先日、中野たてもの応援団の十川百合子様よりご連絡をいただき、中野区の鷺宮に1934年(昭和9)11月1日竣工の三岸好太郎・三岸節子アトリエが現存していることを知った。三岸好太郎は大正末から昭和初期にかけて、フォーブからシュルレアリズムへと突き進む洋画界の“鬼才”といわれる画家であり、三岸節子は戦前・戦後を通じて日本を代表する女流画家として高名だが、落合地域との直接のつながりはほとんどない。ところが、過去にこちらでも何度か記事に取りあげているけれど、間接的には落合地域とのつながりがきわめて濃厚な画家たちなのだ。
 まず、下落合に住んだ里見勝蔵Click!や前田寛治Click!、林武Click!あるいは実家があった小島善太郎Click!に外山卯三郎Click!、そして佐伯祐三Click!たちが結成した1930年協会Click!の発展的な解散後、独立美術協会が改めて結成されるが、三岸好太郎はその発起メンバーのひとりだった。落合地域には、独立美術協会へ作品を出品した林重義Click!や川口軌外Click!などの画家たちが数多く住み、曾宮一念Click!もそのひとりだった。
 上落合にあった牧舎風のアパート「靜修園」Click!や、下落合の目白文化村Click!の敷地内に建っていたモダンなアパート「目白会館」Click!には、独立美術協会へ出品をめざす画家たちが住みついて部屋をアトリエがわりに使用しては制作をつづけていた。特に佐伯祐三アトリエClick!の西130mほどのところ、第三文化村の敷地内にあった「目白会館」には、独立美術協会の本多京や、近くにアトリエClick!があるにもかかわらず曾宮一念も、一時期暮らしている。
 三岸好太郎は1921年(大正10)3月、東京美術学校(建築科)に合格した親友の洋画家・俣野第四郎とともに札幌から東京へやってくると、一時的に目白台や雑司ヶ谷、上戸塚(現・高田馬場)、巣鴨などの下宿を転々としている。そして働きながら、休日になると下落合や池袋などの郊外風景を写生して歩いていた。当時の画風は、岸田劉生Click!を中心とした草土社Click!風のものが多かった。その様子を、1969年(昭和44)に出版された田中穣『三岸好太郎』(日動出版)から引用してみよう。
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 日曜や泊まりあけの日というと、板橋、池袋、高田馬場、下落合あたりの写生に出かけた。昔をいまに呼びおこす名残りさえいまの東京にはなくなったが、当時のその辺の風景は点在する藁屋根と茶畑の連なりであった。札幌出のかれには桐の木なども珍らしく、好んでスケッチしたものだといわれるが、朝からの写生のあとは決まって神田に行った。
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 三岸好太郎が制作した『オーケストラ』あるいは『新交響楽団』シリーズのモチーフは、下落合の目白中学校Click!の東隣り、近衛新邸Click!に兄・文麿とともに住んでいた近衛秀麿Click!が率いる新交響楽団(新響)Click!であり、三岸好太郎も目白の愛人とともに聴いたであろう日比谷公会堂の演奏会は、上落合の村山知義Click!の妻・村山籌子Click!が自由学園を介してひそかにチケットをとどけたらしい小林多喜二Click!も聴いている。また、三岸好太郎と三岸節子の共通の友人として、アビラ村(芸術村)Click!に住んだ吉屋信子Click!が、第一文化村の北側にあったアトリエへ足しげく通った、下落合の中出三也Click!と甲斐仁代Click!がいる。さらに、こちらでも林重義や佐伯祐三関連で記事を書いた伊藤廉Click!も独立美術に参加しており、またわたしの東京弁がらみでご紹介した子母澤寛Click!は、三岸好太郎の異父兄にあたる。すなわち、三岸好太郎の生涯を追いかけていると、どこかで落合地域の画家や人物たち、あるいは当サイトの記事と色濃くつながってくるのが面白い。
 
 
 また、三岸節子も落合地域や隣りの上戸塚地域とのつながりが濃い。まず、松下春雄Click!や鬼頭鍋三郎Click!らが名古屋で結成した画会「サンサシオン」Click!へ、愛知県起町出身の三岸節子は作品を出展している。「サンサシオン」の主要メンバーたちは、大正期後半から昭和初期に落合地域へ次々と集合しはじめるが、三岸節子はどこかで彼らとの接点をもっていただろう。
 さらに、落合地域の南にあたる上戸塚には、戦後に女流画家協会をいっしょに起ちあげた藤川栄子Click!のアトリエがあった。三岸節子が「可愛い人」Click!と表現する藤川栄子との友情は、1983年(昭和58)に藤川栄子が死去するまで変わらなかった。同年の夏、ふたりはほぼ同時にそろって入院しており、お互い電話をかけて励まし合っていたが、藤川栄子は不帰となり三岸節子は回復している。藤川栄子は、1930年協会展にも作品を出展しており、佐伯祐三アトリエを頻繁に訪れては、佐伯や妻の米子とともにイーゼルを並べて制作Click!している。戦後、女流画家協会の発起人に佐伯米子Click!が加わっているのは、藤川栄子のつながりだろう。
 まだまだ細かなところで、三岸夫妻と落合地域とのつながりは色濃いのだけれど、わたしの個人的なつながりとしては、湘南の大磯Click!というテーマもある。1964年(昭和39)から、三岸節子は大磯町の通称「代官山」と呼ばれる丘陵にアトリエをかまえていたので、わたしは子どものころハイキングで近くを何度となく歩いている。「有名な画家のアトリエがある山」として地元では知られており、高麗山Click!から湘南平Click!(千畳敷山)、さらに高田保公園Click!へと抜けるコースのついでに、代官山まで足をのばすことがあった。つまり、小学生から中学時代のわたしは、期せずして三岸節子と静寂で光まばゆい大磯風景を共有していたことになる。彼女の大磯に対するイメージを、1977年(昭和52)に求龍堂から出版された、三岸節子『花より花らしく』から引用してみよう。
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 私は大磯に移り住んで太陽画家となった。風景画への開眼はここで初めて可能となり、静物に、花に、太陽が必ず登場する。/太陽こそ生命。エネルギーの源泉。活力源。/樹木が太陽に向って手をさしのべるように、視界いっぱいの蒼穹、両手をさしのべて太陽賛歌に欣喜雀躍する。/ここで私は、とびきり明るく、快活で、自由で、奔放になる。
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 さて、前置きがたいへん長くなってしまったが、鷺宮に現存する三岸アトリエのテーマにもどろう。三岸好太郎は、1929年(昭和4)に田畑が拡がり茅葺き屋根の農家が点在する、西武電鉄Click!沿線の旧・野方村上鷺宮407番地にアトリエをかまえている。これが、第一アトリエと呼ばれる初期アトリエで、現存する1934年(昭和9)築のアトリエの北側に建っていたものだ。
 つづいて敷地の南側に、よりモダンで最先端のアトリエを建設しようと、ドイツの美術・建築の総合教育機関であるバウハウスの留学から帰国した、建築家・山脇巌に設計を依頼している。山脇巌は、三岸好太郎と打ち合わせをするたびに、アトリエのデザインが次々と変更になるので設計にはかなり苦労したらしく、都合3回も図面を描きなおしている。その様子を、1942年(昭和17)にアトリエ社から出版された山脇巌『欅』所収の、「三岸好太郎氏の画室」から引用してみよう。
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 話しのはじまつたのは今年(1934年)の三月頃だつたらうか、決定までに三回ほど図面を引き直して見せた。旅行から還るとその度毎に三岸氏らしい新しい夢を持つて帰つて来る、話しを聞くと面白い、必然性がないだけに理屈でむげに退けられない。この考へを入れてもう一案と、つい自分にも慾が出る。最後の決定案が出来たのは名古屋へ立つ前の晩だつた。施工を請負ふN氏も、その晩は一緒に話しを聞いて貰つた。限られた多くない予算で、相当豪奢な気持の三岸氏の要求にそふ為予算の割当てに三四日を要した。/四月号の雑誌「アトリエ」に氏の話として『----こんどのアトリエは北に壁をつけて他の三面は全部ガラスにしてしまふ----ガラスの建築をやらうと思つて居る----』 三岸氏一流の考へも、木骨構造には困難を伴ふが曲りなりにも少しは希望を入れる事が出来た。/画室の中にはスパイラルの階段を必ずつけて貰ひたいと、ずつと以前から云つてゐた。この螺旋階段には少なからず魅力を感じて居たらしい。階段の途中から仕事を見下すのはいゝもんだよ、このあたりには氏の持つ芝居気が見える。(カッコ内は引用者註)
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 三岸好太郎は、自身でアトリエの完成予想イラストを描きながら、細かな要望を山脇に伝えていたようだ。一見するとコンクリート建築のように見え、当時の美術誌などでは「コンクリート」と書かれている記事もあるが、昭和初期としては超モダンな木造モダニズム建築であり、下落合に多く建っていた尖がり屋根のアトリエ建築とは本質的に異なっている。

 
 しかも、メインの採光窓が北側ではなく南側にあり、アトリエ建築としてはきわめて異色なデザインをしている。では、アトリエ内部を拝見してみよう。三岸好太郎・三岸節子アトリエに到着すると、さっそく玄関でお迎えくださったのは、三岸夫妻の長女である陽子様の長女・山本愛子様だ。
                                                 <つづく>

◆写真上:旧・上鷺宮407番地に現存する、モダニズム建築の最先端を体現した三岸アトリエ。
◆写真中上:上左は、北海道札幌にある道立三岸好太郎美術館Click!に収蔵されている三岸好太郎『自画像』(1921年)。好太郎の主要作品の多くは三岸節子が買いもどして保管し、のちに寄贈を受けた同美術館に収蔵されている。上右は、愛知県一宮市にある三岸節子記念美術館Click!の三岸節子『自画像』(1925年)。観るものに切々と訴えるような気迫が感じられ、のちに同作を観た吉武輝子や澤地久枝が節子をテーマとした評伝を出版している。下は、建築当初に撮影された三岸アトリエを南側から見た外観で、南面する巨大な窓(左)と池があった東側テラス(右)。
◆写真中下:上左は、現在はアルミサッシに取り替えられている南面の窓を下から。上右は、三岸好太郎がこだわった建築当初のままの螺旋階段。階段上の中2階は書斎兼書庫で、その真下には応接スペースがあった。下は、竣工直後の外観(左)とアトリエ内部(右)の様子。壁面には、好太郎の晩年作である1934年(昭和9)制作の『海と射光』と『雲の上を飛ぶ蝶』が見える。
◆写真下:上は、1934年(昭和9)のアトリエ着工前後に描かれた三岸好太郎の素描『アトリエ』。下は、現在のアトリエにある玄関(左)と、手づくりのドアノブがめずらしい玄関ドア(右)。