下落合の西隣り、豊多摩郡野方町上高田82番地(現・中野区上高田1丁目)の岡田儀平方へ、1932年(昭和7)6月1日に歌人の宮柊二(しゅうじ)Click!が引っ越してきた。この家で、宮柊二の日記であり短歌録でもある「歌帳」が書きはじめられている。20歳を目前にした、10代最後の年だった。上高田82番地の岡田宅は、佐伯祐三Click!の『下落合風景』シリーズClick!の1作「洗濯物のある風景」Click!の描画位置から、南西へわずか600mほどの距離だ。
 当時の上高田は、農村から新興住宅地へと変貌しつつある時期で、田畑をつぶして宅地造成が盛んな時期だった。1927年(昭和2)に西武電鉄Click!が開通し、新井薬師前駅が設置されてから宅地開発には拍車がかかった。岡田儀平という人は、大正期から昭和初期にかけての資料を調べても、また当時の寺社の寄進者名をたどってみても、上高田村(町)には登場してこないので、昭和初期に東京市街地から郊外へと引っ越してきた転入組なのかもしれない。
 宮柊二は上高田で、ひとりの女性からの連絡をじっと待っていた。宮の実家は、新潟の長岡で書店「丸末」を経営しており、東京の本郷にも支店のある裕福で比較的めぐまれた環境だった。だが、1923年(大正12)の関東大震災Click!で本郷の東京支店が壊滅し、徐々に長岡の家業はふるわなくなっていく。宮柊二は東京へ出てくる前年、6歳年上の女性に恋をし、彼女の兄が住んでいる北海道の江別へ、ふたりで“恋の逃避行”を試みている。宮が18歳、彼女が24歳のときだ。でも、6歳年上の恋人は宮柊二を頼りなく感じたものか、その後、長岡から東京へと出てしまう。宮はそれを追いかけるように、上高田へとやってきた。ちなみに、6歳年上の彼女の甥にあたる人物が、矢田津世子Click!めあてに下落合をウロウロしていた坂口安吾だ。
 だが、宮柊二がいくら上高田で待っていても、女からの連絡はついになかった。風の便りに、彼女が歯科医師と結婚したことを知る。宮は新聞配達をしながら、この悲恋を歌に詠んだ。
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 目瞑りてひたぶるにありきほひつつ憑みし汝(なれ)はすでに人の妻
 故郷の楉原(しもとはら)ゆき根哭きつつ誓ひしことも空しかりけり
 頸低(うなだ)れてわれは聴き居りわれを叱る寒く鋭き声ありて徹る
 わが指(をよび)汝れが指にあはせつつ童のごとき一日(ひとひ)さへありし
 地にきこゆ斑鳩(やまばと)のこゑにうち混りわが殺(と)りしものの声がするなり
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 宮柊二は1933年(昭和8)4月、北多摩郡砧村大蔵西山野1869番地(現・世田谷区砧6丁目)に住んでいた北原白秋Click!を訪ねている。そして、北原白秋が主宰する『多磨』の同人として、また白秋の秘書として本格的な歌人の活動をはじめた。毎年の歌会は、日比谷公園内の松本楼で開かれている。宮柊二は、その歌会でスラリと背が高い歌人・馬込栄津子を知った。
 
 1936年(昭和11)から、ふたりの間に同人誌『多磨』を介しての、歌のやり取りがスタートする。最初は、宮柊二が詠んだ歌に対して、栄津子の情熱的な返歌からはじまった。
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 挑みくる青葉/紙帳(宮柊二)
 みそかごと犯せし眼にはいろ燃えて五月かなしき青葉のひかり
 われのみか悲しき虫等森にゐて営み生きぬ土に這いつつ
 昼間みし合歓(かうか)のあかき花のいろをあこがれの如くよる憶ひをり
 血潮美し(馬込栄津子)
 血を吐きたりとおもふときたまきはるいのち一途に君を恋ひにき
 この見るはうつそ身われが血潮なりから紅の血潮うつくし
 柔き夕靄やはらかき夕靄かくも思ひつつ公園に昨夜は君と語りき
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 歌でもわかるように、馬込栄津子は当時の病名でいうと「肺尖浸潤」=肺結核に罹患していた。その後、栄津子の症状が悪化して、八ヶ岳山麓の富士見高原療養所へ入所し、東京の宮柊二のもとから去ってしまう。それでも、ふたりは誌上で相聞詠をつづけた。
 
 ちょうどそのころ、富士見高原療養所を舞台に生と死とにまっこうから向き合いながら、少しずつ小説を書きためていた作家がいた、1934年(昭和9)12月に、同療養所で婚約者・矢野綾子を喪った堀辰雄だ。宮柊二と馬込栄津子の相聞歌は、高原の清楚で静謐な空気感や、美しい風景とともに木漏れ日の中を吹きぬける風の音が混じり、いやがおうでも『風立ちぬ』の世界と重なる。
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 (宮柊二)
 接吻をかなしく了へしものづかれ八つ手団花(たまばな)に息吐きにけり
 高貴にて悲しみもてる黒き瞳(め)の涙湛へて死ななと言ひき
 白き霧木々に流れぬかの胸に柔稚乳(やはわかちち)も眠りたらむか
 美しき楽が舗道に流れゐてやさしく言ひし人の恋(こほ)しも
 いづこかに後ずさりつつ涙ぐみ涙ぐみゆく足音するも
 (馬込栄津子)
 病やや怠るらしき朝は見る葡萄の棚の霜の色ふかし
 忘れ果ててあらむとおもふきびしさを青き蘚(こけ)には青き花さけよ
 秋・ふたたびうつしみのわが血をはくといたくしづけきかなしみはあり
 つきかげに読みなづみにしみ便りは朝まだあはき木もれ日にまた
 朝の日のひかりうけつつ流れ雲ながるるかたにいますとおもへ
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 1939年(昭和14)6月から、馬込栄津子は悪化した結核の療養に専念するため短歌を断つ。8月には宮柊二のもとへ赤紙Click!がとどき、独立混成第3旅団混成歩兵第10大隊に加わり、あわただしく中国山西省へと出征していった。宮はまたしても、恋を成就することができなかった。

 
 富士見高原療養所で、矢野綾子は堀辰雄に見まもられながら力つきたが、馬込栄津子はかろうじて奇跡的に生還している。戦後もしばらくたった1948年(昭和28)2月、白秋亡きあとの『多磨』へ栄津子は歌人として復活し、久々に作品を寄せている。宮柊二は1944年(昭和19)2月、飯田橋の東京大神宮ですでに滝口英子と挙式していた。でも、戦後のことは、また、別の物語。

◆写真上:路地の右手が、豊多摩郡野方町上高田82番地の宮柊二旧居跡。
◆写真中上:左は、いまも上高田に残る昔ながらの路地。右は、出征前の宮柊二。
◆写真中下:左は、宮柊二が勤めていた東京朝日新聞の新井薬師販売店近くにある新井薬師の地蔵堂。右は、中国で撮影された軍隊生活を送る宮柊二。
◆写真下:上は、1927年(昭和2)に作成された「上高田地図」。下左は、1935年(昭和10)前後に撮影された上高田の通り。下右は、1927年(昭和2)の上高田風景。