先年、旧・西落合1丁目293番地(以下すべて旧地番表記)の鬼頭鍋三郎邸跡Click!を探し訪ねたとき、たまたま道でお会いした鬼頭邸の北隣りに住んでいた福島様が、「懐かしいわねえ。イサオちゃん、元気でいるかしらねえ・・・」と話されていた、その「イサオちゃん」こと鬼頭伊佐郎様よりご連絡をいただいた。鬼頭鍋三郎Click!の長男である伊佐郎様は、わたしの記事をお読みで福島様と田原様が両隣りにいまもお住まいなのに驚いて、お手紙をくださったのだ。さっそく、当記事をプリントアウトして、福島様と鬼頭様、山本様(松下様)にお送りしたい。また、鬼頭鍋三郎に関するきわめて貴重な情報も、併せてご教示いただいたのでご紹介したい。
 まず、1932年(昭和7)4月に、松下春雄が阿佐ヶ谷Click!から落合町葛ヶ谷306番地(のち西落合1丁目306番地→303番地)へ自邸+アトリエClick!を建て、再び落合地域へと転居してくる際、松下邸敷地の母屋西側へ、鬼頭鍋三郎はアトリエClick!を同時に建設している。鬼頭鍋三郎は、西落合1丁目293番地に自邸を建てると、そこから松下邸の西隣りにあるアトリエに通って仕事をしていた。そして、1933年(昭和8)12月に松下春雄が死去Click!すると、淑子夫人Click!をはじめ家族たちは池袋の実家・渡辺医院Click!へともどり、松下邸+アトリエは1934年(昭和9)の早春より、岩波書店の小林勇の紹介で柳瀬正夢Click!と家族が借り受けて住んでいる。
 このとき、わたしは松下邸の敷地にある建物(鬼頭アトリエ含む)すべてを、柳瀬正夢が借りて仕事をしていたと思っていた。それは、このときお母様の淑子夫人とともに池袋へと転居して西落合には不在だった、松下春雄の長女・彩子様(山本和男夫妻Click!)へのインタビューが力不足で不十分だったせいもあるのだが、松下春雄の死去とともに西落合1丁目293番地の自邸内へ、鬼頭鍋三郎は改めてアトリエを増築したという、わたしの勝手な想定も含まれている。それは、鬼頭鍋三郎のモデルになったことがあるという、隣家の福島様の証言も意識してのことだった。ところが、鬼頭伊佐郎様によれば、鬼頭鍋三郎の自邸にはアトリエがなく、1945年(昭和20)まで松下邸に隣接するアトリエを仕事場にしていたことが判明したのだ。
 つまり、1934年(昭和9)の春先から数年の間、鬼頭鍋三郎Click!と柳瀬正夢は隣接するアトリエで仕事をしていたことになる。そればかりでなく、数年ののちに柳瀬正夢が中国へと旅立ち、再びアトリエ付きの松下邸が空き家になったとき、今度は洋画家・糸園和三郎が家族とともに住んでいたことも判明した。これは、名古屋画廊で糸園和三郎展が開催されたとき、会場で鬼頭伊佐郎様が糸園夫人から「鬼頭さんの画室の隣りに住んでいました」とじかに聞かれた証言だ。松下邸に糸園和三郎一家が住んでいたのは、おそらく1942年(昭和17)ぐらいまでだろうか。
 さっそく山本夫妻へお訊ねしたところ、洋画家・糸園和三郎の裏づけをとることができた。ただし、名前は失念されてしまったようだが、柳瀬家が出て糸園家が住むまでの間だろうか、ある彫刻家とその弟子たちが少しの期間、松下邸を借りうけて暮らし、仕事をしていたようだ。


 太平洋戦争がはじまると、1942~43年(昭和17~18)ごろに松下一家は再び西落合の同邸へともどって暮らしはじめている。その後、淑子夫人の実家・渡辺医院は、山手線の池袋駅や武蔵野鉄道の上屋敷駅に近く空襲の怖れがあるのと、医院が建物疎開Click!の計画ルートにひっかかったため実家も移転している。この間、西隣りのアトリエではサンサシオンClick!や帝展で松下春雄の盟友だった、鬼頭鍋三郎がいまだ仕事をしていたことになる。淑子夫人や子どもたちにとっては、たいへん心強い存在だったにちがいない。松下春雄の死後、同邸で暮らしていたのは柳瀬正夢と家族→(某彫刻家と弟子たち)→糸園和三郎と家族、そして淑子夫人と子どもたちがもどった・・・というような経緯なのだろう。ちなみに、伊佐郎様たち家族は空襲が予想されるようになった1944年(昭和19)5月、鬼頭鍋三郎を残して名古屋へともどっている。
 鬼頭伊佐郎様からは、当時の鬼頭邸やその周辺の様子を描いた、たいへん貴重な西落合の地図もお送りいただいた。西落合1丁目293番地の鬼頭邸の地主は、「八島という八百屋さん」(またしても八島さんClick!だ)や「サンケイ雑貨店」(いまでも三敬酒店として営業をつづけている)の南にあった、「村上さんという大家さん」であることも判明した。村上家では、大正末からスタートした葛ヶ谷(西落合)の耕地整理のあと、昭和初期に293番地界隈へ和洋折衷住宅を何戸か建設し、そこを借りていたのが鬼頭家をはじめ田原家、里見家、ドイツ人のシュルツ家だったらしい。


 また、わたしは西落合1丁目281番地に建っていた大きな屋敷を松平邸としたのだが、松平邸は短い期間だったようで、鬼頭伊佐郎様が落合第三小学校へ通われていたころは、工藤祐寿邸だったようだ。つまり、工藤邸→松平邸→本田宗一郎邸という経緯になるのだろう。ちなみに、工藤祐寿はドイツのレイボルト商会と提携して、日本初の針金綴機械を開発・販売した工藤鉄工所の二代目社長・工藤祐寿だと思われる。鬼頭伊佐郎様がご記憶のドイツ人・シュルツ邸は、同鉄工所に勤務していたレオボルト商会のドイツ人技術顧問ではないだろうか。また、本田宗一郎邸は戦後になって、旧・下落合2丁目594番地にあった旧邸Click!(現・下落合公園)から、西落合1丁目281番地の同敷地へと移転しているのだろう。
 松下邸や鬼頭アトリエの前、三間道路をはさんだ南側には石井邸のテニスコートと桃畑があった。1938年(昭和13)に作成された「火保図」では、テニスコートとしか収録されていないが、コートの西側に隣接して桃畑のあったことが、鬼頭伊佐郎様の地図でわかる。このあたりの情景は、松下アルバムの中で1932年(昭和7)4月15日に撮影された、おままごとをする松下春雄の長女・彩子様と次女・苓子様の背後に見えており、三間道路沿いに植えられた並木の苗木らしい低樹の向こう側に、ぽっかりとした空地のような風情が拡がっているのがわかる。
 
 
 松下春雄邸+アトリエや鬼頭鍋三郎アトリエの周辺には、松下や鬼頭とはサンサシオンの仲間であり光風会に所属していた大澤海蔵Click!をはじめ、中野区江古田1丁目237番地の同じく光風会の洋画家・田村一男、同じく新道繁などがアトリエを構えていたことも、鬼頭様から改めてご教示いただいた。さらに、松下邸や鬼頭邸の南側にも、洋画家たちが数多くアトリエをかまえて暮らしていたようで、このサイトでは版画家の平塚運一Click!や、日本画家の丸井金猊Click!ぐらいしかいまだ登場していない。詳細が判明したら、改めてご紹介したい西落合の芸術テーマだ。とても貴重な情報をいろいろとご教示くださり、ありがとうございました。>鬼頭様
 それにしても、1930年協会や独立美術協会につづき、今度はここがサンサシオン(光風会や帝展の画家たち)のご子孫同窓会Click!のようになってきたことが、とても楽しい。
 

◆写真上:松下春雄邸の西側に隣接していた、鬼頭鍋三郎のアトリエ(1932~1945年)跡。
◆写真中上:上は、鬼頭伊佐郎様よりお送りいただいた、1944年(昭和19)ごろの鬼頭邸および鬼頭アトリエとその周辺地図。下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる同地域。
◆写真中下:上は、1947年(昭和22)の米軍空中写真にみる同地域。下は、1932年(昭和7)4月15日に松下春雄が庭で撮影した、おままごとをする彩子様(左)と苓子様(右)。ふたりの背後には三間道路をはさみ、石井邸のテニスコートや桃畑が拡がる敷地が少し見えている。また、ふたりの右横には松下邸の母屋があり、その右奥には鬼頭鍋三郎のアトリエが建っている。
◆写真下:上左は、西落合1丁目293番地の鬼頭鍋三郎邸跡。上右は、西落合1丁目281番地の工藤祐寿邸跡(現・本田邸)。下左は、鬼頭伊佐郎様の地図にも登場する右手のサンケイ雑貨店跡(現・三敬酒店)。下右は、鬼頭邸からは徒歩10分ほどしか離れていない中野区江古田1丁目237番地の、荒玉水道野方配水塔Click!や井上哲学堂Click!も近い田村一男アトリエ跡。
★下は敗戦前年の、1944年(昭和19)に撮影された西落合の空中写真で、十三間道路(現・目白通り)の工事がかなり進捗しているのがわかる。