たとえば、わたしが大阪で40年暮らし、ひたすら大阪の歴史や文化、言語、風俗習慣を学習して、地域のテーマ本を書いたとする。かなり微にいり細にいり、突きつめて取材し研究し、小さなところまでこだわって調べ表現したとする。でも、「よう勉強してはりまんな。そやけど、どっかちゃうねん。どこがどうゆうわけやないけどな、なんや知らん、ちゃうねんな。大阪の匂いがせえへんのや。大阪やないねん、どっかよその街みたいやで。・・・さよか、あんた日本橋(にっぽんばし)やのうて東京のほうでっかいな」と突き放していわれてしまうだろう。いや、これは別に大阪に限らず、全国のどのような街や地域でも同じことだろう。わたしにとって、江戸東京をテーマにした多くの書籍は、実はこんな感じのものが多い。江戸東京の匂いがしないのだ。
 そんな本が、ちまたやネットの書店にあふれている中で、久しぶりに「あっ、ちゃんと地場の感覚で書いてるな」・・・という本に出会った。といっても、江戸東京ブームにのった流行りの地域本ではなく、人文科学ないしは社会科学的な側面から、江戸とヨーロッパとの「市民社会」について比較・考察しようと試みている、文化人類学者による学術書ということになるのだろうか。2011年に岩波書店から出版された、川田順造『江戸=東京の下町から-生きられた記憶への旅-』がそれだ。久しぶりに、江戸東京の「地に足がついた」本を手にしたような感触だ。
 明治維新により、街の環境や風情が激変したのは山手の武家社会であり、実はいわゆる旧市街地、東京の(城)下町Click!には、400年以上にわたる人や街の歴史が、連綿と現在にいたるまでつづいている。また、幕末の混乱や明治維新で激変した乃手でさえも、明治から大正期へとしばらく時代がすぎると、もともと住んでいた旧幕臣たちが続々ともどりはじめ、成功した人物は先祖の屋敷があった乃手の敷地を、わざわざ買いもどして住んでいたりする。こちらでも、上落合の吉武東里Click!らとともに国会議事堂Click!を設計した、やはり上落合在住で祖父が旗本だった大熊喜邦Click!が、ふるさとの番町の屋敷跡へもどっている事例をご紹介した。
 著者の川田順造は、わたしのふるさととは反対の大川(隅田川)をはさんで辰巳の方角、深川の小名木川(女木川)に架かる高橋(たかばし)のたもとで、代々暮らしてきた家に育っている。わたしの祖父母以前の人々が眠る深川の墓とは、わずか500mほどしか離れておらず、古い町名でいうなら深川海辺大工町という街だ。ちなみに、うちの墓は深川閻魔Click!も近い旧・深川万年町にある。深川の浅瀬が埋め立てられ、寺社がいっせいに引(し)っ越してきて寺町を形成した江戸初期に、おそらく先祖は墓を移転させるか建てるかしているのだろう。著者は、小名木川(女木川)を行き交う川舟(おもに房州の物資を運ぶ小型船)を見ながら、幼少時代をすごしている。
 本書の冒頭は、徹底した地域の人たちへの長年にわたる取材(インタビュー)で構成されている。その対象者は、やはり若い子から年寄りまで女性が圧倒的に多い。別に、長生きしてるのは女性が多いからではない。わたしは、ときどき城下町の生活を中国や朝鮮半島から輸入され、新モンゴロイド系北方民族によって形成された儒教思想に象徴的な生活観の影響をほとんど受けていない、街には政治(まつりごと)の巫女と生活(たつき)の巫女とがつい戦前まで生きていた、古モンゴロイド系ポリネシア民族の生活文化が色濃い原日本の匂い、すなわち、あたかも琉球弧のような「女性に巻きついて」暮らす感覚・・・という表現をしてきたが、著者の身体にはまさしく、その地霊(ゲニウス・ロキ)が染みわたっている。
 これは、別に江戸東京地域の南関東のみならず、北関東や東北地方の各地域についても当てはまることだろう。ちょうど、少し前にご紹介した「九州男児」である薩摩の八島太郎Click!とは、正反対の社会規範であり生活観Click!だと思われる。ちなみに、邪馬壱国の卑弥呼(日巫女)やナグサトベClick!、ヌナカワClick!など古代日本の各地に展開した女王国(原日本)の時代以来、聖域や社(やしろ)の主は巫女=女性が大勢であり、それが制度的に神主=男のみへと強制的に限定され、巫女の地位が“助手”へと転落させられたのは、中国や朝鮮半島の思想・信条規範に忠実な明治政府による、たかだかこの100年ほどのことだ。横道にそれるが、江戸東京の代表的な社のひとつである愛宕権現社Click!に女性神主が誕生したのは素直によろこばしい。以下、同書から引用しよう。
 
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 「下町」という言葉から何を連想するか。私など真っ先に「女」という言葉を思い浮かべてしまう。意気地、侠(きゃん)、伝法(でんぽう)、なさけ、いさみ・・・これらの言葉は、ウーマンリブなどということを人が口にするようになるより遥か前から、私たちの江戸=東京にはあった。いや、下町女によって生きられていた。めっぽう気が強いくせに涙もろい。人に頼まれるといやといえない。意気=心のおしゃれを大切にする。そして何よりも行動派だ。「下町女」という言葉は、何と坐りがいいのだろう。そして初夏の川風のようにさわやかだ。
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 第3章の冒頭を読んで、「この本はホンモノだぜ。信用して読むことができる」と、わたしはすぐさま感じとることができた。膨大な江戸東京ブーム本には、細かな生活の感覚や暮らしの機微、きちんとした地場の歴史や記憶の地層、実生活の気配や心情に裏打ちされた「思想」(というとオーバーだが)、男女関係や近所づきあい、人間関係の妙味などのリアルな記述が、ほとんど存在していないことに、江戸東京ファンの方々はとっくに気づかれているだろう。「よう勉強してはるけどな、大阪の匂いがせえへんのや」の感覚、地域の“キモ”の部分だ。
 また、日本橋と深川とで家庭内における「教育」や環境も、非常に似通っていることに気づく。著者の母親とうちの祖母Click!とは、同一人物なのではないかと思うくらいだ。「小雨にけぶる神宮外苑・・・」の学徒出陣Click!が行なわれた、親父が学生時代の1943年(昭和18)ごろ、開戦の直前まで米国映画を日本橋で楽しんでいた(おそらく祖母もだが)親父が、「(日本が)アメリカに勝てるわけがねえや」と口にしたのを誰かに密告され、交番に引っぱられておそらく巡査に殴られている。このエピソードは記事Click!にも書いたけれど、このような言葉は当時の政治や社会的風潮からは距離を置いて「斜」に眺め、冷静かつクールな観察眼を育むような家庭環境でないと、なかなか出てきはしないだろう。太平洋戦争中に語られた、著者の母親の言葉を引用してみよう。

 
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 (前略) 太平洋戦争末期にラジオで毎日のように聞かされ、私も「国民学校」で歌わされていた「勝ち抜く僕ら少国民/天皇陛下の御為に/死ねと教えた父母の/赤い血潮を受け継いで/心に決死の白襷/掛けて勇んで突撃だ」という歌を、うっかり家で歌って、気性の激しい母親から「うちじゃ、そんなこと教えていないよ」と厳しく叱られたことがある。
 すでに繰り返し書いたように、現世享楽型の下町娘として育った母は、戦争には初めから反対。昭和十五年(一九四〇)に内務省布告によって制度化された隣組が騒々しく動員され、実際の役に立たないバケツ・リレーなどをやらされる「防空演習」も、心から軽蔑していた。高等女学校を出ただけで特に教育もなかったし、「反戦の思想」があったわけではない。ただ芝居にも行かれなくなり、食べる物も不自由になる国家の戦争が嫌いという、当時のお上の言葉でいえば“非国民”だったに過ぎない。その厭戦振りは徹底したもので、ハワイ奇襲攻撃やイギリス東洋艦隊殲滅の戦果がはなばなしく報じられたり、香港やマニラやシンガポール陥落の祝賀ムードで、提灯行列が催されたりした状況でも、母の厭戦は変わらず、「はじめの勝ちは、嘘っ勝ちだ」、「本当にアメリカやイギリスに勝てるわけがない」と言っていた。
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 まさに、親父の言葉とは二重写しであり、二二六事件で警備兵に向かって「邪魔するんじゃないよ、どきな!」と怒鳴った祖母の面影Click!とのダブルイメージだ。ひょっとすると、「アメリカに勝てるわけがないじゃないのさ」と家の中でいっていたのは、祖母自身だったのかもしれない。そして事実、そのとおりになってしまい、「亡国」思想の権化であった大日本帝国は破滅した。下町では、家庭内における「教育」や、家族単位としての暮らしの「思想」、“家”としての姿勢や構えは、女性がヘゲモニーを掌握してリードするのが自然であたりまえの環境であり、それが連綿とつづいてきたこの城下町・江戸東京を形成する伝統や生活習慣の基盤でもある。
 数百年も前から、世界で最大クラスの都市だったこの街、わたしの江戸東京の「市民社会」が、グローバルな史的視野からみてどのような意味や位置づけ、学術的な普遍性をもつものかどうか、著者はこれからも継続して深く追究していくとして本書の文章を結んでいる。
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 だがいうまでもなく、江戸=東京下町文化の、歴史研究の視野におけるモデルとしての意味を問うためには、この説の初めに述べた、「ソシアビリテ論」が原初に、現代の歴史研究のあり方に対して提起した問題意識を参照すべきだ。その時まず問われるのは、江戸=東京下町文化が、日本の歴史変動において果たした役割であろう。本書のこれまでの叙述では、明治維新という国民国家の形成とそれに伴う国家レベルでの変動と断絶に対して、江戸=東京下町の地域文化の連続性を私は強調してきた。そのような視点からは、変動に注目する歴史研究において、変動に対してはむしろ否定的に働いた力、否定的であったことによって「変動」においてそれなりの意味をもったモデルとして、捉えられるべきであるかも知れない。
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 隅田川や深川の掘割りを、レヴィ=ストロース夫妻と小舟を浮かべてたどりながら、著者は深川に住んでもいいという、東京下町がお気に入りだった夫妻の言葉に耳を傾ける。薩長の明治維新でも、「亡国」思想による破滅的な戦災でも断絶していない(城)下町の、今度はどんな風景や姿を見せてくれるのか、あるいはマクロ的な視野から江戸東京の城下町(市民社会)とは世界的にどのような位置にあり、どのような意味づけが展開しえるものなのか、川田順造の今後の仕事が楽しみだ。そういえば、川田家で大切に保存されていた大量の浮世絵が、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!ですべて灰になったのも、うちの経緯Click!とそっくりなことに気づくのだ。

◆写真上:深川の代表的な堀割りのひとつ、海辺橋から眺めた仙台堀。
◆写真中上:左は、高橋のひとつ下で隅田川も間近な万年橋を描いた安藤広重『名所江戸百景』のうち第56景「深川萬年橋」。右は、2011年に岩波書店から出版された川田順造『江戸=東京の下町から-生きられた記憶への旅-』の表紙。
◆写真中下:上は、深川のとある商店街。下左は、尾張屋清七版の切絵図「本所深川絵図」にみる高橋と海辺大工町界隈。下右は、同切絵図「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」にみる両国橋西詰めのわたしの実家界隈で、日本橋米沢町や薬研堀の記載が見える。
◆写真下:上は、深川の街並みと雪吊りが行われている清澄庭園。下左は、安藤広重『名所江戸百景』のうち第5景「両ごく回向院元柳橋」。本所回向院側から隅田川をはさみ、現在の東日本橋界隈を眺めた風景で、中央やや右手に描かれている元柳橋が現在の日本橋中学校Click!のあたり。下右は、同じく第98景「両国花火」で遠方には深川が見え両国橋西詰めは画面右手。