下戸塚地域(現・早稲田界隈)にあった古墳を、江戸期に耕地拡張のために崩した際、出土した副葬品(当時はめずらしかったおもに宝玉・宝石類)を近くの寺社へ奉納した伝承は、以前からこちらでもご紹介Click!している。しかし、それらの奉納品はほとんどが関東大震災Click!の混乱や空襲による戦災Click!で焼失あるいは散逸してしまい、現在では所在不明のものが多い。そんな中で、奉納品の様子がしっかり記録に残っているものもある。きょうは、下落合の薬王院Click!とも直結する、寺社に奉納された古墳の副葬品について考えてみたい。
 由来がハッキリしているのは、戸塚(富塚=十塚)地域の現在は早稲田大学キャンパスの下になってしまった富塚古墳Click!(江戸後期は高田富士Click!)から出土したといわれている「宝珠」だ。富塚古墳が玄室まで含めて破壊されるのは、早大の9号館が建設される戦後の1963年(昭和38)のことなので、江戸期の出土状況からみると「宝珠」は富塚古墳の主墳ではなく、近接していた陪墳の玄室が壊された際に出土している可能性もありそうだ。また、主墳の玄室が盗掘されていたとしても、培墳の副葬品が無事なケースはままある。「宝珠」は近くの農民が発見し、おそらく自身の檀家寺だったのだろう、牛込原町の報恩寺へと奉納している。
 明治の末、寺町だった同じ牛込区原町3丁目25番地の願正寺境内に住んでいた、中村彝Click!の下宿先にもほど近い場所なのだが、実は、報恩寺は1869年(明治2)に廃寺となっていて明治初期から存在していない。廃寺とされるにあたり、その“合併”先に選ばれたのが下落合の薬王院だった。では、薬王院に報恩寺の奉納物である「宝珠」が残っているかというと、行方不明のままなのだ。かろうじて、江戸期に書きとめられた記録が現存するのみとなっている。
 古墳から出た「宝珠」は、「龍の玉」および「雷の玉」と名づけられて寺宝とされていたらしい。富塚古墳付近から、1796年(寛政8)に出土したのは「雷の玉」のほうで、杢目のような模様がみられたというから、おそらく縞瑪瑙でできた大きな宝玉だろうか。出所が不明な「龍の玉」も含め、瑪瑙や碧玉Click!、水晶、翡翠、ときにガラスなどで制作された古墳期の副葬品(宝飾類)だと思われるが、現物がないので詳細は不明だ。いまに伝えられていれば、富塚古墳(とその陪墳群)について、かなりのことが判明したと思うと残念でならない。このような特別の宝飾品が副葬されたところをみると、出土した古墳(陪墳?)の被葬者は女性の可能性が高い。
 江戸期の記録に「宝珠」と書かれることが多いのは、このような宝玉はキツネがくわえてもたらすという、当時の稲荷信仰Click!と密接に結びついているからだ。したがって、「宝珠」が出土した富塚古墳のことを、「高田富士」と呼ばれる以前は「狐塚」Click!と呼んでいたことが記録に残されている。そして、富塚古墳に建立されていた水稲荷Click!と並び、「宝珠」がもたらされた狐塚へ小さな稲荷の祠が改めて奉られている。おそらく、全国の狐塚Click!と名づけられた地名あるいは古墳、稲荷社にも、江戸後期に耕地拡張を進める過程で出土した、「宝珠」伝承(副葬品の出土記録)がありそうだ。もし、宝玉が稲荷信仰が大流行する江戸期以前の時代に発見されていたら、おそらく「宝珠」ではなく、別の名称がつけられていたかもしれない。
 廃寺となってしまった報恩寺へ、江戸期に奉納されていたふたつの「宝珠」について、1973年(昭和48)に三交社から出版された芳賀善次郎『新宿の散歩道』から引用してみよう。

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 牛込柳町交差点から榎町に向う。すぐ左斜めに喜久井町に抜ける一方通行標識の道を進むと右手に天祖神社がある。その西側のマンションのあるところに昔報恩寺があった。(中略) この寺は明治二年ごろ下落合四丁目の薬王院に合併して廃寺になった。(中略) この寺に、江戸時代「竜の玉」と「雷の玉」という珍宝があった。竜の玉は、死んだ竜の卵で、直径約十五センチメートルあるが、雨の降る前には湿気を帯びて大きくなるという。雷の玉は直径約九センチメートルで、乳白色だが少しうす藍色、ねずみ色、うす茶色などの木目のような模様があり、光沢があったという。/雷の玉は戸塚で拾ったものというから、それは富塚古墳(頁略)に落雷した時に、副葬品の飾り玉が、崩れた玄室から飛び出したものだろうといわれている。/この二つの玉は、報恩寺が廃寺になったので行くえが分らない。
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 キツネがもたらした「宝珠」の記録は、狐塚や稲荷社の存在とともに、落合地域の西側、中野地域でも随所で見ることができる。農家へ代々伝わっていた、シイヤ(シンヤ)の山から出土した「宝珠」の逸話や、原っぱを歩いているときに発見した「宝珠玉(ほうしだま)」を保存していたエピソードなどだ。これらは、もちろん墳墓の副葬品とはとらえられておらず、神がかり的なキツネの仕業と考えられ、多くの場合は出土場所に稲荷社が建立されている。その中の代表的な伝承を、中野地区と新井地区からピックアップしてみよう。引用は、1987年(昭和62)に発行された『中野の文化財No.11/口承文芸調査報告書・中野の昔話・伝説・世間話』(中野区教育委員会)による。
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 うちにね、宝珠の玉があったんですって。色は白です。それでね、いま、その前の家がマンションになってるけど、以前は山だったんですよ。シイヤの山ってね。シンヤだかわかんないんだけどね。それでね、うちのおやじさんが、どこから入ったのかわからないけど、拾ったんですって、宝珠の玉を。/でねぇ、うちの父親が言うには、白狐が、千年経つとね、額にのっけて歩くんですってね。それでねぇ、その白狐の宝珠の玉を拾ったので、うちも相当困っておったんだけど、それを拾ってから、工面というか、たいへん経営が良くなって。(後略) (中野 男 明治42年生)
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 証言の中で、話者自身は認識していないと思われるが、「シイヤ」あるいは「シンヤ」の山は「屍家」ないしは「死屋」、すなわち江戸期にはその由来の意味さえ不明になり、単なる地名の音(おん)として伝承されてきた大きな墓域、すなわち古墳の巨大な墳丘である可能性が高い。また、ここに「千年」単位の伝説が語られている点にも留意したい。白ギツネの比喩で語られている伝説は、「千年」以上も昔にまでさかのぼるエピソードとして伝承されている。江戸期から「千年」以上も昔といえば、古墳時代までたどれるタイムスパンだ。
 もうひとつの伝承は、「真っ白な宝珠玉」といわれているので、白瑪瑙あるいは他の材質の宝飾品だったのだろうか? 新井地域の、おそらく原っぱになった田畑跡の地中から出現しており、ここでも出土跡に稲荷社を建てて奉っている。引きつづき、同書の証言から引用してみよう。
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 狐の宝飾玉かい。それは、そこの、あの人いなくなっちゃったねえ。ほんとに話があったのね。/あのう、昔、ここが原っぱだったでしょう。ねっ。それで何軒かの家しかなかって、そこの家の人が毎日毎日、朝、勤めへ通っていたら、宝珠玉がね、このぐらいの高さでね、ヒョンヒョンヒョンヒョン宝珠玉がね、歩いていたんですって。それで、その玉を拾って、狐のね、このくらいの狐の、上へ毛がくっついてるわね。それで、その人は、もう死んじゃったわねえ。/で、お稲荷様をそこへ建って、お祀りしてたのね。真っ白な白狐だったって。それでね、お宮建って、お祀りしたのよね。(後略) (新井 女 明治31年生)
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 この伝承の起源は、明治期に入ってからのものらしく、少なからず江戸後期の「ケサラバサラ(ケサランパサラン)」の流行話と習合している匂いが濃厚だが、「宝珠玉」という表現がひっかかるのでピックアップしてみた。このような「宝珠」伝説は、おそらく全国各地にあるのではないか。
 
 
 こうしてみると、地中から「宝珠」(古墳副葬品にみられるなんらかの宝飾品)の出現、それによる「狐塚」の命名、そして出土場所へ稲荷社の建立、さらに大きめの塚が残っていれば富士信仰による「富士」構築と、浅間社の勧請・・・という、江戸後期にみられた農耕地におけるひとつの事蹟の流れが透けて見えてくる。「狐塚」の字(あざな)が残る土地、あるいは「塚」地名が残る土地の稲荷社の由来を洗い直してみると、まったく異なる時代の別の風景が見えてきそうだ。

◆写真上:世田谷区の尾山台にある、狐塚古墳の墳丘斜面に建てられた石標。
◆写真中上:江戸期の寛政年間ごろから報恩寺に伝わっていた、龍の玉(左)と雷の玉(右)。
◆写真中下:上左は、富塚古墳(前方後円墳)の墳丘に築かれていた高田富士の山頂。上右は、芳賀善次郎『新宿の散歩道』(三交社)。下左は、1963年(昭和38)に甘泉園の西へ移転した水稲荷社。下右は、三島山(甘泉園)の高木社(第六天)。
◆写真下:上左は、世田谷区の尾山台にある狐塚古墳の後円部。上右は、墳丘から見下ろした風景。すぐ近くまで住宅が迫り、前方部の墳丘は宅地造成で失われていると思われる。下左は、狐塚古墳に近い等々力御嶽山古墳で前方部は手前の道路建設で削られた。この周辺(約500m四方ほど)では、現在までに50基を超える古墳が宅地造成や道路建設により破壊されている。この古墳密度を、東京の大・中型古墳が残る市街地まで敷衍すると、ものすごい数の古墳数が想定できる。ちなみに、芝丸山古墳では約300m四方に少なくとも14基の古墳が確認されている。下右は、豊島区の上屋敷近くにある狐塚で、現在は低層マンションの建設現場となっている。