わたしは、子どものころから貯金をしたことがない。ここでいう貯金とは、銀行預金のことではなく貯金箱へコインをためていく“貯金”のことだ。もっとも、ちっとも増えない銀行の預金残高を横目で見ると、そもそも貯蓄自体が苦手なのかもしれない。貯金箱がキライなのは、ちょっとずつおカネを1枚1枚ためていくのが、癇性で気の短いわたしにはじれったくてしかたがないのと、なんとなくいじましさを感じるからだ。
 小学生になって小遣いをもらうようになったころ、母親から郵便ポスト型の赤い貯金箱をもらった。プラスチック製で、アタマの部分がネジ式に取れるようになっており、おカネがたまったらフタを開けて取りだすしかけになっていた。小学校低学年のころ、わたしは1日に10~20円の小遣いをもらっていたと思うのだが、それをポストに入れてチャリチャリンという音を確かめては、翌日にフタを空けて取りだすと駄菓子屋へ走ったので、貯金箱にはなんの意味もなかった。
 親がくれたポスト貯金箱は、ひょっとすると郵便局へ貯金したプレミアムとしてもらったものなのかもしれないが、少しずつ貯金をして目標額へ近づく喜びや楽しさ、ひいては一歩一歩の小さな積み重ねで日々努力を重ねれば、思いがけずに大きな目標を達成できるものだ・・・というような、教育効果をねらったものかもしれない。わたしは、おそらくそのような親の気持ちをみごとに裏切り、きょうはバナナアイスに明日はクジ引きアメと、貯金箱が重たくなることはついぞなかった。ポスト貯金箱は、小学校の高学年になるころ早くも行方不明になっている。ちなみに、銀行に小遣いを貯めて買ったのは、小学5年生のときの伐折羅大将Click!が初めてだった。
 戦前のボロボロになった親父の行李から、50銭銀貨が20~30枚、まとめて出てきたことがあった。これは、親父が「行李貯金」Click!の名人だったからではなく、小学生のときに親からもらって遣いきれなかったおカネを机の引き出しへためていたものだ。1935年(昭和10)に10歳だった親父は、親から毎日50銭の小遣いをもらっていた。これがどれだけ非常識Click!なことか、当時、日本橋のミルクホールで売っていたアンパンが、1個1~2銭だったことを考えれば(銀座の木村屋はもう少し高かったかもしれない)、すぐにおわかりいただけるだろう。いま、セブンイレブンで売っているアンパンは1個98円だが、100円だとしても50銭で30~50個は買えた時代だ。いまのおカネに換算すれば、毎日3,000~5,000円をもらっていたことになる。
 親父が家にいると、祖母Click!はご近所仲間と芝居や三越Click!、お稽古Click!、帝国ホテルClick!などへ遊びに出られないから、子どもに法外な小遣いをやっては「好きなことしといで」と、家から追い出していたのだ。お腹が空くと近くのカフェへ出かけ、林芙美子Click!のような勉強好きで早出の女給さんに学校の宿題をみてもらっては、オムライスやサンドイッチを食べていた。それでも20銭ほどのお釣りがくるから、宵越しの銭になっていたわけだ。いまでは考えられないことだけれど、当時は町内がみんな顔なじみの(城)下町Click!環境だからできたことだろう。そんな小学生生活を送りながら、親父は横道へ外れもグレもせず、超マジメな性格に育って公務員になったのだから不思議としかいいようがない。ご近所や町内が信用できるからこそ可能だった、祖父母の「教育」方針だったのだろう。おそらく、このような生活は乃手では考えられないにちがいない。
 
 親父の引き出しにしまわれた大量の50銭銀貨は、日本橋の実家から「行李貯金」として諏訪町(現・高田馬場)の下宿へと運ばれ、いく度もの空襲Click!や戦争の混乱をくぐり抜け、戦後の新円切り替えのときはすっかり忘れ去られていた。祖母の50銭銀貨が、親父の学生下宿からわずか1,000mちょっとのところに住むわたしの手もとにあるのが、なんとも不思議な気がする。
 貯金箱といえば、下落合の相馬邸Click!と御留山Click!を購入するために、同邸を訪れた第一徴兵保険(のち東邦生命)の社長・太田清蔵Click!は、応接室に置かれた二宮金次郎(正確には二宮金治郎)像Click!に目をとめただろう。相馬家と二宮尊徳との、深いつながりも聞いているのかもしれない。そのせいだろうか、第一徴兵保険の創立40周年を記念して、1938年(昭和13)から翌年にかけ二宮金次郎(金治郎)の貯金箱を作り、得意先や社員に配布している。すぐあとには、「♪紀元は二千六百年~」を記念してか、南北朝時代の武将・楠正成の貯金箱も配ったようだ。1978年(昭和53)に文藝春秋から出版された、向田邦子Click!の『父の詫び状』から引用してみよう。
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 貯金箱は、私が二宮尊徳、弟が楠正成であった。/父の勤めていた保険会社の創立何十周年記念かに配った品ではなかったかと思う。まがいの青銅で、かなり大きな持ち重りのするものだった。二宮尊徳や楠正成の顔も本物そっくりで、台座の下から中のものが取り出せるようになっていた。/私と弟はこれを本箱の上に飾っていたが、ある時、学校から帰ると、母が楠正成からお金を出している。/月給日の前だったのか、前の晩押しかけた沢山の来客の、おすし屋さんの払いかなにかが足りないので借りるわよ、というのである。前にもこういうことは時々あった。(中略) 楠正成が油断のならない人物のように思えてきた。そういう目で見ると、私の二宮尊徳も、少年の癖にいやに老けたズルそうな顔に見えてくる。ソントク(損得)という名前も気に入らない。子供の頃のこういう印象は拭えないものと見えて、私は今でも銅像を見ると、あの台座の下にお金が入っているような気がして仕方がないのである。
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 わたしは貯金がヘタだったが、こんな言葉があるとすれば“貯菓子”は得意だった。近くで買った駄菓子や、親がお土産に買ってきてくれた菓子類を、そっと自分の部屋へ運んでは引き出しに隠して、夜が更けると食べながら好きな本を読んでいた。もちろん、寝る前の歯磨きを終えたあとなので、菓子が見つかればずいぶんと叱られ即座に没収されただろう。
 菓子の中でも、親父が1週間に一度ぐらいのペースで買ってくる、「棒チョコ」が大好きだった。6~7cmぐらいの、細長いビスケットにチョコレートでコーティングし、それを銀紙で包んだものだ。正式には「フィンガーチョコレート」という名称なのだそうだが、わが家では棒チョコと呼んでいた。メーカーは、確か森永製菓だったと思う。細長い箱の中に、ズラリと並んだ銀色の棒チョコの行列に、たった1本だけ、金紙に包まれた棒チョコが入っている。この金色に輝く棒チョコを、食べてしまうのが惜しくて机の引き出しへ“貯菓子”していたことがあった。
 ちょうど、ドロップ缶の中ではとても稀少価値だった白いハッカ味のドロップを、いつまでも食べるのが惜しくて最後まで残しておく・・・という感覚にも似ている。でも、ハッカ味のドロップを「よし、きょうは食べてやろう!」と決心して味わうころには、缶の中がすっかり湿気ってしまって、他のドロップの溶けたものがハッカドロップにベタベタくっつき、妙な味になっていて悔しい思いをしたことがある。金色の棒チョコも、まったく同じような結末だった。
 「よし、ついに食べるぞ!」と、ウキウキしながら古いものから金紙をそっとはがして口に入れると、とうに湿気って引き出しにあった文房具の妙な移り香がし、サクサクとした食感などまるでなくマズイことこの上なかった。美味しい(美味しそうに見える)ものは、できるだけ早く食べてしまおうという、わたしのさもしい根性が形成されたのは、おそらく小学生だったこの時期のことだろう。

 
 先日、山本愛子様Click!のご紹介で、東京にみえた北海道立三岸好太郎美術館Click!の学芸員でおられる苫名直子様Click!とお会いする機会があった。そのとき、美術館のお土産として三岸好太郎の“蝶”をイメージしたクッキーをいただいた。美味しそうに焼かれたクッキーの中に、まるでわたしの性格を見透かされたように、たった1羽だけ三岸作品のような美しい蝶がまぎれこんでいる。同美術館に収蔵されている、1934年(昭和9)に制作された三岸好太郎『飛ぶ蝶』には、1羽だけ虫ピンから外れてどこかへ飛び立とうとするブルーの蛾が描かれている。こういう仕掛けにとても弱いわたしは、彩色された蝶を最後の最後まで残しておいて食べたのだが、早めにいただいたせいか湿気もせず、香りもよくてとても美味しかった。ごちそうさまでした。>苫名様
 北海道立三岸好太郎美術館で開催中の「生誕110年三岸好太郎展」Click!は11月17日まで。

◆写真上:いまは全校舎が建て替え中で撤去されている、目白小学校の二宮金次郎像。
◆写真中上:左は、親父の古い行李から出てきた50銭銀貨で関東大震災の年に鋳造されたものだ。三岸好太郎が、吉田節子へ財布ごとClick!わたしたおカネの中にも、この銀貨が混じっていただろう。右は、戦前のブロンズを模した陶製の二宮金次郎貯金箱。
◆写真中下:左は、4代目・太田清蔵が購入した1939年(昭和14)ごろに撮影された御留山の旧・相馬邸。右は、相馬邸の応接間に置かれていた二宮金次郎像。
◆写真下:上は、1934年(昭和9)に制作された三岸好太郎『飛ぶ蝶』(北海道立三岸好太郎美術館蔵)。下は、三岸好太郎の蝶をモチーフにした記念クッキー。