ずいぶん以前に、田島橋(但馬橋)Click!をめぐり、神田上水にひそむ“怪獣”の話が登場したことがあった。コメント欄で益田様にご教示いただいたのだが、田島橋の近くに犀ヶ淵と鳥居ヶ淵という小名が、『江戸名所図会』にも採取されている。鳥居ヶ淵は、おそらく藤稲荷社か下落合氷川社の鳥居が川辺から眺められたので、そのような名称がふられたように思うのだが、犀ヶ淵のほうからは神田上水にひそむUMA(未確認生物)の怪獣「サイ」(?)が出現している。
 これまで神田上水や妙正寺川の風情について、江戸期に落合地域で盛んだった夏のホタル狩りClick!は何度か書いてきたし、秋の月見も大田南畝(蜀山人)Click!の落合散歩Click!や山手線の月見電車Click!などにからめてご紹介してきた。でも、犀ヶ淵の怪獣譚は取り上げそこなっていた。このサイトでは、学習院に出現した怪獣(実はプロテ星人Click!)や、湘南海岸に上陸した怪獣(マリンコングClick!)など、いろいろな怪獣をご紹介しているので、やはり下落合に出現した怪獣を紹介しないわけにはいかない。さっそく、江戸期に記録された怪獣サイについて調べてみよう。
 河川沿いに犀ヶ淵という地名が残り、そこから怪獣サイが上陸して人々を襲った・・・という伝承は、江戸東京では荒川流域にもあるようだが、およそ全国的に展開する怪獣譚のようだ。下落合では人は襲われておらず、どうやら怪獣に睨まれただけですんだようなのだが・・・。では、以前のコメント欄で益田様も引用されている、江戸期に書かれた釈敬順『十方庵遊歴雑記』(江戸叢書刊行会版)の巻之中、第64「拾遺高田の拾景」から少し長いが引用してみよう。
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 一、 犀が淵の月光といふは、田島橋の下にして、此淵に悪魚住て今も猶もの凄し、左はいへ逆流に目明の胗腫(しんしゅ)たる風色又一品たり、去し文化十一年申戌の夏楽山翁は家族六七輩を同道し、此川筋に釣せんとして不図爰(ここ)に来り、川端に彳(てき)して逆流の一際すさまじく渦まくよと見へしが忽然として水中より怪獣あらはれたり、その容體(ようてい)年経し古猫に似て大さ犬に等しく、惣身白毛の中に赤き処ありて、斑に両眼大きく尤丸し、口大きなる事耳と思ふあたりまで裂、口をひらき紅の舌を出し、両手を頭上へかざし、怒気顔面にあらはれ、人々に向ひて白眼(にらみ)し様なり、水中と岡と隔といへどもその間僅(わずか)三間余、頭上毛髪永く垂下りて目を覆ひ、腹と覚しきあたり迄半身を水上へ出し、しばらく彼人々々を見詰にらみしかば思ひもふけず恐怖せし事いふべからず、耳はありやなしや毛髪垂覆ひし故見へ定ざりしが、頓て水中へ身を隠し失たりしと、若此時楽山翁のみならば、件の妖怪飛かゝりやせんと彌驚怖し宿所へ帰りて件の怪物を見しまゝ書きとゞめ、文を作り詩を賦して筥に収めたり、蓋彼怪獣の容軆を書きし様は獺(かわうそ)の功を経しものか、又世に伝ふ川童(かっぱ)なといふものにや、画にて見るさへ身の毛彌立(よだつ)ばかりぞかし、况(いわん)や思はず真の怪物にあひたる人をや、珍説といふべし、然るに岡田多膳老人は如是と称して佛学を好めり、性として斯かる怪談を好るが物好にも心づよく、彼怪獣を見届んと両度まで独行し、彼処の川端に躊躇せしかど、出遇ざりしと咄されき、是によつて土人悪魚栖りと巷談す、しかれども月光の晴明にして雅景なるは一品なるものおや、
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 目撃談をそのまま信じれば、ちょっと見は年を取ったネコのようだが大きさはイヌほどで、全身が白い毛でおおわれており、ところどころに赤い斑がついている哺乳動物らしい。両目は大きくてまん丸で、口が耳までクワッと裂けて赤い舌をチョロチョロさせ、両手を頭の上にあげながら釣り人たちを威嚇している。頭からは目が隠れ、耳が隠れるほどの長い毛がたれ下がっていて、しばらくすると人々を襲わずに水中へそのまま姿を消してしまった。
 長髪で目が隠れていたのに、なぜ睨んでいたとわかるの?・・・とか、耳が見えないのに口が耳あたりまで裂けていたとどうしていえるの?・・・とか、あまりうるさいことは追及せず、素直に神田上水の怪獣サイを再現してみると下の拙図のようになる。(爆!) ・・・神田川のゆるキャラか?
 
 
 頭上の特徴的な皿や、背中の甲羅が見えないので、当時の人たちがイメージしやすかったカッパClick!ではなさそうだ。両手を頭の上にかざしている仕草から、ニホンカワウソの動作とも思えない。そもそも、ニホンカワウソの体色は白に赤い斑点など入っていない。身体を水面に浮かせて両手を上にあげる、突然変異をした白いラッコが、江戸期の神田上水にいたとも思えないので、なにか別のものにちがいない。そもそも、ほんとうに生き物だったのだろうか?
 この紀行文では、犀ヶ淵が田島橋の「下(しも)」=下流域ということになっている。田島橋に新宿区が設置してる、田島橋や一枚岩の由来を記したプレートには、犀ヶ淵や鳥居ヶ淵は田島橋の上流ということになっているようだが、『江戸名所図会』の記述から解釈したものだろう。同誌の記述をそのまま記載している、1916年(大正5)に出版された『豊多摩郡誌』から引用してみよう。
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 一枚岩 下落合の神田上水白堀通りにあり、夏時水量減ずるの日は一堆の巨巌水面に現はれ濫水巌頭にふれて飛灑(ひさい)す、此流に鳥居ヶ淵、犀ヶ淵等その余小名多し、此辺秋夜幽趣あり、古は夏は蛍、秋は月の名所として著はれ居たりといふ。
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 鳥居ヶ淵や犀ヶ淵が、田島橋の上流にあるとされている一枚岩あたり・・・とは、どこにも書かれていない。文章は明らかに区切られ、「此流に」(この流域に)は鳥居ヶ淵と犀ヶ淵などの小名が多く存在している・・・とされている。したがって、同じ江戸期に記録された『十方庵遊歴雑記』を踏襲するなら、少なくとも犀ヶ淵は田島橋の下流域に存在したことになる。位置的には、田島橋から下流へ神田上水が大きく北へとカーブを描く、どこかの“淵”ということになるのだろう。
 川の流れが急激なカーブを描くと、水流が岸辺に突き当たって乱れ、場所によっては渦を巻く危険な流れができることは知られている。江戸期の田島橋の位置をみると、まるでバイオリズムの波形のように湾曲を繰り返す神田上水(旧・平川Click!:ピラ川=崖川)の、ちょうど波底のような位置にあった。現在の田島橋は、昭和初期にスタートした旧・神田上水の整流化工事により、上流・下流ともに直線状になっているが、江戸期には大きく蛇行を繰り返す上水道専用の河川だった。
 

 田島橋の少し上流には水車小屋があり、この水車は昭和初期まで製粉工場として機能していた。この水車をすぎるあたりから、神田上水は大きく南へと湾曲し、田島橋のある波形の“波底”へと激突する。そして、今度は北へと急激に蛇行し、旧・高田馬場仮駅Click!のあった西側あたりで再びカーブを描いて、清水川方面へと南下している。つまり、田島橋は蛇行する神田川の大きなふたつの波形の“波底”に位置していることになる。そう考えると、流れに危険な渦巻きができるのは、田島橋をすぎて次のカーブへとさしかかるあたり、昔の地番でいえば田島橋のすぐ下流の下落合67番地、あるいは下落合36番地あたりの流域ということになるだろうか。
 犀ヶ淵は、「サイ」という怪獣が住むから怖いところだ・・・という伝承は、この流域は流れが複雑で危険な場所だから近寄るな・・・という、江戸期以前からの教訓から生まれたフォークロアであり、代々の地名ではなかったか。「サイ」(サイェ:saye)は、原日本語(アイヌ語に継承)で「巻・渦」の意味そのものだ。つまり、流れが渦巻く「サイ」の場所だから気をつけろという教訓が、後世に伝説の霊獣「犀」と結びついて付会伝説が生まれた・・・そんな気が強くするのだ。
 しかし、それではバンザイする化けネコClick!のような生物は、はたしてなんだったのだろう? 枝つきの腐った流木が、渦に巻きこまれて直立し怪獣サイに見えたのだろうか。それとも、田島橋から誤って落ちた大きな白ネコが身体を岩にぶつけて出血し、それが「助けてニャ!」と前脚をあげて水中でもがいていた・・・とでもいうのだろうか? それにしては、耳が見えずに長髪だったのが解せないのだが・・・。楽山翁が描いたという怪獣サイの絵は、いまどこにあるのだろう。
 
 
 このエピソードは、リアルタイムではなく文化年間の昔話として語られている。当然ながら、同時代で報告された記事なら、即刻、楽山翁と「家族六七輩」は水番所にしょっぴかれて厳しい詮議を受けただろう。神田上水は御留山Click!と同様、江戸市民の水道水Click!=御留川Click!であり、そこで水浴したり野菜を洗うことはおろか、川魚を捕ることさえ幕府から禁じられていたからだ。

◆写真上:田島橋の下流で、大きく北に湾曲した神田上水の跡は、現在もほぼそのままの形状で道路として残る。①犀ヶ淵があったあたりと思われる、旧・下落合67番地の界隈。
◆写真中上:上左は、釈敬順『十方庵遊歴雑記』(江戸叢書刊行会版)の内扉。上右は、同誌の記述から怪獣サイを再現してみると、およそわけのわからないこんな生き物になる。下は、江戸後期に作成された上戸塚村絵図(左)と下落合村絵図(右)にみる田島橋。
◆写真中下:上左は、1911年(明治44)に作成された「豊多摩郡落合村」地図。上右は、葛飾北斎『北斎漫画』に描かれた「水犀」。下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる犀ヶ淵があったと思われる田島橋下流の界隈と撮影ポイント。
◆写真下:上左は、②田島橋から下流域を眺めた現在の様子。神田上水の流れは、画面左手から大きく北へと湾曲していた。上右は、③下流の清水川橋から上流の田島橋方向を眺めたところ。下左は、④道路になった旧流跡の終端は緑地になっていて現在は神田川へと抜けていない。下右は、⑤田島橋から上流域を向いて夕暮れの神田川を眺めたところ。