三岸好太郎・節子夫妻のアトリエ記事をスタートしたところで、当サイトの読者がのべ700万人を超えた。いつも記事をお読みいただき、ほんとうにありがとうございます。最近、ビジターの目立つ記事は、やはり中村彝アトリエ記念館をめぐる関連テーマで、PVがとびぬけて集中している。三岸夫妻の記事も人気が高く、アトリエ拝見(上)をアップしてからのビジターがたいへん多い。

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 田畑が多く、茅葺き屋根の点在する東京郊外の風景に、三岸好太郎が設計した超モダンなアトリエClick!が出現したとき、周囲の衝撃は想像以上だったろう。それは、同じく田畑だらけで茅葺き屋根の農家が点在する大正期の上落合に、ポツンと村山知義Click!の異様な三角アトリエClick!が出現した以上の驚きだったのではないだろうか。光あふれる明るい画室にしたかったようなのだが、山本愛子様によればアトリエの南側に建っていた茅葺き屋根の農家2軒がよく見えるように…というのが、天井まである南側の巨大な採光窓の設置理由だったらしい。
 南に採光窓のあるアトリエは、夜間に多くの仕事をする画家には往々にしてあるそうなのだが、当時としては異色の設計だったろう。三岸好太郎は伝記を読む限り、徹夜で仕事をこなす画家だったようだ。彼は、アトリエの骨組みがようやくできた1934年(昭和9)7月に、名古屋の旅先でわずか31歳で急死してしまうため、この新しいアトリエの完成を見ることができなかった。同年11月にアトリエを竣工させたのは、好太郎の意志を継いだ三岸節子だった。
 その後、新アトリエで仕事をするのは三岸節子なのだが、彼女が制作している写真を見ると、北側にうがたれた細長い窓のすぐ下にイーゼルをすえて、できるだけ安定した光のもとで描いているのが面白い。アトリエをめぐる三岸節子の文章を、『花より花らしく』から再び引用してみよう。
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 私が名古屋で最後に別れた時、十日もたてば殆んど建築の予算の目当てもつき、帰京できると、しばしの別れと思ったのにこれが永別となってしまった。今でも廊下に消えてゆく、あの重々しい後ろ姿が目に沁みる。/さて取り残された幼い者と四人、この索漠とした空虚のなかに、この住居の前面、巨大な骨格の骨組みがおおいかぶさって、朝夕を暮さねばならないということは、なんとしても落ち着きのない不安な生活である。(中略) アトリエの姿が次第に形を整える。/壁は純白に塗られ、池は水を湛え、三岸の執着したラセン階段は銀白に塗ってとりつけられ、すべて白と黒と銀灰色に限られた色面、太陽は室内の九分通りまで光が浸してさんさんと陽光を浴びる。/池に面したテラスで鋼鉄の椅子や卓を置き、ビーチパラソルを芝生に立て、黒ガラスのファイヤプレスにガラスの卓、ガラスのお茶のセット、すべてが近代の感触ガラスずくめの夢、夢。三岸の脳裏に描いた抽象絵画の住宅化、他人ごとのようにうつけて聞いたその幻を、いま現実の姿におきかえて、私は数日茫然とできあがりゆくアトリエを眺めまわして暮れている。
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 1934年(昭和9)11月1日に完成した現存するアトリエは、当初、1階は吹きぬけの画室と応接スペース、2階には書斎兼書庫が設置されていた。また、アトリエのテラスにはハスの花を浮かべる四角い池があったそうだが、現在は1階の画室と応接室の間が壁で仕切られ、また戦後、三岸節子がフランスから帰国したあと、応接室の東隣り(テラスと池があったところ)に南欧風な暖炉のある部屋が増築されている。また、画室には2階の書斎へとのぼる螺旋階段が設置されているが、この階段は好太郎が非常にこだわったデザインで、当初のままの姿を伝えている。
 
 
 山本愛子様には、多彩なエピソードとともにアトリエ内をご案内いただいたのだが、アトリエの一隅には残されたいろいろな昔の資料類が、未整理のまま置かれていた。そのうちのひとつを手にしたとたん、ビックリしてしまった。三岸夫妻にはさまれて、佐伯祐三Click!の姪である「タヌキ嬢」Click!(久生十蘭)ことハーピストの杉邨ていClick!が写っている写真が出てきたのだ。しかも、その隣りにいるのは佐伯作品を蒐集しつづけた山本發次郎Click!に協力し、のちに『佐伯祐三画集』Click!(1937年)を編纂している國田彌之輔だ。そういえば山本發次郎も、いわゆる山發コレクションの中に三岸好太郎の作品を加えようとしていたのを思い出した。
 さて、建築当初の玄関は、テラスの前を左折し、アトリエの大きな窓ガラスの前を横切るようにして建物の西側にあった。訪問客は、まずスイレンが浮かぶ四角い池のあるテラスの前に立ち、晴れていれば陽光が池の水面に反射して、テラスの軒下にゆらめく光の影を見ながら、塀と大きな窓にはさまれたエントランスを玄関口へ向かうことになる。
 でも、このエントランスの仕様が、三岸好太郎の死後、実際にアトリエを使用することになった三岸節子には気に入らなかったようだ。なぜなら、訪問客はアトリエの南面するオープンな窓の前を横切ることになり(すなわちアトリエの中を直接のぞき見することができるので)、画室で仕事に集中する画家にとってみれば落ち着かなかったからだ。現在の玄関は、「暖炉の部屋」と呼ばれる戦後に増築された東側、元テラスや池があったところに設置されている。
 
 
 まず、山本様が説明されたのは東日本大震災による被害だった。1934年(昭和9)に竣工した、木造建築によるモダニズム・アトリエは一部の壁が剥落し、画室内の壁には大きなクラックが生じている。元・玄関の西側の外壁と天井部も被害を受け、応急の修理がなされていた。現在の東京には、このような特異なモダニズム建築はきわめて稀少であり、しかも三岸好太郎が設計・デザインし、三岸節子がアトリエとして長く利用していたかけがえのない建物なので、ぜひ保存してほしいものだ。現在、中野たてもの応援団の方々が保存活動へ取り組まれているけれど、公的な機関や自治体が保存へ向けたなんらかの施策を率先して展開すべきだと思う。個人の力だけでは、これまでの下落合のさまざまな事例を見ても、おのずと保存・維持管理には限界があるからだ。
 さて、東側の玄関を入ると、そこは三岸節子が増築した南欧風の心地よい暖炉の部屋だ。この部屋のドアに用いられている金具は、いまや入手が困難な手造りの貴重なものらしく、建築の専門家がみえると必ずカメラに収めていくとうかがった。暖炉の部屋からは、現・作業室(元・応室スペース)と花々やレンガが美しい中庭へと抜けることができる。作業室は、もともと画室つながりの応接間として設けられた空間で、壁の仕切りがなかったスペースだ。ここにも、美しい黒色の高価な石組みを用いた暖炉が設置されている。現在の画室は20帖ほどの広さだが、壁で仕切られる前の作業部屋(応接スペース)を含めると、ゆうに30帖ほどの広大な画室だったろう。
 作業室から西面のドアを開けると、いまでも十分に広いアトリエだ。まず目につくのが、三岸好太郎が設計段階から強くこだわりつづけた螺旋(らせん)階段が、南面の大きな窓に近接してすぐ左手にある。階段の重量をできるだけ減らすためだろう、中が空洞の水道用パイプを螺旋状に少しずつカーブさせて手すりにしたそうだ。螺旋階段の中央へ、タテに通された太い鉄パイプは、建物を支える支柱にはなっておらず、木造の構造上できるだけ軽量にする必要があったようだ。
 
 

 三岸好太郎が、螺旋階段にこだわった理由はなんだったのだろうか? 大正期には、草土社風で岸田劉生Click!ばりの作品を残している好太郎だが、やがてフォーブ、キューブ、さらにはシュルレアリズムと次々と作風を変えていった裏側で、彼は螺旋状の「進化」や「発展」を夢みていたのではないだろうか。次回は、好太郎が“らせん”にこだわった理由について書いてみたい。
                                                  <つづく>

◆写真上:鷺宮のアトリエでキャンバスに向かう三岸節子で、背後は北側の窓と思われる。
◆写真中上:上左は、アトリエの西側に設置された東向きの元・玄関。上右は、土台がコンクリートの三岸アトリエで東日本大震災でも支柱はゆらいでいないようだ。下左は、三岸節子が増築した「暖炉の部屋」の暖炉。下右は、三岸節子が静物画のモチーフに使用した花瓶類。
◆写真中下:上左は、アトリエ内の三岸好太郎がこだわった螺旋階段。上右は、白色に塗られた壁面と天井。下左は、螺旋階段の上から北側の窓を見たところ。下右は、射光が比較的安定した北側の窓下にイーゼルをすえて仕事をしていると思われる三岸節子。
◆写真下:上は、南側の巨大な窓(左)と北側の細長い窓(右)。中は、アトリエ内の随所に置かれた三岸節子のポートレート。下は、三岸好太郎が名古屋で急死する数週間前に撮影された記念写真の三岸夫妻。左より三岸好太郎、佐伯祐三の姪でハーピストの杉邨てい、山本發次郎に協力し『佐伯祐三画集』(1937年)を編纂・刊行した國田彌之輔、そして右端が三岸節子だ。1961年(昭和36)5月に発行された『華麗』第2号に掲載されたものだが、どのような物語が眠っているのか。