1923年(大正12)12月31日の大晦日、三岸好太郎と吉田節子(のち三岸節子)のふたりClick!に、好太郎の札幌第一中学校時代の同窓で親友だった画家・俣野第四郎は、関東大震災の余燼がくすぶる東京をあとにして、千葉県の我孫子へと出かけている。我孫子には、画会「春陽会」のメンバーが住みついており、彼らの友人である甲斐仁代Click!と中出山也Click!もいた。下落合でも頻繁に見かけるふたりだが、落合地域とのつながりはこれだけではない。
 我孫子の手賀沼周辺は、あちこちに河岸段丘状の崖線が連なり、大正期には別荘地として拓けている。崖線下に通う道のことを昔から「ハケの道」と呼び、目白崖線の「バッケの道」Click!や国分寺崖線の「ハケの道」Click!に酷似した風情をしている。そして、手賀沼をはさみ段丘に沿って、大小多数の古墳が築造されている。また、別荘地として知られるようになった明治末から大正初期には、「白樺派」の武者小路実篤Click!や志賀直哉Click!、柳宗悦、バーナード・リーチClick!などが暮らしていた。武者小路が下落合1731番地へ引っ越してくる、およそ10年余も前のことだ。もちろん、岸田劉生Click!も手賀沼へときどき顔を見せている。
 手賀沼沿いに点在する別荘に、しばらくこもって画会の制作をするのが、大正後期に登場した若手画家たちの間では、一種のブームになっていた。このブームは、赤土がむき出しの険しい崖線や、茅葺き農家があちこちに残る風景とともに、昭和初期までつづいたような感触がある。おそらく、1918年(大正7)の二科展で硲伊之助が描いた『我孫子風景』が、二科賞を受賞したことから我孫子人気に火が点いたのだろう。2005年(平成17)に出版された、澤地久枝『好太郎と節子』(NHK出版)から引用してみよう。
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 一九二三年という年、好太郎は崖っぷちに立って訴えている。女出入りの多かったという人生でおそらくただ一度、好太郎は真剣になった。/十二月三十一日、節子は好太郎に誘われて中出を訪ねる。我孫子の手賀沼のそばに志賀直哉の別荘があり、春陽会の人が借りていて、その裏の書斎に中出三也と甲斐仁代が住んでいた。肺結核の病勢が進む俣野第四郎は甲斐仁代を愛し、一人で苦悶しつつ、我孫子の写生にはたびたび参加して傷を深くしていた。
 <我孫子の駅で汽車を降り、湖(手賀沼)のそばまで歩いていきましたら、そこで好太郎は立ち止まって「結婚したい」と言ったんです。私、何と答えたか、ちっとも覚えてないんです。きっとその時は、そう好きじゃなかったんですね>(『三岸節子 修羅の花』)
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 志賀直哉が建てた手賀沼別荘の、我孫子に現存している志賀の書斎を借りて、中出三也と甲斐仁代が暮らしていた様子がわかる。甲斐仁代はこの年、二科展に出品した『ロシヤの婦人像』(1923年)が入選し、二科会初の女流画家としてスタートしている。
 

 このあと、一時的な雑司ヶ谷暮らしを経て、中出三也と甲斐仁代は松下春雄Click!と画友たちも暮らした下落合1385番地、第一文化村Click!の北へと引っ越してくる。そのアトリエを、同じ町内の吉屋信子Click!が頻繁に訪れていたことは、すでに記事へ書いたとおりだ。下落合からバッケ堰Click!の上流、上高田422番地へ転居したふたりの様子は、林芙美子Click!が記録している。
 さて、我孫子風景を描いた三岸好太郎や俣野第四郎の画面は、岸田劉生(草土社→春陽会)のように赤土の崖線や路面に樹木や草が繁っている、いわゆる草土社Click!風の表現だった。吉田節子(三岸節子)も、ふたりに影響されたものか赤茶色が強く目を惹く画面になっている。このハケ(バッケ)の道が通う我孫子風景は、現在でも当時の面影が色濃く残り、90年前の下落合風景、あるいは40年前の小金井風景Click!をほうふつとさせる。
 大正末から昭和初期にかけ、三岸好太郎や節子、俣野第四郎たちが実際に目にした我孫子駅や手賀沼の様子は、松下春雄アルバムClick!で確認することができる。おそらく、松下春雄も画家仲間といっしょに、我孫子へ知り合いを訪ねたか、風景モチーフを探しに出かけたのだろう、我孫子駅のプラットホームで、1928年(昭和3)5月に撮影された写真が残っている。友人とカメラを交互に持ち替えながら、お互いを撮影しあったものだ。いっしょに写る駅頭でカンカン帽をかぶった男は、画会「サンサシオン」仲間の中野安次郎Click!あるいは大澤海蔵Click!だろうか。松下は当時、サンサシオン展や帝展に毎年出品するかたわら、光風会にも所属して作品を発表していた。
 
 
 
 松下アルバムには、全部で8枚の我孫子風景がとらえられている。5月5日端午の節句のころに出かけているので、茅葺き農家の庭先には鯉のぼりがあがっているのが見える。茅葺き農家の背後に見える丘上には、おそらくおカネ持ちの別荘のひとつなのだろう、大きな西洋館が陽光に輝いているのが見てとれる。どこかの広い草原か水田で、地元の子どもたちといっしょにカンカン帽の友人が写る画面。おそらく、手賀沼の渡し舟と思われる湖面の写真。近くの丘上まで上ったのだろう、手賀沼の全景写真などが撮影されている。
 また、駅から北側へ歩いて利根川まで出たのか、常磐線の鉄橋と思われる写真も残されている。河原には、松下春雄とカンカン帽の男が写り、友人の写真のほうはどうやら常磐線の列車が通過中のようだ。ふたりの服装をよく観察すると、松下春雄はスーツに明るい色をしたネクタイ、カンカン帽の男はスーツにハイカラーのシャツで、蝶ネクタイを結んでいるらしい。装いからして、とても手賀沼ハイキングに来たようには見えないので、ひょっとすると我孫子に住む画家(おそらく先輩)のアトリエを訪ねたあと、あちこちを散策しているのではないだろうか。
 
 
 
 三岸好太郎や吉田節子、俣野第四郎とは異なり、松下春雄の作品には我孫子風景をモチーフにした作品は残されていない。松下アルバムに写るふたりは、写真を見るかぎり画道具を抱えてはおらず手ぶらのようなので、我孫子の知人ないしは画家のもとを訪ねたように思えるのだが。

◆写真上:1925年(大正14)ごろに制作された、三岸好太郎『我孫子風景』。
◆写真中上:上左は、一方的に恋愛感情を抱いていた俣野第四郎が1922年(大正11)に描いた『甲斐仁代像』。上右は、1934年(昭和9)に下落合の片多アトリエで制作された片多徳郎『N-中出氏の肖像』。下は、1930年(昭和5)制作の川瀬巴水『手賀沼風景』。
◆写真中下:上左は、甲斐仁代と中出三也が暮らしていた現存する志賀直哉の書斎。上右は、手賀沼周辺の「ハケの道」。中左は、1925年(大正14)ごろ描かれた三岸節子(吉田節子)『我孫子風景』。中右は、1924年(大正13)制作の俣野第四郎『我孫子の風景』。下は、松下アルバムより1928年(昭和3)に撮影された我孫子駅ホームの松下春雄(左)と友人(右)。
◆写真下:いずれも松下アルバムから、我孫子の散策を撮影したもの。画面左下の同一箇所が白くとんでいるのは、カメラにフィルムをセットする際に失敗して感光してしまったものだろう。下は、常磐線の利根川鉄橋と思われる利根川の河原で撮影された松下春雄(左)と友人(右)。