陸軍士官学校(陸軍航空士官学校=以下「陸士」)で有償配布された写真Click!の中で、いまだかろうじて優勢だった海軍の戦闘記録である、「珊瑚海海戦」をとらえた貴重な画面類が残されている。珊瑚海海戦は、空母を主体とする日米の機動部隊同士が、艦隊から直接相手を視認することなく相互がかなり距離をおいたまま交戦した、世界初の海上航空戦として有名だ。
 陸士で配布された同海戦の写真類を検討すると、明らかに珊瑚海海戦ではないと思われる画像も含まれており、このころからマスメディアに公開される報道用の写真類も含め、実際に行なわれた戦闘写真ではなく、過去の優勢だったころの戦闘写真をひそかに混ぜて配布する、虚偽の発表が行われるようになったと思われるのだ。1942年(昭和17)6月のミッドウェー海戦から半年後、柱島泊地に停泊する第一航空艦隊(南雲機動部隊)Click!の旗艦「赤城」の艦体塗装を撮影したニュース映画が、日本各地の映画館で流されているが、「赤城」をはじめ同艦隊の空母4隻はとうに撃沈されてこの世に存在していない。この1942年(昭和17)5~6月ごろから、大本営陸海軍部が発表する“戦果”と、実際の戦闘の状況は大きく乖離しはじめている。
 珊瑚海海戦は、1942年5月7日から翌8日にかけ、オーストラリア北東に位置する海域で行われた日米の機動部隊同士による戦闘だ。日本からは空母「翔鶴」と「瑞鶴」に、潜水母艦を改装した軽空母「祥鳳」が参加し、米国からは大型空母「レキシントン」と「ヨークタウン」が派遣されている。翌月に行なわれるミッドウェー海戦の前哨戦のような戦闘なのだが、この海戦をピークに「向ウ処敵ナシ」だった聯合艦隊は、徐々に壊滅へ向かって急坂を転がりだすことになる。
 戦闘は5月7日に急展開を見せ、軽空母「祥鳳」が米機の攻撃により撃沈され、翌8日には空母「翔鶴」の飛行甲板に450キロ爆弾が2発命中して中破した。米軍側は、大型空母「レキシントン」が日本機の攻撃を受けて大破、のちに大爆発を起こして航行不能となり沈没している。空母「ヨークタウン」は、日本機から250キロ爆弾を1発あびているが、小破のまま戦場海域を離脱した。以上が、史上初となった空母同士による海戦の結果だが、日本海軍が米海軍と互角、あるいはやや優勢で展開しえた海戦は、この珊瑚海海戦がおよそ最後となった。
 陸士で配布された戦闘写真では、空母「レキシントン」を同型艦の「サラトガ」と一貫して誤認している。おそらく、同艦が潜水艦の攻撃で大破したことを日本海軍は把握しており、西海岸での修理を終えて前線に復帰したのだと判断したのだろう。だが、珊瑚海へやってきたのは真珠湾攻撃以来、日本の機動部隊が探し求めていた同型艦の「レキシントン」だった。のちに、大本営は珊瑚海海戦で「撃沈」した米空母を、「サラトガ」ではなく「レキシントン」だったと訂正しているが、陸士の写真は海戦から間もなく配布されたものらしく、艦名は空母「サラトガ」のままとなっている。
 


 陸士の写真は、軽空母「祥鳳」が撃沈された5月7日の戦闘ではなく、翌8日の米空母艦隊への攻撃写真に限定されている。日本の航空隊に補足された空母「レキシントン」が、魚雷や爆弾を避けるため“の字”運動を繰り返しながら必死で回避している写真だ。
 写真①は、左上の大きく円を描くように雷撃を回避しているのが「レキシントン」で、右下の至近弾をあびているのは護衛の駆逐艦のようだ。「レキシントン」の煙は煙突からの排煙ではなく、すでに爆弾が命中して火災が発生しているのかもしれない。ウェーキーの様子から、速度も落ちているように感じられる。写真②は、「レキシントン」(中央の白い航跡)のあとを並走する、護衛の米駆逐艦2隻をとらえているようだ。航跡のうしろに、白い大きな水柱が立っているが、日本の雷撃機が魚雷を投下した瞬間に海上で自爆してしまったものだろうか。当時の戦闘では、海面にぶつかった瞬間に魚雷が自爆してしまう“事故”が多発していた。
 写真③は、回避運動を繰り返す「レキシントン」を撮影したもので、同艦の特長である巨大な煙突がハッキリ見えている。写真④は、爆弾が命中して火災を起こす「レキシントン」だ。同艦は、この戦闘で爆弾2発に魚雷2本を受け、やがて大爆発を起こすことになる。手前の海上に、小さな水柱がふたつ立っているが、日本の雷撃機が投下した魚雷の水しぶきだろう。
 
 
 写真⑤は、輪形陣で進む米艦隊をとらえたものだが、陸士配布の添付解説には空母「ヨークタウン」を中心とする米艦隊と書かれている。そして、写真⑥は日本側の攻撃を受け、大爆発を起こして沈没する「ヨークタウン」型あるいは「ワスプ」型の米空母とされている。でも、同海戦で「ヨークタウン」は250キロ爆弾の直撃を1発受けているだけで、このように大爆発を起こすような被害は出ていない。それとも、被弾直後に大きな火災が発生し、その煙が空高く噴きあがったものだろうか。ちなみに空母「ワスプ」は珊瑚海海戦に参加しておらず、1942年(昭和17)9月15日に日本の潜水艦の攻撃を受けて沈没しており、同海戦から4ヶ月以上も先のことだ。
 写真⑤⑥に写された、輪形陣の中央にいる大きな艦は、大爆発を起こした「レキシントン」ではないだろうか。艦影が識別できないほど小さいので、同海戦に参加していた「ヨークタウン」ということにしておいた・・・のではないか? 大本営発表では、珊瑚海海戦において米空母「サラトガ(レキシントン)」と「ヨークタウン」を2艦とも撃沈したことになっている。
 写真⑦は、あまり見たことのないちょっとめずらしい写真だ。日本の攻撃機から米国の駆逐艦ないしは(軽)巡洋艦に向けて、250キロ爆弾が投下された瞬間を撮影したものだ。全速で回避運動をする下の艦では、上空にいる攻撃機の動きを十分に意識しており、機が真上にきて投弾するのと同時に、急速な転舵(面舵)を行ない回避しようとしている刹那がとらえられている。
 写真⑧は、珊瑚海海戦で出撃する攻撃機という解説が添付されているが、この写真は前年の1941年(昭和16)12月8日に真珠湾攻撃の際、空母「翔鶴」の艦橋から撮影されたものの1枚で、写っているのは攻撃機ではなく戦闘機(零戦)だ。飛行甲板上にいる整備員の服装が、赤道近くの珊瑚海での夏服にはとても見えず、明らかに冬服なのに留意いただきたい。このように、虚偽を少しずつ混ぜて公表するうちに、大本営発表は徐々にウソの割合のほうが急増していき、戦争末期には「台湾沖航空戦で米艦隊全滅」が象徴的なように戦果誤認や希望的観測、さらに無根拠なとてつもない楽観論をベースにした、ほとんど“まぼろし”の戦果発表へと結びついていく。


 前の記事で、日本の偵察機に装備された記録用カメラをご紹介したが、この記事の冒頭写真は米軍機に備えつけられたカメラだ。第二次世界大戦では、偵察用や記録用に高精細画像を得られるカメラ技術が大きく進歩している。写真⑨は、珊瑚海海戦で米軍機から撮影された攻撃を受ける日本の機動部隊で、至近弾を受けて回避運動をする空母「翔鶴」の姿がとらえられている。

◆写真上:米軍機に装備された、偵察用あるいは記録用の大型カメラ。
◆写真中上:①②③④は、珊瑚海海戦で日本側の攻撃を受ける「レキシントン」と護衛艦隊。
◆写真中下:上の⑤⑥は、日本の水上偵察機が撮影したと思われる米機動部隊の輪形陣。下左の⑦は、攻撃機から洋上の艦へ向け250キロ爆弾が投下された瞬間を写しためずらしい写真。下右の⑧は、珊瑚海海戦時の写真ではなく1941年(昭和16)12月8日の真珠湾攻撃の際に撮影されたとみられる、空母「翔鶴」の飛行甲板に並ぶ零式艦上戦闘機二一型。
◆写真下:上の⑨は、米軍機から撮影された攻撃を受ける空母「翔鶴」。下は、1942年(昭和17)に制作されたとみられる有岡一郎Click!『珊瑚海海戦』。