当サイトは、落合地域で暮らしていた画家たちを中心に取りあげてきたので、従来はどうしても「目白バルビゾン」Click!などと呼ばれた、中村彝Click!などを中心とする大正初期から中期にかけての画家たち、そして大正末から昭和初期にかけての、里見勝蔵Click!や前田寛治Click!、小島善太郎Click!、木下孝則Click!、佐伯祐三Click!らが結成した1930年協会Click!に関する記事が多くなっている。だが、佐伯祐三(1928年歿)や前田寛治(1930年歿)の死後、1930年協会が1930年(昭和5)にほとんど自然消滅的に解散し、その流れを受けて同年11月に結成された独立美術協会Click!については、いままであまり触れてはこなかった。きょうは、1930年協会から独立美術協会への流れを、改めて整理する意味で記事を書いてみたい。
 独立美術協会の中心的な画家だった、児島善三郎のご子孫の方から山本愛子様Click!を通じて、同協会の貴重な写真類をお送りいただいた。1枚は、1930年(昭和5)11月1日に独立美術協会が結成された当時、会員全員による記念写真であり、もう1枚は1933年(昭和8)に第3回の独立展が開かれた東京府美術館前に勢揃いした会員写真であり、最後の1枚はめずらしい写真で、杉並町田端(現・杉並区荻窪)へ1931年(昭和6)2月に開設された、独立美術研究所で学生たちに教える、林武Click!と児島善三郎の姿をとらえたものだ。前身の画会である1930年協会も、1928年(昭和3)3月に代々木山谷160番地へ学生たちを集めては絵を教える1930年協会洋画研究所を開設していたが、そこでの授業風景をとらえた写真は残されていない。
 1930年協会の結成は、目白の小石川区高田老松町4番地(現・文京区目白台1丁目)の二科の画家・埴原久和代邸内にあった、円鳥会Click!が成立母体となっていることはすでに記事にしている。もともと、萬鉄五郎Click!が中心になってスタートした画会だが、そのメンバーの顔ぶれを見ると、のちに1930年協会の前田寛治や木下孝則、木下義謙、小島善太郎、野口彌太郎、林武など主要な画家たちの姿がみえ、独立美術協会の児島善三郎もすでに円鳥会に参加していた。円鳥会の有志に里見勝蔵と、帰国したばかりの佐伯祐三を加え、1926年(大正15)6月の『中央美術』(第12巻6号)に前田寛治が宣言文を発表して、1930年協会はスタートしている。
 当初は前田寛治、木下孝則、小島善太郎、里見勝蔵、佐伯祐三の5名だったが、既成の美術団体である二科や帝展とは対立せず、同志の美術研究会のような趣きと姿勢で出発したせいか、公募を開始した第3回展から同協会の規模は爆発的に拡大していくことになる。その展覧会には、同時代を象徴するような代表的な画家たちが次々と入選し、昭和初期の美術界を席巻する勢力にまで育っていった。でも、佐伯祐三がフランスで死去Click!し、前田寛治が荻窪の前田写実研究所Click!で1930年(昭和5)に急死すると、同協会は求心力を急速に失うことになる。また、目標としていた5年後の1930年(昭和5)を実際に迎えたことで、一定の時代を画した終焉意識とともに、画家たちの間には“一段落感”もあったのだろう。1929年(昭和4)12月に、里見勝蔵と児島善三郎、古賀春江が退会すると、同協会は解散状態を迎えている。

 1930年協会へ入会した画家、あるいは同協会で受賞した画家には、林重義Click!、林武、野口彌太郎Click!、靉光Click!、井上長三郎、藤川栄子Click!、佐伯米子Click!、長谷川利行Click!、中山巍Click!、川口軌外Click!、鈴木亜夫、福澤一郎Click!、鈴木千久馬、伊原宇三郎、田中佐一郎などがいた。これらの顔ぶれを見ると、次に結成される独立美術協会のメンバーと、かなり重複しているのがわかる。
 さて、1930年協会にかわり、ボス的な権威主義や表現のマンネリ化、あるいは組織的な硬直化におこたっている既成の美術団体を否定し、そのどこにも属さない対立軸としての美術団体を設立しようとする動きが、1930年協会に参加していた多くの画家たちの間から出てくる。1930年(昭和5)には、里見勝蔵が既存の美術界との訣別と「独立」を標榜して二科会を脱退し、新たな画会結成へと動きはじめている。また、「独立」にはもうひとつ別の意味合いがあり、明治期にヨーロッパから輸入され模倣されてきた油彩画を、日本ならではの油絵へと脱皮させる、「ヨーロッパ絵画からの独立」という意味合いもこめられていた。
 このテーマは、大正初期から岸田劉生Click!によって提唱され、美術界には通奏低音のように流れていた古くて新しい表現課題であり、ヨーロッパ芸術の無批判で安易なコピーに対する「こんなもん描きゃがって、バッカ野郎! 殴ってしまう!」と、展覧会でステッキを振りまわして激怒Click!していた岸田劉生の芸術観が、1930年代にかたちを変え改めて登場した新たな取り組みでもあった。独立美術協会で、後者のテーマをおもに追求しつづけたのが児島善三郎だった。


 独立美術協会の批判が二科会に向けられたのは(おそらく国が芸術を管理運営する帝展は論外だったろう)、同協会の創立に参加した画家のうち三岸好太郎Click!(春陽会Click!)と高畠達四郎(国画会)を除き、残りの全員すなわち林重義、林武、伊藤廉Click!、川口軌外、小島善太郎、児島善三郎、中山巍、里見勝蔵、清水登之、鈴木亜夫、鈴木保徳が二科の画家だったからだ。13名の会員でスタートした1930年(昭和5)11月、独立美術協会の「独立宣言」を引用してみよう。
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 独立宣言
 茲(ここ)ニ我々ハ各々(おのおの)ノ既成団体ヨリ絶縁シ独立美術協会ヲ組織ス、以(も)ツテ新時代ノ美術ヲ確立セム事ヲ期ス (カッコ内は引用者註)
 趣 旨
 此度私達は種々の私的事情を押し切り結束して独立する事に到りましたのは、現画壇に私達の芸術を闡明(せんめい)し新しき時代を実現したい希望の他何物もないのであります。/私達は各々の所属団体の優遇に満足し感謝する時ではなく、私達の芸術及び精鋭な新人たちの活躍に依つて画壇を少なくも十年二十年の時を短縮し、飛躍させる事を信ずるのであります。/今や全画壇の大家老ひ、中堅は安逸を貪り無意味なる常連作家への擁護に依つて、新人は飛躍を阻害され、新興気運は頓に阻害され、以つて疲労と沈滞を来たしてゐる事はすでによく御承知の通りと思ひます。/茲に私達はあらゆる弊害を排して新芸術の研鑚開拓に邁進し新しき時代の実現に全力を尽す事を約束するのであります。
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 「独立宣言」から1ヶ月余、1931年(昭和6)1月に独立美術協会の第1回展が東京府美術館で開かれ、いまだフランスにいた福澤一郎も加わり、会員は総勢14名となった。1933年(昭和8)には、渡仏していた野口彌太郎Click!が帰国して参加し、洋画界を席巻するにまで成長している。
 
 さて、ご子孫の方から貴重な写真をいただいといて申しわけないのだが、三岸好太郎の死後に竣工した三岸アトリエClick!を、ある日、訪問していた児島善三郎は、好太郎がこだわってテラスに設計した水蓮の池に、酔って足をすべらせドボンしている。コンクリートの四角い池はかなり深く、どうやら全身くまなくズブ濡れになってしまったようだ。それ以来、三岸好太郎・節子夫妻の長女・陽子様Click!によれば、「お池に落ちた児島のおじちゃん」として今日まで語り継がれている。w このほか、独立美術協会には面白いエピソードがたくさんあるのだが、それはまた、別の物語。

◆写真上:1931年(昭和6)2月に杉並町田端へ開設された独立美術研究所の授業風景で、中央には学生たちに教える児島善三郎(右)と林武(左)の姿がみえる。
◆写真中上:1930年(昭和5)11月1日に結成された、独立美術協会の創立メンバー13名の記念写真。福澤一郎はパリにいて、翌1931年(昭和6)1月に参加している。
◆写真中下:上は、1931年(昭和6)の『アサヒグラフ臨時増刊 独立展号』に掲載された独立美術協会へ参加した画家たちの会員紹介。下は、1933年(昭和8)に東京府美術館で開催された独立美術協会第3回展の記念写真で、福澤一郎や野口彌太郎の姿もある。
◆写真下:左は、1934年(昭和9)に竣工した三岸アトリエのテラス脇にあった池の位置。右は、三岸好太郎のアトリエ完成予想画に描かれた水蓮の池。1934年(昭和9)に描かれた三岸好太郎『アトリエ・デザイン』(北海道立三岸好太郎美術館蔵Click!)の部分より。