サンサシオンの中心メンバーだった松下春雄Click!の長女・彩子様が、吉田節子(三岸節子Click!)の名前を記憶されていた。おそらく、東京の池袋時代Click!ないしは下落合時代Click!かは不明だが、同じく同会の中軸である鬼頭鍋三郎Click!や中野安治郎Click!、大澤海蔵Click!らが松下の家へ頻繁に立ち寄っていた時期、吉田節子は彼らと交流しているのではないだろうか。
 もちろん、1928年(昭和3)生まれの彩子様は、実際に吉田節子と会った記憶がおありなのではなく、淑子夫人Click!から聞かされていた、父親と交流があった画家のひとりとしての記憶だろう。吉田節子は、1925年(大正14)4月3日から5日にかけ名古屋で開催されたサンサシオン第3回展に、『きんせん花』『椿』『支那服来たる少女』『静物』の4作品を出品している。でも、これは吉田節子が同展へ応募したものではなく、サンサシオンの側から後援・推薦作品として、同じ愛知県が地元の吉田節子へ第3回展への出品を求めたものだ。
 このとき、下落合のすぐ南にあたる上戸塚(宮田)397番地Click!で、すでに三岸好太郎Click!と暮らしはじめていた吉田節子(三岸節子)は、下落合の北側にあたる池袋大原1382番地の横井方へ下宿していた松下春雄から、サンサシオン展への出品を依頼する訪問を受けているのではないか? 松下が暮らしていた池袋大原の下宿は、前年まで節子が暮らしていた狐塚Click!の家から西へ150mほどしか離れていない場所だった。そして、松下春雄が渡辺淑子と結婚したあとも、吉田節子とは下落合時代Click!あるいは西落合時代Click!かは不明だが、どこかで往来ないしは手紙のやり取りなどがあり、淑子夫人の記憶に強く残ったのではないだろうか。
 1925年(大正14)4月の、サンサシオン第3回展へ出品した吉田節子(三岸節子)について、1925年(大正14)3月31日に発行された名古屋新聞の「サンサシオン展前記」(署名:駿生)から引用してみよう。ちなみに、三岸好太郎と節子はすでに結婚してはいたが、このころ展覧会への出品用の筆名は三岸節子ではなく、いまだ吉田節子のままだった。
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 ◇昨年冬から正月にかけて公園前の文化茶屋で、一人一週間づつの個展が開かれた。これを下準備として今度の展覧会が催されることになつたのである。同人出品はあの時の作品以後のものが多く、加藤喜一郎氏は未定、松下春雄氏は光風会出品の自画像、水彩画会出品のもの等十余点、中野安次郎氏は光風会出品の静物外数点、鬼頭鍋三郎氏は騎兵調練図(帝展出品)外中央美術、光風会への出品画数点を出す。推薦者出品は吉田節子氏(円鳥会出品外数点) 一ノ木慶治氏(光風会出品画外三点) 遠山清氏(槐樹社、光風会出品画、悉多太子東門出遊図を含む外三点) 石田岩雄氏(中央美術、光風会、太平洋画会等出品画十点)  ◇推薦のうち吉田節子氏は先日の本紙に紹介された愛知淑徳高女出身の唯一人の女流画家で生れは県下中島郡起町、年は二十一である、今年の春陽会に入選した作は山茶花、肖像、風景、机上二景で、いづれも評判が高かつた、小杉未醒氏などが彼女の天稟を認めて力瘤を入れて推称してゐる。
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 この記事によれば、吉田節子は目白の円鳥会Click!の展覧会にも出品していることがわかる。当時、春陽会で唯一の女性画家だった吉田節子は、あちこちの画会から注目されひっぱりだこだったことがうかがわれる。そして、円鳥会への出品はそのまま1930年協会Click!へ、さらにのちの独立美術協会Click!の流れへと直接結びついていくことになる。
 吉田節子がサンサシオン展へ出した作品は、多忙な家事や、生まれたばかりの長女・陽子様の育児に追われながら、少しずつ制作されたものだろう。毎日、一歩いっぽ積み重ねるように画面を仕上げていくという彼女の制作スタイルは、生涯変わることはなかった。したがって、複数の作品へパラレルに取り組むことがほとんどで、節子のアトリエには制作途上のキャンバスが大量に置かれることになる。速乾剤を混ぜた下の絵の具さえ乾く間もなく、短時間で一気呵成に描き切ってしまう佐伯祐三Click!などの手法とは、まさに対極的な仕事のしかただ。
 第3回展にはもうひとり、女性の画家で山内静江が参加している。同展からのち、サンサシオン展には女性画家たちが続々と出品してきている。特に第5回展からは浅野喜代子、大橋蓮子、村井静子、金子芳江、 成瀬田鶴子、八代幸子、湯川朗子、青木八子、生野くみ子、佐野芳子、広瀬仁子、間瀬艶子、村上かほる、柏木治子、古田豊子、吉田弘子らが登場している。

 
 さて、サンサシオン第3回展で松下春雄は東京郊外の風景を写した、『うらゝかな風景』『郊外小景』『郊外風景』など8点を出品している。この中には、池袋大原の下宿から第3回展と同年、1925年(大正14)に転居(下落合1445番地 鎌田方)することになる、下落合の風景も混じっているのかもしれない。また、同展の加藤松三郎は『池袋風景』『長崎村風景』などを出品しているが、これは池袋大原の松下下宿をベースにして、付近の写生へ繰りだしたものだろうか。松下と加藤は、連れ立って仕事をしている可能性が高い。
 少しのちのことになるが、1932年(昭和7)に開催されたサンサシオン第9回展では、死去した会員である加藤松三郎の遺作展示が行なわれている。その中には、画題として『文化村(下落合)』『ギルの家(下落合)』『道(下落合)』『下落合風景』『並木の道(下落合)』『森(下落合)』と、多数の連作「下落合風景」が展示されている。画面を観るまでもなく、タイトルを見ただけで下落合のどこの風景を描いたものか、特定することができる作品もある。『ギルの家(下落合)』は六天坂が通う丘上、黄色いモッコウバラClick!の生垣に囲まれた下落合1752番地の敷地に建つ、ドイツ人のギル夫妻邸Click!を描いたものだ。その隣りには、西坂の徳川邸Click!とも姻戚関係になる旧・津軽藩の津軽邸の屋敷や、スパニッシュ風のステキな西洋館である中谷邸Click!も建っていた。
 
 関東大震災を境に、サンサシオンのメンバーは東京を離れ、名古屋へと一時帰郷していたが、1925年(大正14)になると次々に東京へもどってくる。また、さまざまな画会や団体も活動を再開し、各地で展覧会を開催している。東京の美術界の復興ムードが高まる中、名古屋のサンサシオン展も年々拡大をつづけ、1929年(昭和4)5月の第6回展(光風会合同展)からは、愛知県商品陳列所から広い鶴舞公園美術館へ会場を移し、より大規模な美術展覧会となっていった。吉田節子が出品した第3回展あたりが、サンサシオン展拡大の大きなステップとなっているように見える。

◆写真上:松下春雄アルバムClick!より、1929年(昭和4)のサンサシオン第6回展(光風会合同展)で撮影されたメンバーたち。バックの鶴舞公園美術館には光風会の垂れ幕が見え、手前でサンサシオンのペナントを持つ松下春雄(左)と鬼頭鍋三郎(右)で、右端は中野安治郎。
◆写真中上:左は、松下が1925年(大正14)に池袋大原1382番地から引っ越して住んでいた下落合1445番地の現状。右は、三岸好太郎と結婚して吉田節子(三岸節子)住んでいた上戸塚397番地の現状。1925年(大正14)現在、松下宅と三岸宅はわずか600mほどの距離だ。
◆写真中下:上は、1925年(大正14)4月に開催されたサンサシオン第3回展の記念写真。前列の右から松下春雄、遠山清、鬼頭鍋三郎、中野安治郎の順で、後列の右からおそらく山内静江、加藤松三郎、ふたりおいて大澤海蔵。下左は、サンサシオン第3回展に出品された松下春雄『自画像』。下右は、記念写真にも写る同展に出品された山内静江『無柳』(1925年)。
◆写真下:左は、2004年(平成16)に名古屋画廊から出版された『サンサシオン1923~33―名古屋画壇の青春時代―』展図録。右は、1923年(大正12)ごろの松下春雄。