ずいぶん前になるが、下落合の御留山に生える、さまざまなキノコの写真Click!(撮影・松尾德三様)をご紹介したことがあった。昔から武蔵野の森に生える、典型的なキノコ類なのだろう。子どものころ、この季節になるとよくキノコ採りをして遊んだ記憶がある。キノコといえば、すぐにアカマツの根に生えることが多いマツタケが想い浮かぶけれど、わたしがよく集めてまわったのはクロマツ林の根に顔をだすハツタケだった。
 ベニダケ科のハツタケは食べられはするが、それほど美味なキノコではない。ただ、キノコ好きにはたまらないのがハツタケで、マツタケよりも美味いという人もいるから、味覚は人それぞれだ。ひと口でいえば、ハツタケはいかにも“キノコ臭い”のだ。菌類独特の香りというのか、どのように料理しても強いキノコ臭がする。天ぷらにしても吸い物にしても、おみよつけやすき焼きの中へ入れても、その強い香りが消えないのはマツタケと同様だが、いかにもキノコを口にしているという風味でくどいことこの上ない。食後も、キノコの匂いが口の中からしばらく消えないほど、強い香味がある。そこが、キノコ好きにはたまらないゆえんなのだろう。
 ハツタケを採取したのは、湘南の海岸線に植えられた防砂(風)のためのクロマツ林だ。毎年、9月から10月にかけ、ハツタケが面白いほどたくさん採れた。母親から借りた買い物かごだけでは足りず、大きな木箱を持って採取しにいくのだが、すぐ山盛りになるほどだった。よく、うちへ遊びにきては2~3週間は泊まっていった、母方の売れない書家であり日本画家でもあった祖父Click!もハツタケが好きで、当時は海岸線のあちこちで行われていた地曳網を手伝ってから、ついでに海岸沿いの松林を散策しながら、ハツタケも採ってくるのが秋の楽しみだったようだ。
 もちろん、朝から獲れたての魚とハツタケをつまみに、葡萄酒(ワインとは呼ばない)を一杯やるためで、この朝酒が終わるとわたしを連れてあちこちへ散歩に出るのが、祖父の「湘南生活」における日課だった。当時、地曳網を手伝うと報酬としてもらえる魚は、大きなサバなら1尾、ムロアジなら1~2尾、マアジなら3尾ほどで、大量に獲れるイワシやシラスは“報酬”外だったようだ。いまでこそ、「湘南のシラス丼」などと呼ばれて名物になっているけれど、シラスはいつでも大量に網へかかったので、ほとんど無価値に近い存在だった。当時の地曳きは、すでに小型モーターが使われていて、すべてが人力によるものではなかったけれど、モーターの馬力が弱いためか、いまだたくさんの漁師たちが球体の浮きがついた地曳網のロープを曳いていた。
 
 魚やキノコを肴に葡萄酒を楽しむのだから、当然“白”だと思うのだが、祖父はなぜか“赤”ばかりを好んだ。母の話では、ウソかまことか芸者を15人も引き連れて(祖父ならやりかねないだろう)、春の土手で花見の宴をひらいたときも、日本酒ではなく葡萄酒の“赤”を飲んでいたのではないかと思う。わたしが中学2年生のとき、この道楽好きで葡萄酒好きな「芸術家」の祖父は急死するのだけれど、死ぬ直前に飲んだのも赤玉ポートワインだ。朝、起きぬけに寝床で小さなグラスのポートワインを一杯ひっかけ、「お獅子がくるから、門と玄関の鍵を開けとけよ」といって再び横になると、そのままこと切れた。80歳を迎えた、1月2日の朝だった。
 一度、クロマツ林へハツタケを採りに入り、マツの小枝で目を突いたことがあった。ちょうど、瞳の真ん中に枝の先が刺さり、一瞬で右目の視野が白くにごってしまった。まるで、あたりが深い霧につつまれたように、すべての風景がかすんで見える。母親に連れられ、急いで眼科医へいき手当てをしてもらったのだが、右目の眼帯は1週間ほどとれなかった。眼医者の待合室で順番がくるのを待ちながら、高い棚の上に置かれたテレビを、母親とともに見あげていた記憶が妙に鮮明だ。よく見える無傷のほうの眼で、横眼づかいにチラチラ見上げていたのが、写りのよくない“ナショナル”のアンテナ付き、真っ赤なコンパクトテレビだったこともはっきり憶えている。

 小学生の高学年になったころ、湘南海岸沿いの松林へヘリコプターによるDDTの空中散布がはじまった。クロマツに寄生する、大きな蛾(おもに三角形のスズメガだろう)の幼虫、すなわち6~7cmはありそうな大量の毛虫を退治するのが目的だったのだが、それ以来、マツ林でのキノコ採りは母親によって厳重に禁止されてしまった。空中散布の当日、洗濯物や布団が干せないのはもちろん、2階の鎧戸まで締め切っていたように思う。散布が終わったあと、クロマツの枝々はまるで粉砂糖をまぶしたように白くなっていた。いまでは、危険なDDTの空中散布など行われていないだろうから、再びハツタケを採りにクロマツ林へ入る人がいるのかもしれない。
 眼をマツの小枝で突いたとき、眼科医の待合室でかかっていたテレビは、東京オリンピックの開会式の生中継だった。関東大震災Click!の教訓で(城)下町Click!のあちこちに造られた広場や防火帯(広小路)、避難公園、堀割りなどの防災インフラが次々と道路や高速道路の橋脚敷地にされ、「バチ当たり」Click!あるいは「町殺し」Click!と呼ばれる惨状を呈するようになったのは、東京オリンピックのあと、下町をくまなく歩いた親父からいつも聞かされていた。建築・土木が専門の親父Click!は、おそらく仕事の眼で下町のひどいありさまをクールに観察していたのだろう。住民に満足のいくなんの相談も説明会もなく、事実上、行政が好き勝手に「開発」を進められた時代だ。
 
 下町に住む数百万人(昼間は500万人を超えるだろうか)の人々は、関東大震災以前と同様に生命の危険にさらされたまま、人口に見合う満足な避難場所もないまま、今日にいたっている。東京オリンピックと聞くと、横眼づかいにチラチラとウサン臭げに見てしまうのは、親父からさんざん聞かされた人命無視のメチャクチャな「オリンピック工事」によるのだろうが、眼科医の待合室で母親と見上げていた、視界の半分が白く濁った、開会式の生中継の印象によるのかもしれない。

◆写真上:湘南海岸に沿い、戦前から植林されているクロマツの防砂・防風林。
◆写真中上:左は、クロマツの根方に生えるハツタケ。右は、クロマツ林の大きな西洋館(大磯)。
◆写真中下:海岸から眺めた、平塚沖の旧・科学技術庁潮流観測塔(現・東海大学総合実験タワー)と江ノ島。科学技術庁の防災科学技術研究所は、虹ヶ浜のわたしの家から100mほどの元・塩工場跡に建っていたが、現在は東海大学の総合海洋実験場になっている。
◆写真下:戦前の記念絵葉書より、片瀬海岸(左)と鵠沼海岸(右)の地曳網で背景は江ノ島。