わたしがコーヒーを飲みはじめたのは、ハッキリと記憶しているわけではないけれど、中学生になってからのことだったと思う。当初は、もちろんインスタントコーヒーで広く普及していた「ネスカフェ」だったのではないか。ちがいがわかる男の・・・というキャッチで、フリーズドライ製法により販売された高級インタントコーヒーなど、親は買ってくれなかったと思う。
 わたしの家ではコーヒーがあまり好まれず、煎茶と紅茶が多かった。だから、どこかコーヒーにあこがれていた時期が子どものころにはあった。「コーヒーを飲むと、胃腸によくないし眠れなくなるから」というような理由で、小さいころにはコーヒーを止められていた憶えがある。でも、いまでは煎茶や紅茶のほうが(いれ方にもよるが)カフェインが強いことが判明しているから、わが家ではコーヒーを禁止した憶えはないのだけれど、子どもたちはあまり口にしない。
 インスタントコーヒーのピンと張った封の端を開けたときの、あのなんともいえない香りとコーヒーブラウンの粉色に、大人びた世界を感じたものだ。インスタントと名のつくものは、たいてい日本で発明された製品が多いけれど、インスタントコーヒーもまた日本人の創作らしい。米国在住の化学者・加藤サトリという人物が、1899年(明治32)に緑茶の「可溶性茶」製法を応用して、コーヒー抽出液を真空乾燥させて発明し、1901年(明治34)のパンアメリカン博覧会に出品。これが、インスタントコーヒーのはじまりとされている。その後、彼は加藤珈琲会社を設立しているが、当初は製法に問題があり大量生産は不可能だったらしい。のちに、米軍がインスタントコーヒーを採用して、日米戦争の前線へ大量に供給していたのは、どこか皮肉なエピソードだ。
 わたしは、休日というと外出するので喫茶店Click!を利用することが多いが、いわゆるチェーン店の「カフェ」は、なにもない街でよほど休憩場所に困るか、タクラマカン砂漠のヘディンのように喉がカラカラに乾いていない限りは利用しない。理由は単純で、うまいコーヒーに出あったためしがないからだ。1970~80年代にかけ、世界でコーヒーの美味しい3大国として、オーストリアやイタリアとともに日本の名が挙がっていた。別に日本国内で自家焙煎、いや手前味噌としていわれていたわけではなく、世界のコーヒー愛好家がリストアップした、最上位の3ヶ国だった。
 これは、まちがいなく層が分厚かった日本の「喫茶店」文化が支えていたものだろう。どんな小さな店でも、喫茶店を名乗るからにはその店ならではのコーヒーの風味には気をつかう・・・というのは、おそらく世界でもまれな現象だったにちがいない。そんな喫茶店が、街角から次々と姿を消している現状では、日本のコーヒー・ランクはどこまで落ちてしまったものだろうか。「美味しいコーヒー」の基準を知らない若い子たちは、チェーン店のカフェやハンバーガーのコーヒーの風味を、デファクトスタンダードとして鼻や舌にのせて基準化しているのだろうか?
 
 親からの独立資金稼ぎのため、学生時代にアルバイトをした喫茶店Click!では、バイトという立場なのにもかかわらずコーヒーの知識やノウハウを、店主や先輩からたたきこまれた。1970年代後半のコーヒー事情なので、いまでは古びてしまった知識やノウハウもあるのだろうが、そのときの経験はいまでも香りや舌の記憶として残っている。世界で生産されるコーヒー豆は、およそ200種類ほどあるのだが(植物学的には約4,000種類ほどにもなる)、アルバイト先ではその中から選んだストレート、および組み合わせであるブレンドを40種類ほど出していた。
 名前を憶えるのもたいへんだけれど、それぞれのコーヒー豆の特徴を理解して、挽き方やいれ方にも注意を払わなければならなかった。なぜか、アルバイトのわたしには関係のない、各種コーヒーの生豆を最適に煎った場合、それぞれの銘柄でどのぐらい目方が軽くなるのか・・・といった煎豆製法(豆ごとの1.3強~1,7弱%の最適焙煎)の工程まで教えてくれた。残り少なくなったコーヒーを注文すると、こちらが指定したレベルの焙煎で豆がとどくので関係のない知識なのだが、コーヒーに関することはなんでも教えてくれた。厳密には8段階の焙煎レベルがあるのだが、日本の主要コーヒー豆メーカーでは3~5段階が主流だとか、海岸べりで育ったコーヒーの生豆は「女の匂いがする」などは、先輩のボソッとしたつぶやきだ。
 喫茶店としてはめずらしく、フレンチロースト(おもにウィンナーコーヒー用途だがストレートで注文するお客さんもいた)や、イタリアンロースト(おもにエスプレッソ用途だが同じく好きな方はストレートでの注文がきた)、ジャーマンローストもメニューに加えており、しばらくしてカウンターをまかされたわたしは、世界中のコーヒーを煎りたての豆で味わうことができた。要するに、仕事がヒマなときは品質チェックと称して、こっそり盗み飲みしていたわけだが、酸っぱいモカやハワイ・コナ、メキシコは総じてあまり好きではなく、甘みのあるコロンビアやハイチ、ブルー・マウンテン(もちろん低地の安価な豆だろう)はいまいちシャキッとせず、苦いブラジルやジャワ・ロブスター、マンデリン、コスタリカなどが好みだった。でも、これは当時のことで、最近は味覚にも遅ればせながら幅ができたのか、酸味が強くタンニン分の多いものや、アロマ臭が強い甘めのコーヒーも、それなりに楽しむことができる。ローストの強い苦みが口いっぱいに拡がるコーヒーは、いまよりもよほど炒り方が深かった戦前の珈琲の風味を、懐かしんでいる年代のお客さんが多かったように感じた。現代では、ロースト系のコーヒーをそのままストレートで頼むお客は少ないだろう。ちなみに、アルバイトをしていた店では、コーヒーはすべてサイフォンでいれていた。
 日本ではその昔、コーヒーはインテリの飲み物で、その次は「喫茶店」文化からだろうか、恋人たちの語らいの飲み物として小説や詩など、さまざまな芸術のテーマに取りあげられている。親たちの世代では、戦前の「♪一杯の珈琲から~夢の花咲くこともある~」が想い浮かぶだろうが、わたしが子どものころは「♪夜明けのコーヒー~二人で飲もうと~」が印象的だった。

 
 日本に喫茶店ができたのは、1888年(明治21)に下谷の黒門町(現・上野)に開店した「可否茶館」が嚆矢だとされているけれど、当然、それ以前の鹿鳴館にも喫茶室はあっただろうし、江戸末期の築地にあった外国人居留地の「西洋館(精養軒)ホテル」(のち上野精養軒Click!と神田精養軒Click!)にも、コーヒーを飲ませる喫茶室はあったと思われる。「可否茶館」につづいて、浅草の「ダイヤモンド珈琲店」と日本橋の「メイゾン鴻ノ巣」、銀座の「台湾喫茶店」とつづくのだが、銀座に「カフェ・プランタン」と「カフェ・パウリスタ」が開店したころから、コーヒーブームに火が点いたのだろう。わたしは銀座を歩くと、いまでも開店している「カフェ・パウリスタ」にはときどき寄る。典型的なブラジル豆のやや深煎りで、こくと苦みがいのちのコーヒーだ。
 戦前、コーヒー豆の輸入量は増えつづけ、1937年(昭和12)にはついに8,570トンに達して、コーヒーブームのピークを迎えている。でも、日米戦争がはじまると輸入がまったく途絶え、日本の“コーヒー文化”は軍国主義一色のなかで一度死滅している。「敵国の飲み物」などという、わけのわからないタワゴトが叫ばれたのもこのころだ。中国から輸入され、移植された茶(それでいれた緑茶および紅茶)も「敵国の飲み物」だが、ご都合主義者たちは口をぬぐったまま都合の悪い史実には目を向けない。戦時中も敗戦直後も、親の世代では大豆やゴボウ、タンポポの根を干して煎じたものなど「代用珈琲」が用いられていた。戦争が終わっても、食糧確保にせいいっぱいな日本にコーヒーは輸入されず(親父がバイトしていた米軍のPXなどにはふんだんにあったのだが)、ようやく輸入が正式に再開されたのは1950年(昭和25)になってからのことだ。そのときの輸入量は163トンと、1937年(昭和12)の50分の1にも満たなかった。
 戦後のピークは2006年(平成18)で、輸入量は45万8,507トンと膨大な量になっている。世界の市場でみると、1位の米国と2位のドイツに次いで、日本は3位のコーヒー輸入(消費)国だ。輸入元はブラジルがダントツで、2位にベトナム、3位にインドネシアがランキングされている。
 「カフェ杏奴」Click!の後継店として、4月から下落合にオープンした「エリア8カフェ」Click!だが、杏奴時代と変わらない「杏奴ブレンド」や「杏奴カレー」を置いている。わたしは休日や下落合の取材帰りに、端末をもって原稿書きに出かけるたび、アイス/ホットともに「杏奴ブレンド」を注文していたのだけれど、先日、ランチセットで初めてエリア8のアイスブレンドを味わった。杏奴のアイスブレンドとは対照的な風味で、ミルクやガムシロップがいらないほど“甘く”てやわらかい。杏奴ブレンドのアイス/ホットは、苦み走ったキレとコクがいのちで尖がっていたのだが、エリア8のアイスブレンドは丸みがあってまろやかだ。また、エリア8のホットブレンドは酸味が舌の上で強くふんばり、ランチメニューなどの料理によく合うだろう。
 食事も美味しく、「玄米おにぎりプレート」の惣菜の品数が多いのにはビックリしてしまった。わたしのお気に入りは、鶏の胸肉と刻んだラッキョウをマヨネーズ風ドレッシングであえたトーストサンドだが、これがエリア8の酸味がキリリときいたブレンドとよく合う。なぜ、このトーストサンドが気に入ったのか、あれこれ考えてみたのだけれど、余計なものを付け足さず妙に飾らない素直な美味しさが、どこかわたしの味覚に合う“下町”風Click!だからなのかもしれない。

 
 余談だけれど、先日、目白駅の改札を出た駅前広場で杏奴の元・ママさんとバッタリ鉢合わせをし、思わず両手で握手し180度ターンしてしまった。ちょうど、わたしとは入れちがいに目白駅から実家へもどられるところだったのだが、いつもと変わらずとても元気な様子だった。

◆写真上:家ではペーパードリップ方式によるコーヒーで、豆はブラジルを主体としたブレンド。
◆写真中上:左は、子どものころにあこがれた「ちがいがわかる」かどうかは微妙なフリーズドライ製法のインスタントコーヒー。右は、鎌倉駅舎を眺めながら山歩きの疲れをコーヒーで癒す。
◆写真中下:懐かしい喫茶店で、早稲田(上)と大久保(下左)、そして新宿(下右)。
◆写真下:上は、天井のシャンデリアに壁面には東郷青児の女性像が架かる、いかにも昔ながらのありがちな銀座の喫茶店。下左は、下落合はエリア8カフェの「鶏の胸肉とラッキョウのトースト」で、わたしがお気に入りメニューのひとつ。下右は、同店のコーヒーカップ。