先日、掲載しかけた(上)(下)の記事を1本にまとめたので、少し長めです。ご容赦をください。
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 1929年(昭和4)5月、三岸好太郎と三岸節子Click!は田畑が拡がる旧・野方町上鷺宮407番地に最初のアトリエ兼自邸を建設している。ちょうど上野の東京府美術館で春陽会第7回展が開催中で、また麗人社素描展Click!が新宿の紀伊国屋書店Click!の2階で開かれていた時期に、第一アトリエは竣工している。三岸好太郎は、春陽会展に『風景』『港の風景』『面の男』『少年道化』の4点を出品し、三岸節子は好太郎と出かけた札幌の『時計台』を出品している。
 三岸節子の入選は1925年(大正14)からで、草土社から合流した岸田劉生Click!や木村荘八Click!などが参加する、非常に男っぽい春陽会(当時の画壇はすべてが男中心の世界だった)で、彼女の存在はきわめて異色だったろう。女性の画家は、各種の画会において入選や参加は可能だが正式な「会員」にはなれず、せいぜい優遇されて「会友」どまりの時代だった。これは、ほぼ同時代に二科会で初の女流画家となった、甲斐仁代Click!についてもいえる。そのせいからか、三岸節子と甲斐仁代は親しく交流していたようだ。また、この年の春陽会展には、三岸好太郎の「道化」が上海からの帰国後に初めて登場している。『少年道化』や『面の男』は、それ以降、好太郎が描きつづける「道化」シリーズのさきがけとなった作品だ。
 三岸好太郎と節子の存在は、洋画界に広く知られはじめてはいたが、まだまだ作品がコンスタントに売れて生活が安定するという状況からはほど遠かった。ふたりは、好太郎の故郷・札幌などで、作品を販売する展覧会を何度か開いているが、食費にもこと欠く貧乏生活からは抜けられなかった。そんな中での、アトリエ兼自邸の建設だった。建設資金は、三岸節子の故郷である愛知県起町で紡績工場を営んでいた、兄・吉田章義が出してくれた。
 もともと、節子の実家は地元の旧家で裕福だったが、第一次世界大戦後に起きた不況の波をまともにかぶって傾き、工場経営は不振にあえいでいた。また、節子は両親の反対を押しきって洋画家になったため、特に母親との間がうまくいってなかったようだ。三岸節子の著作には、母親との激しい確執が何度か登場している。三岸夫妻がアトリエを建設する昭和初期には、兄が経営する工場は業績悪化のため、破綻寸前の状態だった。
 アトリエ兼住宅を設計したのは、知り合いに紹介された近くの野方町に住む建築家だったようなのだが、設計料が高くまた普請もヘタだったようで、三岸夫妻を失望させたらしい。第一アトリエは、通常のアトリエ建築を踏襲して北側に天井までとどく採光窓が設けられたが、この画室を使用するのは好太郎で、節子は家事と子育てに追いまくられた。
 このとき、三岸好太郎は母の三岸イシと妹・千代を引きとっていっしょに暮らしており、芝生が植えられた台所つづきの南側には、ふたりが住む小さな家が建てられていた。好太郎の母親と妹が住んだ6帖ひと間の小住宅も、三岸節子の兄・章義からの出資で建てられていた。節子は、夫と子供3人、さらに義母と義妹の食事を作らなければならず、とても落ち着いて創作活動に取り組めるような環境ではなかった。それでも、夜になってようやく自分の時間ができると、部屋のすみでキャンバスに向かって仕事をしていたらしい。第一アトリエでの暮らしの様子を、2005年(平成17)に出版された澤地久枝『好太郎と節子 宿縁のふたり』(NHK出版)から引用してみよう。
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 これで死んでもいいと好太郎が喜んだ鷺宮の新居は、彼が設計した。小さなアトリエ、廊下をへだてて床の間つきの四畳半と六畳間、長四畳のお勝手。そしてテラスがある。/外出がちの好太郎は別として、おとなの女三人、子供三人の暮し。そこで家事をこなしつつ絵を捨てない節子の苦労は、現在わたしたちが考える苦労をはるかに上まわっていたと思われる。
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 今日のように便利な家電Click!は、大正末よりすでに多く輸入され、また国産品も開発されて電器店で販売されはじめてはいたけれど、ほとんどがおカネ持ち用の製品ばかりだった。貧乏な家庭ばかりでなく、一般の家庭においても、炊事や洗濯・掃除をはじめ、冷蔵庫がないので日々の買い物や、毎日の風呂焚き(内風呂がある家庭は、それだけで裕福のあかしだった)まで、家事すべてが主婦の毎日の手作業で成立していた。三岸節子は、それらの家事に加え、義母のイシの世話や肋膜を患っていた義妹・千代の看護に追われていた。
 当時、三岸好太郎の第一アトリエを訪問した記者が、「美術の秋に(連載第十四回)・・・絵をかく夫婦」というタイトルで記事を書いている。記事は、1969年(昭和44)に出版された田中穣『三岸好太郎』(日動出版)に収録されているのだが、1932年(昭和7)9月現在の記事であることは判明しているものの、掲載紙が不明だ。第一アトリエの様子を記事から引用してみよう。
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 先生のお宅は西武電鉄沿線の上鷺宮にある。コンクリート造りで豆腐を半丁に切ったような恰好をしている。壁をたたくとガラガラという音がするから、鉄筋ではなさそうだ。貧乏だ貧乏だといいながら、二十六歳のとき二千五百円でこれを建てたので、友人達はビックリして夢かと思ったそうだ。/それもその筈、先生は中学時代から苦学をして、美術学校はもちろん研究所へだってロクに通ったことはなし、新聞配達、夜啼きそば屋、郵便局員というように、苦学生のやる大概のことはやってきて、十九歳のとき早くも春陽会の展覧会に入選する一方、女子美術へはいったばかりの十七歳の「節ちゃん」----いまの奥さんと恋をはじめて、二年目にはもう長女の陽子(八つ)ちゃんを作りあげ、つづいて女、男の二人、都合三人を瞬間に作ったうえ、家まで建てたんだから、「夢かと思った」友人の驚愕も道理である。
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 1929年(昭和4)の第一アトリエ建設から、3年後に書かれた取材記事だ。ちなみに、三岸好太郎は「二千五百円」で第一アトリエを建設したと記者に吹聴しているけれど、三岸節子は「実際の建設費は千円前後」と、のちに訂正している。その建設費の半分は、三岸節子の兄・吉田章義が出しているのは既述のとおりだ。この記事では、三岸好太郎は36歳ということになっているが、実際は29歳だった。三岸好太郎は、年齢もサバ読んで記者に答えたものだろうか?
 長女・陽子様の想い出では、第一アトリエから大森の馬込文士村Click!に住んでいた好太郎の異父兄・梅谷松太郎(子母澤寛Click!)のもとへ、祖母(三岸イシ)や叔母(三岸千代)に連れられて出かけた記憶が鮮烈のようだ。陽子様へのインタビューから、当時の様子をうかがってみよう。
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★その後、北海道立三岸好太郎美術館の苫名直子様Click!より、同紙が読売新聞の1932年(昭和7)9月19日第7面に掲載されたものであることをご教示いただいた。
 イシさんがひと月に一度ぐらい、わたしをオシャレさせて(梅谷家へ)連れていくのね。そこは、もう森の山上の豪邸で、そのころは見たこともないような銀紙でくるんだチョコレートを食べさせてくれたの。そこから厚いグリム童話を、おそらく(祖母が)大森からもらってきて毎晩読んでくれたの。(中略) 梅谷家の末の子とわたしは同い年で、1週間ぐらい泊ってきたこともあったわね。
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 当時、子母澤寛は新聞社をやめて流行作家となっており、現在の大森第三中学校の敷地あたりに豪邸をかまえていた。遊びに行くと、家では食べられなかったケーキやチョコレートが出たので、少女の陽子様にことさら強い印象を残しているのだろう。
 
 三岸好太郎が1934年(昭和9)に急死すると、第一アトリエの前には好太郎がデザインし山脇巌が設計した、超モダンな新アトリエの基礎と骨組みが残された。三岸節子は、同年11月にこれを完成させると一家で現存する新アトリエへと移り、螺旋階段上Click!の2階で寝起きしていた。その間、第一アトリエは四国からやってきた画家志望の一家に貸している。
 戦後、第一アトリエは大幅にリフォームされ、外観がずいぶん変化している。特に大きく変わったのは、アトリエの西側にコンクリート製で2階建ての収蔵庫が増築されている点だ。1階はクルマのガレージに使用し、2階は散逸してしまった三岸好太郎の作品を蒐集し、安全に保管しておくための専用収蔵庫だった。三岸節子は、家族を養うために夫の作品を次々と手放さざるをえなかったので、戦後はそれらの作品を探し求めて買いもどしたり、彼女自身の作品と好太郎作品との交換に多大な労力を費やしている。
 三岸節子は、戦後に作品が売れはじめて少し余裕ができると、好太郎作品の持ち主を探しだしては少しずつ買いもどしはじめた。多くは所有者の言い値で買い取っているようだが、節子の作品の評価が高まると、好太郎の絵と節子の作品とを交換してほしいという所有者もいたらしい。三岸好太郎の代表作の多くは、この上鷺宮の第一アトリエで仕上げられ、展覧会場へと運ばれた。1977年(昭和52)出版の、三岸節子『花より花らしく』(求龍堂)から引用してみよう。
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 戦後、私の作品がようやく売れ始めたころ、これに呼応するかのように好太郎の遺作の初期から中期の作品が手元に戻り始めた。駄作売り絵の類まで、生前彼の生活を支えた代償を、感謝をこめていただき、また希望する方には私の作品と交換していただいた。/春陽会初期の代表作すべてと、中期の「少年道化」の力作二枚。最後の「蝶と貝殻」シリーズの中の優作、「のんびり貝」。その他おもな作品がちょうど窪地に水が集まるように手元へ帰った。/生前、没後を通じて三岸遺作はわずかひと握りの人々の理解を得ただけで、酷評に次ぐ酷評を受け、正当な評価を受けるに至らなかったのは、毎年画風が変貌するためであった。/これこそ大正、昭和の初めに相次いで出た先駆者たちが、絵画の新しい真実を求めて、命をかけてもろくも力及ばず、生命を焼き切った、いたましい歴史であった。
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 こうして、三岸節子のもとへ集まった好太郎作品220点は、のち1967年(昭和42)に北海道へすべてが寄贈され、1977年(昭和52)には北海道立三岸好太郎美術館Click!が誕生している。

◆写真上:1934年(昭和9)竣工の新アトリエ側から見た、旧・第一アトリエ跡の現状。
◆写真中上:上は、1941年(昭和16/左)と、1947年(昭和22/右)の空中写真にみる三岸アトリエ。下は、三岸好太郎・節子夫妻の長女・陽子様が描いた第一アトリエ完成時の間取図。
◆写真中下:左は、1947年(昭和22)作成の1/10,000地形図だが第一アトリエのみで新アトリエが記載漏れとなっている。右は、1963年(昭和38)の空中写真にみる第一アトリエで西側に収蔵庫と思われる四角い建屋が見えている。
◆写真下:第一アトリエで描かれた代表作のひとつで、死去する1934年(昭和9)制作の三岸好太郎『のんびり貝』(北海道立三岸好太郎美術館蔵)。