三岸好太郎は、1933年(昭和8)の『独立美術クロニック』に「転換」と題した文章を書いている。
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 人間の感受性は常にきわめて順応的である。新しい社会環境から新しい美的価値は生まれる。新しい環境の中に新しい感激の対象を積極的に求めようとする自分の精神、現在までの自分の認識し得た本能意欲以外に、目標として組織的なるもの、快速的なるもの、鋭截的なるもの、明朗性のあるものを求める。/ 太陽光線の分析にまで到達したほど科学性を持ったところの印象派はフォーブを生み、フォーブを否定したキューブの運動はダダによって否定されたではないか。反動、反動、反動である。/ 自分の転換を変化と見るか発展と見るかは各自の自由である。/ しかし部分的な、一面的(批判は結局一面なる結果になる事は事実だ)な認識も一定の限度内においては、それ相応に役立つ。如何なる曲線もその小部分を切り取って見れば常に一つの直線である。
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 本人も文中で触れているが、これは明らかに「ヘ翁」Click!(当時の若者用語でヘーゲルのこと。ほぼ同時期にドストエフスキーのことは「ド翁」と呼ばれた)を意識したもののとらえ方であり、考え方だ。すべての事象は、止揚(アウフヘーベン)を繰り返しながら肯定(テーゼ)と否定(アンチテーゼ)間を反復することによって、スパイラル状に前進(上昇)し発展していくという弁証法哲学的、ないしは弁証法史観的な思考を拝借したものだ。好太郎の作風が頻繁に急変することについて、周囲から寄せられた必然性を問う批判に対する、この文章は弁明として執筆されている。
 好太郎の文章が書かれる3年前の1930年(昭和5)、日本では白揚社から『ヘーゲル著作集』第1巻が翻訳出版されている。また、執筆の前年1932年(昭和7)には岩波書店から『ヘーゲル全集』が出ており、いずれにも「一切の事物は自己の否定を齎(もたら)すべき要素を、それ自身のうちに包含している」という、有名なベルリン大学の講義内容を収めた『歴史哲学緒論』が収録されていた。好太郎がこれらの全集を読んだかどうかは不明だが、ヘーゲルのスパイラル(螺旋)状に進化し“上昇(発展)”していく事象や歴史のとらえ方に、惹かれたのはまちがいないだろう。
 そして、自身の生き方や表現、作風などにピッタリと当てはまる(ように見える)「ヘーゲルの螺旋」に強く惹かれ、結果論的に自己の変遷を説明しようと試みているようにも思える。つまり、螺旋状の生き方は好太郎そのものであり、自身のトレードマークのような感覚にさえなっていたのではないだろうか。そういえば、彼が収集した巻貝の背にも、象徴的な螺旋模様が見てとれる。佐伯祐三Click!とほぼ同様に、わずか31年の生涯を疾走した三岸好太郎だが、画家仲間からは“らせん”の直径が短ければ短いほど、流行に流される安易で日和見主義的な作風や表現と見なされ、必然性を問われつづけることになった。
 彼の螺旋状の生き方(生活観・社会観)や考え方(芸術観)は、作品表現の急速な変遷のみならず人間関係(特に女性関係?)にも持ちこまれたものか、どこかで開きなおり正当化されているようにも見えてくる。でも、それは同時に節子夫人を悩ませつづけた、とんでもない“らせん”思想であったのかもしれない。
 さて、アトリエ見学Click!をつづけよう。南側の窓は、現在はアルミサッシに入れ替えられているが、当初はすべて木製の窓枠で造られていた。これだけ広い面積のガラスを、比較的脆弱な木枠だけで支えるのは、建築力学上かなりむずかしい設計課題だったのではないだろうか。また、現在でも大きなアルミサッシの窓は、建物南側の重さをかなり過重にしているようにも思える。戦時中、空襲で近くに250キロ爆弾が落下し、南面のガラス窓が爆風で割れたそうだ。三岸アトリエのある界隈は、戦前戦後を通じて閑静な住宅街であり、アトリエの北側は戦後も田畑が拡がる一帯だった。米軍機は、なにを目標に250キロ爆弾を投下したのか不明だが、山本愛子様によれば三岸節子は割れた窓ガラスにキャンバスを当てて、風雨が入らないよう応急修理をしていたそうだ。
 画室は、南面しているせいで非常に明るい。冬期には、陽光が画室の奥まで射しこむように設計されているのだろう、わたしがこれまで拝見したことのあるどのアトリエよりも、飛びぬけて明るい室内だ。むしろ、窓にカーテンかブラインドを下げていないとまぶしすぎるぐらいだ。だから、アトリエClick!にいるというよりは、大きなサンルームにいるような感覚にとらわれてくる。画家のアトリエというよりは、オシャレな西洋館の南面に設置された日光浴のテラスルームのようだ。
 
 
 
 作業室と画室の間に設けられた壁を考慮せず、初期アトリエの姿を想定するとかなり広い空間だ。2階建ての天井までが吹きぬけになっており、三岸好太郎は螺旋階段のてっぺんにのぼって、大きなキャンバス画面を見下ろす姿を、ひそかに想像していたものだろうか。下落合のアトリエにたとえれば、吉武東里Click!設計の島津一郎アトリエClick!よりは狭いものの、佐伯祐三アトリエClick!や中村彝アトリエClick!よりも面積ははるかに広大だ。
 ひとつ気になったのは、200~300号の作品を仕上げた際、あるいはそれに額装をほどこした際に必要となる、大きなキャンバス専用の出し入れ口が存在しないことだ。画室の広さからすると、サイズの大きな作品に取り組むことを想定していた造りとなっているのだけれど、現状ではそれを搬出するためのドアがない。ひょっとすると三岸節子が改築する際に、それほど大きなキャンパスを制作する必要性を感じなかったせいなのだろうか、あえてなくしてしまった可能性もありそうだ。現状の画室を観察すると、北面の窓がもともと大きなサイズのキャンバスを出し入れできる、開閉式のものではなかったかと想像することができる。北面の2階へ通じる階段や収納庫は、増改築前の写真と仔細に比較すると、あとから設置された公算が高いとのお話だった。
 螺旋階段をのぼり、当初は中2階のように造られた書斎兼書庫からは、アトリエ北側におそらく増築されたと思われる踊り場や階段へ出られる。階段上のバルコニーを伝って、西側の2階奥には三岸節子がキャンバスなどの画材置き場にしていた収納部屋がある。この小さな部屋には、画室に面してドアが設けられており、アトリエ内を一望することができる。ここから、三岸節子はキャンバスの木枠や額などのかさばる画材を、1階の画室内へ直接下していたのだろう。
 アトリエ北面が垣間見える、バラ園の中庭にもご案内いただいた。中庭の北側は、三岸夫妻が初めて野方村上鷺宮にやってきたときに建てた、第一アトリエが存在していた敷地だ。現在は、夫妻の長女である陽子様や山本愛子様が住まわれている。満開の薔薇の香りがただよう中、アトリエの北面を拝見してみるが、あとで増改築された部分を差し引いて想定しても、北側にうがたれた窓はかなり小さい。既成のアトリエ建築にこだわらなかった、三岸好太郎ならではの特異な設計なのだが、三岸節子は少なくとも画室内を常に移動する光線に、悩まされたのではないだろうか。
 
 
 
 最後に、三岸節子へ綿密な取材を繰り返し、日動出版から『三岸好太郎』(1969年)を刊行した田中穣の文章から、新しいアトリエを建てるときの夫妻の「想定会話」を引用してみよう。
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 「節っちゃんよ、なあ、アトリエをもうひとつ建て増そうじゃないか?」
 ある午前、どこまでも好太郎はさりげなかった。
 「そうすればなあ、きみも自由に仕事ができるし、ぼくも大変やりやすくなる」
 「アトリエですって?」
 すませてからまだ一時間にもならない朝の食卓で、生命線が切れているからながくは生きられないといった話をしていた男が、こんどはよりいい仕事をするためのアトリエを増築しようという。
 まるで、子供よりたあいのない好太郎の意識の流れには、まともにつきあっていられない腹だたしさをおぼえてくる。
 「庭の空地に、北側を壁にして、ほかの三面全部がガラスの、いってみればガラスの城を作るわけですよ」
 「大きな金魚鉢みたいな?」
 「まさしく、ご名答。その中にいる限り、からだはふわりと空気中に浮かび、夢は無限を飛びまわれる」
 「まるで人間さまを廃業して、金魚になりたがってるみたい」
 「画室の中央にはラセン状の階段をつける。このラセン階段の上から作品を見おろせるだろう。画室のまえには池を作って、水面を屈折した太陽の反射光線が、白い画室の天井で踊りながら、光の縞を描きだしてくれる…どうだろう、節っちゃん、いい返事をしておくれよ」
 「夢のようなお話ね」と夫人はいった。
 「夢の実現さ。建築は元来がそういうものだし、絵だって、本質的には同じさ」
 「おかねは、どうなさる?」
 「それにはね、いい計画がある。津島のまのや(旅館)のてさあね。作品の頒布会をひらく。アトリエ増築のための資金募集とかいった名目で。手彩色のシックな素描の画集がいい。限定百部で、一部二円として二百円、いや、三円にするかな…。それに、独立展の『のんびり貝』を、クラブ歯磨の中山さん(中山太陽堂社長)が、ひどくお気にいりらしいんで、売れそうな話もある」
 「それでも、到底、足りそうもない感じね」
 「なんとでもするさ、思いたったら、なんとでもなるものさね」
 「ほんとうに、あなた、そんな奇妙なアトリエを建てるつもりなの?」
 「もちろん、真剣ですよ。まじめな話ですよ」
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 ちなみに戦後、銀座・日動画廊で行われた展覧会の記念すべき第1回が三岸節子だった。


 
 
 アトリエをお訪ねする前にお会いしたとき、「もうあちこち傷んでボロボロなんです」と話されていた山本愛子様なのだが、わたしの感覚では予想よりきれいで、よく維持されてきていると感じた。それは、下落合に残っていたアトリエ群がもっと傷んでいるのを、わたしが目のあたりにしているからで、あくまでも相対的にそう感じたのだろう。ただし、東日本大震災によるダメージは、今日の住宅とは比較にならないほど大きいと感じた。いまに残る、昭和初期の特異なモダニズム建築であり、また中野区にとってもかけがえのない街の文化資産だと思われる、三岸好太郎が設計デザインし三岸節子が仕事場にした貴重なアトリエなので、ぜひ後世へと伝えてほしいものだ。
                                                   <了>

◆写真上:2階西側の画材収納室から見下した、三岸アトリエの1階フロア部。
◆写真中上:三岸好太郎がこだわった、建築当初のままの螺旋階段。
◆写真中下:上左は、もともと応接スペースだった現・作業部屋で、奥には黒い艶のある石製タイルを貼った非常に凝った暖炉がある。上右は、作業部屋の真上にある螺旋階段からのぼる旧・書斎兼書庫。中左は、やはり黒い石のタイルが敷かれた旧・玄関で東日本大震災の被害がもっとも大きかったスペース。中右は、三岸節子のプロフィールが架かる北の窓辺。ちょうど写真の手前あたりに、三岸節子はイーゼルをすえていた。下は、東日本大震災の揺れで入ったクラック。
◆写真下:上は、三岸アトリエの現在における1階平面図。中は、建築当初から改築されているとみられる北側の外壁。下は、暖炉の部屋の北側にある各種のバラが美しい南欧風の中庭。中庭からアトリエを見あげると、無数のクラックが走っており早急な修復・保存施策が必要だろう。