陸軍士官学校で有償配布された写真Click!の中には、学生たちの演習を見学したり、分列行進を観閲する人物たちがとらえられたスナップ写真が含まれている。冒頭の写真も、そんな中の1枚だ。手前で笑いながら立っているのは東條英機であり、その背後右手には陸軍参謀総長の杉山元(画面右端)が軍刀の頭(かしら)に左手をかけて立っている。東條の左側には、白い手袋をはめようとしている海軍大将だった嶋田繁太郎の姿がとらえられている。
 嶋田繁太郎の様子からして、陸士の学生たちが整列あるいは分列行進するのを観閲し、白手袋で敬礼しようとしているのだろうか、来賓用に設営された特設テント沿いには、各国の軍隊から観閲式に参加した軍人たちの姿も見える。写真の奥にかたまっているのは、ナチスドイツやイタリアの将校たちだ。その顔ぶれからして、この写真はおそらく東條内閣が成立したあと、1941年(昭和16)10月28日以降に撮影された公算が高い。
 このとき、東條英機は首相と陸軍大臣、さらには内務大臣を兼務しており、ほとんど独裁者のようにふるまっていたという。左手にいる嶋田繁太郎は、東条内閣の海軍大臣だった。観閲者の服装からして、同年の暮れの日米開戦前後の時期ではないだろうか。東條自身も陸士を出ており、17期の卒業生だ。母校の観閲式ないしは演習の見学に、得意満面で訪れたようだ。
 東條内閣が成立する1年前の夏、近衛文麿の別邸だった荻窪の「荻外荘」Click!応接室には陸相予定の東條英機、海相予定の吉田善吾、そして外相予定の松岡洋介の3者が集まり、いわゆる「荻窪会談」Click!が開かれている。そこでは、日中戦争や「満州」の植民地化を結果論的(ご都合主義的)に正当化し、やがては資源確保のための「南進」をも射程に入れた「大東亜共栄圏」建設を目的とする、「基本国策要綱」と呼ばれる重要な決定がなされ、同時に第2次近衛文麿内閣の組閣人事も同荘で行われている。また、1941年(昭和16)3月には日米関係を決定的に悪化させる仏領南印進駐も、荻外荘の連絡会議で決められた。
 こうして、東條英機が組閣するころには、日本を“亡国”の淵へと導くことになる、明治政府以来の大日本帝国の破滅は不可避的な状況を迎えていた。写真右端に写る陸軍参謀総長の杉山元は、近衛文麿がひそかに進めていた日中の和平工作Click!を、ことごとくつぶした人物でもある。近衛は、日中和平交渉のために蒋介石あての親書を宮崎龍介Click!に託すのだが、その細かな打ち合わせが練られたのも、目立つ首相官邸ではなく荻外荘の応接室だったのかもしれない。

 
 
 
 
 先日、天理教東京教務支庁の敷地内へ移築Click!され保存されている荻外荘の応接室Click!が、年度末の業務整理で片づけられ空き室状態になった際の貴重な写真を、K.Kuraさんよりわざわざお送りいただいた。非常に高価かつしっかりした部材で建設されているのだろう、伊東忠太の設計で1927年(昭和2)に建設された建物だが、いまだ構造もしっかりしているようで、とても築86年を経過した建築のようには見えない。天井板に描かれた円形の龍虎図は、おそらく大正期末あたりに制作された名のある日本画家の手によるものだろう。
 荻窪に残る荻外荘の母屋のほうは、杉並区が敷地ごと購入して緑地公園化が予定されているようだ。荻外荘の邸内をご案内いただき、写真を撮らせていただいた近衛通隆様が、先年(2012年)の2月に死去されたのだが、善福寺川に面した河岸段丘の緑が濃い敷地なので、さまざまな史的なエピソードを秘めた荻外荘ともども、緑地公園として保存されるのは素直にうれしい。

 
 
 さて、観閲式のスナップ写真には、ほかにもさまざまな人物がとらえられている。愛馬の「白雪」号にまたがった昭和天皇が観閲しているのは、座間(相武台)の陸軍士官学校の練兵場に整列した士官候補生だろうか。または、士官学校の学生たちも参加して挙行された、代々木練兵場の閲兵式の可能性もありそうだ。陸士配布のスナップ写真には、天皇にかなり近寄ったピンボケ気味の画面もあるので、天皇の周囲をかなりラフにあちこち動きまわって撮影することができた、専属のカメラマンが存在していたことがわかる。しかも、観閲している士官候補生ないしは兵士のほうでなく、カメラマンに向かって敬礼するポーズもとらえられている。
 また、同じ観閲式でも、1941年(昭和16)に結核を罹患し御殿場へ療養直前とみられる、秩父宮(当時は陸軍少将)と思われる人物をとらえた写真も残っている。やや距離がある写真なので、顔立ちがはっきりしないのだが、騎乗で先頭を歩くメガネをかけた面影は、陸士を34期に卒業している秩父宮のように思われる。また、陸士の校長が学生たちの分列行進や演習を観閲するものなど、さまざまな記念行事をとらえたスナップ写真が含まれている。これらの写真は、陸士の学生たちが申請して購入する場合もあれば、学生の親もとへの頒布会も行われたようで、お貸しいただいた写真の封筒には、陸士に入学した士官候補生の親の名前が書かれているものもある。
 
 子どもを陸軍士官学校へ入学させるということは、このように「大元帥」だった天皇や皇族のスナップ風の“生写真”までを、「特典」として容易に入手できるということであり、その特権意識を満足させるものだったにちがいない。写真は、周囲へもうやうやしく持ち出されては自慢されたものだろう。しかし、日本各地の街々が焦土と化した1945年(昭和20)8月15日の敗戦を境に、これらの写真類は押しいれの奥深くにしまいこまれ、めったに日の目をみることはなかったと思われる。

◆写真上:座間(相武台)か代々木での観閲式で、来賓席の人物たちをとらえたスナップ写真。
◆写真中上:K.Kuraさんよりお送りいただいた、移築された荻外荘応接室の近況写真。
◆写真中下:観閲式で、陸士の士官候補生を閲兵していると思われる昭和天皇。一部には、陸軍少将だった療養直前の秩父宮をとらえたと思われる写真も残されている(下右)。
◆写真下:荻窪にある荻外荘玄関と、邸内をご案内いただいた故・近衛通隆様と夫人の節子様。