わたしの友人のお宅から、陸軍士官学校で配布(有償)された写真類がまとめて見つかったので、順次ご紹介していきたい。こちらでも、陸軍士官学校(以下「陸士」)の学生たちが演習で作成した戸山ヶ原Click!の地形図Click!や、市ヶ谷にあった校舎Click!の写真はご紹介しているけれど、陸士内部の様子を含めた写真類を目にするのははじめてだ。
 陸士は、1937年(昭和12)に市ヶ谷から座間へ移転しているが、航空機の軍事的な有効性が決定的になりつつあった翌1938年(昭和13)、所沢に陸軍航空士官学校が増設されている。陸軍の所沢飛行場近くに設置されたもので、こちらの記事でも西武鉄道の貨物線を利用して所沢地域で実施された、航空機や観測気球の移動・運搬演習Click!の陸軍文書をご紹介している。当時の陸士は、座間の本科で基礎を学習したあと専攻別に分かれて進学したようで、その方は陸軍航空隊の士官になるために、所沢の陸軍航空士官学校へ進まれている。
 発見された写真は、いずれもネガから印画紙へと焼かれた“生”写真で、戦闘の記録から陸士内部で行われた演習のスナップ写真にいたるまで、その種類は多岐にわたっている。1941年(昭和16)12月からはじまる太平洋戦争の最中に、陸軍航空士官学校へ在籍されていた関係から、実際に行われた戦闘写真は海軍報道部によるものが圧倒的に多い。なぜ陸士なのに、海軍の戦闘写真が多数配布されているのかは、所沢が陸士の「航空」専科である点に留意したい。太平洋戦争の緒戦では、海軍の機動部隊や航空隊による戦果が圧倒的だった。制空権のない戦闘は必ず敗れることを、海軍が次々と実際に“証明”して見せていたからだ。
 ここに掲載した陸士配布の写真は、1942年(昭和17)の前半に行われた海軍の戦闘記録だ。写真は数枚がセットになり、画面解説の紙片も添えられているのだが、今日の目から見れば艦名などの解説には誤りも多い。写真は、1942年(昭和17)2月末から3月初頭に行われたスラバヤ沖海戦(ジャワ沖海戦)と、同年3月末から4月にかけて実施された第一航空艦隊(南雲機動部隊)のインド洋作戦の様子を撮影したものだ。スラバヤ沖海戦では米英蘭豪海軍のにわか寄せ集め艦隊を破り、インド洋作戦では英海軍の旧式空母や重巡洋艦を沈め、先年暮れのマレー沖海戦の2英戦艦の撃沈とともに、日本国内では「米英恐るに足らず」と浮かれていた時期と重なる。
 おそらく、陸軍のエリートである陸士内部でも海軍の戦果に瞠目し、改めて近代戦に航空戦力が不可欠であることを認識しただろう。だが、クールかつ論理的に連合軍側の国力や生産基盤、技術力の差を正確に分析し、また保有資源の圧倒的な落差や海上輸送の脆弱性などを危惧する視点は、「勝利」の酔いと「愛国」の感情、「勝った勝った」の提灯行列の波で急速に薄れ、かき消されてしまったのだろう。事実、この写真を所有している陸士卒の将校だった方は、「次はニューヨーク爆撃だ!」とはしゃいでいた大まちがいを率直に告白している。むしろ英米と開戦し、その戦争が少しでも長引けば、それだけ敗戦へのリスクClick!が急激に高まることを開戦前から認識・指摘しつづけていたのは、陸軍よりも海外事情に明るい海軍部内Click!に多い。
 
 さて、まず航空戦ではなく海上戦の写真から見ていこう。冒頭の写真は1942年(昭和17)3月1日の、艦同士による砲撃戦の模様だ。重巡洋艦(以下「重巡」)の「足柄」と「妙高」の砲撃を受け、また搭載の爆薬で15時30分に自沈する米海軍の駆逐艦「ポープ」を撮影したものだ。(写真①) ジャワ海から脱出する英海軍の重巡「エクゼター」を英駆逐艦「エンカウンター」とともに護衛していたのだが、日本の重巡部隊に補足され英米の混成艦隊は全滅した。「ポープ」は、これだけの砲撃や雷撃を受けながら戦死者1名という幸運艦で、沈没後は「エンカウンター」とともに乗組員の多くが、駆逐艦「雷(いかづち)」と「電(いなづま)」に救助されている。
 写真②は、米駆逐艦「ポープ」の沈没に先立つ2時間前、同日の13時30分に駆逐艦「雷」の雷撃と重巡「足柄」「妙高」の砲撃で、右舷から転覆・沈没する英重巡「エクゼター」を偵察機からとらえたものだ。この写真は、少しあとの南雲機動部隊による英空母「ハーミズ」の撃沈写真とともに新聞や雑誌などでも広く報道され、当時を知る方には見憶えのある画面ではないだろうか。
 写真③④は、1942年(昭和17)4月5日の午後、、第一航空艦隊(南雲機動部隊)がインド洋作戦を展開中に撮影されたもので、日本の機動部隊の艦爆機に攻撃されて沈没する英重巡「ドーセットシャー」をとらえた連続写真だ。セイロン沖海戦と呼ばれる戦闘では、改装工事中の「ドーセットシャー」に随航していた英重巡「コーンウォール」も、同時に撃沈されている。(写真⑤⑥)
 
 
 この2艦の沈没により、連合軍側の東洋艦隊はほぼ無力化し、4月9日に南雲機動部隊はセイロン島(現・スリランカ) トリンコマリーにある港湾の英軍基地や飛行場を爆撃している。その爆撃の最中に、偵察機から空母艦隊発見の報が南雲機動部隊にもたらされた。セイロン島から避難する英空母「ハーミズ」と、護衛するオーストラリア駆逐艦「ヴァンパイア」の2艦だった。
 その一報が入電したとき、ミッドウェー海戦で見られる逡巡に似た状況が南雲艦隊に生じている。空母発見の報で、空母「飛龍」の山口多聞は旗艦の空母「赤城」にいる艦隊司令官・南雲忠一あてに、「タダチニ攻撃隊発進ノ要アリト認ム」と信号を送るがほどなく却下された。艦載機が、セイロンの英軍基地への第2次攻撃用として陸上攻撃用の兵装をしていたからで、艦船攻撃用の兵装へ転換してから英空母「ハーミズ」への攻撃に向かわせることになった。
 その兵装転換の最中に、南雲機動部隊は英軍基地から飛来したウェリントン爆撃機による奇襲を受け、危うく攻撃を回避している。この英爆撃隊の接近を、南雲艦隊はまったく気づいていなかった。同じような状況が2ヶ月後のミッドウェー海戦で起き、南雲機動部隊は致命的なダメージを受けることになるのだが、このときはまだ誰も想像だにしえなかっただろう。同日、英空母「ハーミズ」(写真⑦⑧)と豪駆逐艦「ヴァンパイア」は撃沈された。「ハーミズ」は修理中のため艦載機を1機も搭載しておらず、まったく反撃ができなかった。「ハーミズ」が沈没する写真も、海軍報道部から新聞社や雑誌社などへ広く配布されたので、ご記憶の方も多いのではないかと思われる。
 

 陸軍航空士官学校で配布された写真は、緒戦において航空機の優位性を如実にしめした海軍偵察機撮影によるものが多い。このほか、さまざまな演習や飛行訓練写真、記念写真、スナップ写真などが配布されているのだが、機会があればまたご紹介してみたい。ただ、このような記事がつづくと、あたかも軍事マニアのようなサイトになってしまうので、少しためらわれるのだが…。

◆写真上:1942年(昭和17)3月1日に、ジャワ島の沖で砲撃を受ける米駆逐艦「ポープ」(①)。陸士配布のキャプションでは、米駆逐艦「ジョン・ジョーンズ」と誤認されている。
◆写真中上:左は、「ポープ」と同日に撃沈された英重巡「エクゼター」(②)。右は、陸軍航空士官学校で撮影されたと思われる陸軍偵察機に搭載された記録撮影用機載カメラ。
◆写真中下:上は、1942年(昭和17)4月5日に南雲機動部隊の攻撃で沈む英重巡「ドーセットシャー」(③④)。下は、同日に「ドーセットシャー」に随航して撃沈された英重巡「コーンウォール」(⑤⑥)。沈没の渦に巻きこまれないよう、必死で泳ぐ乗組員たちの姿がとらえられている。
◆写真下:上は、1942年(昭和17)4月9日に南雲機動部隊の攻撃で沈没する英空母「ハーミズ」(⑦⑧)。下は、陸軍航空士官学校で配布された写真ではなく、当時は非公開のインド洋作戦で撮影された第一航空艦隊(南雲機動部隊)。旗艦の「赤城」から後続する単縦陣の空母艦隊を撮影しており、「赤城」の右舷には空母「加賀」が並航していると思われる。単縦陣に写る艦は、前から空母「蒼龍」「飛龍」、高速戦艦の金剛型4隻(おそらく戦艦「比叡」「霧島」「榛名」「金剛」の順)、空母「瑞鶴」「翔鶴」だろうか。おそらく、軍艦ヲタクなら見飽きない1枚だろう。