立されている、同じ出雲神のスサノオ社(素戔嗚神社)も古墳上に築かれた社ではないかとみられ、考古学的には「素戔嗚神社古墳」と呼ばれている。スサノオ社の伝説では、小山から出現した奇岩を霊場として修験者が参拝していたところ、突然奇岩が光り輝きスサノウ命などの神々が出現した…ということになっている。この奇岩が現われた小山へ、江戸期に富士山の熔岩を運んで富士塚Click!が造営されている。現存する「奇岩」の一部を調査したところ、玄室に多用される房州石であることがわかり、境内全体が古墳らしいことが判明した。おそらく、墳丘の一部が崩れで玄室が出現し、その石組みの異様さから中世に霊場とされていたのだろう。古墳の形式は不明だが、伝承などからおそらく円墳ではないかと推定されている。
 

 さて、もうひとつ面白い現象が東京の西側、大田区田園調布に見られる。田園都市株式会社Click!が、田園調布の街並みを開発する際に、古墳と思われる遺跡を数多く崩しているのは有名なエピソードだが、「観音塚古墳」もそのひとつだ。同古墳の残滓は住宅街の真ん中にあり、戦後の1947年(昭和22)になってようやく本格的な発掘調査がされた。結果、埴輪や鉄剣、馬具などが多数出土し、50m前後の規模の前方後円墳であることが確認されている。だが、同古墳が聖域として信仰を集めていたのは江戸時代からだった。出土した人物形埴輪を、当時の人々は「観音様が出現した」ととらえ、墳丘の頂上に「観音塚」として祀っていた。
 同じく田園調布の街中には、墳丘が宅地化ですべて崩された「浅間様古墳」がある。明治期のスケッチから円墳と規定されているが、江戸期になって羨道から玄室への横穴に八幡神(大日如来)を祀ったことから、「お穴様」あるいは「穴八幡」と呼ばれていたようだ。
 もう、お気づきだろう。これらの逸話から、すぐに想起されるのが江戸期の戸山ヶ原「洞阿弥陀」Click!だ。山の斜面に空いた洞窟に、「仏像」が祀られていたということだが、斜面が崩れてあらわになった玄室ないしは羨道へ、その場から出土した人物形埴輪を祀っていたのではないか…との想定が、観音塚古墳のケーススタディから垣間見える。戸山の洞阿弥陀も、いまではすべて住宅街の下になっているので確認するすべはないのだが、房州石の痕跡でも残っていないだろうか。
 そして浅間様古墳の八幡神からは、高田八幡Click!に出現した古墳の羨道ないしは玄室を思い出す。この事跡により、同社が江戸期から“穴八幡社”と呼ばれるようになったのは、田園調布の浅間様古墳とまったく同じケースだ。穴八幡宮が、200mクラスの前方後円墳であることを疑う人は多いが、同社の北側に高田富士Click!に衣替えされていた富塚古墳Click!(100m前後の前方後円墳)の存在からも、その可能性はきわめて高いと思われる。房州石で造られた富塚古墳の羨道および玄室は、甘泉園の西へ移転した水稲荷社の本殿裏に保存されている。これらの事例や傍証により、神田川沿いの丘上や斜面、または低地には古墳群が密集していた感触を強くおぼえるのだ。


 東京の街中で、“タタリ”の伝承に出会うことがある。「あそこはお化けが住む、おっかない場所だから近づくな」というように、古代の墓域や霊域のようなエリア周辺に多いのだが、そのような場所を発掘調査すると古墳の遺物が出土するケースも数多い。大手町の将門塚古墳(柴崎古墳)Click!などが好例なのだが、下落合とその周辺域で、あるエリアや地点をめぐるタタリの伝承はないだろうか? そして、あまり神田川流域では見かけない、どこか細工をしたような板状の房州石が、落合地域にある寺社の境内にひっそりと保存されてやしないだろうか。下落合を散歩していて、「タタリじゃ~、明神様がお怒りじゃ~!」というような巫女さんにはかつて追いかけられたことがないので、下落合氷川明神にはタタリの伝承はなかったように思われるのだが。w
 「丸山」」や「大原」、「前谷戸」など下落合とソックリな地名相似が見られる、飛鳥山から滝野川にかけての丘陵地域も、あちこち古墳だらけなのだが、それはまた、別の物語…。

◆写真上:千住大橋のすぐ手前にある、荒川区南千住のスサノオ社(素戔嗚神社古墳)。富士塚に使用されていた富士山の溶岩が、狛犬の台座に流用されている。
◆写真中上:上左は、毛長川の流域にある入谷氷川明神社(白幡塚古墳=入谷古墳)。上右は、同じく伊興氷川明神社(伊興氷川神社古墳)。下左は、同流域にある舎人氷川明神社(舎人氷川神社古墳)。下右は、冒頭写真のスサノオ社(素戔嗚神社古墳)の本殿(左側)。
◆写真中下:上は、下落合の字である丸山と摺鉢山(大正期以前に使用された字)にはさまれた氷川明神社。下は、1936年(昭和11)の空中写真にとらえられた同社。
◆写真下:上は、1947年(昭和22)に撮影された下落合氷川明神の焼け跡。境内を斜めに横断する小道は、宝永年間のあとに設置された用水路の痕跡だと思われる。下は、1960年(昭和35)に撮影された摺鉢山(左)の円形と、釣鐘の形状を残す下落合氷川明神社の境内。