1941年(昭和16)10月、近衛文麿Click!が首相を辞任し東條英機Click!が跡を継ぐと、この国は日本史上でもかつてない犠牲の惨禍と、「亡国」の危機をともなう破局の結末へ向け、まっしぐらに突き進んでいくことになる。それを警告した人々の声は「主義者」や「アカ」「非国民」「国賊」、そして治安維持法違反と国家反逆罪などの名目で、ほとんどすべて圧殺された。
 日米開戦の直前、1941年(昭和16)11月に「反軍思想」をもつとされた作家や文学関係者たちを標的に陸軍宣伝班が結成され、いわゆる民主主義者や自由主義者、元左翼シンパ、元社会民主主義者、リベラリスト、「進歩」主義者の別なく、戦争を取材するための「宣伝部隊」として最前線に送りこまれている。軍の徴用令書を拒否すると、一般の裁判とは異なる軍事裁判によって苛烈な刑罰が科せられたので、作家たちは拒むことができなかった。この時期にかかわらず、なかば見せしめのように集められた作家には、高見順をはじめ武田鱗太郎、井伏鱒二、秋永芳郎、海音寺潮五郎、伊地知進、大宅壮一、石坂洋次郎、清水幾太郎、中島健蔵、小栗虫太郎、中村地平、阿部知二、今日出海、小田嶽夫らの顔があった。少しでも、国家総動員体制に異を唱えるような表現をした書き手は、容赦なく前線へ送られるしくみが確立していた。
 2012年に出版された桐野夏生『ナニカアル』(新潮社)には、戦地に送られた林芙美子Click!や佐多稲子Click!の姿が描かれているが、彼女たちは常に憲兵隊から送りこまれた“マネージャー兼スパイ”のような男たちから監視されている。特に、林を監視したひょうきんさを装う憲兵の描写は秀逸で、桐野作品に登場する人物の中でも強烈な存在感を放っている。監視者は、彼女たちが厭戦的な言質や自由主義的な言葉を口にする、つまり本音としての“ボロ”を出すのを待ちかまえ、気がゆるんだところを「反軍思想」で収監し恫喝しようとするのだが、それを熟知している彼女たちはなかなかシッポを出さない。男の作家たちは、ソフィスティケートされた女性作家の監視環境とは異なり、むき出しの恫喝を繰り返す軍人が班長として監視役に就いていた。
 宣伝班丁班に属していた井伏鱒二らは、1941年(昭和16)11月21日に東京から汽車で大阪に向かい、翌日の朝には大阪城内にあった中部軍司令部に出頭している。丁班の班長は、栗田朝一郎という中佐だった。作家たちは、さっそく兵舎に入れられ栗田からの恫喝を受けている。そのときの様子を、2011年に出版された川西政明『新・日本文壇史』第6巻から引用してみよう。
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 兵舎に入れられ、点呼を受けると、栗田班長は「儂(わし)は、お前たちの指揮官である。今からお前たちの生命は、儂が預かつた。ぐづぐづ云ふ者は、ぶつた斬るぞ」と言った。この喚き声を聞いて、みんなの間に、動揺の気配がおこった。その時、海音寺が「ぶつた斬つて見ろ」と言った。この一瞬の気合は海音寺の勝ちであった。/栗田班長は「お前たちのなかには、反軍思想の者が、うようよ居る。怖ろしくて手もつけられん。儂は輸送船のなかでは、必要以外のときは絶対に甲板に出んやうにする。うつかりすると、海に突き落とされるかもしれん」と言って話をおえた。
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 この栗田の言葉には、実際に輸送船の上から行方不明になった軍人が過去に存在していること、自身の意志に反して無理やり徴用された者たちと、それを統率し命令を強いる軍人との間には、別に「反軍思想」をもった作家たちとの関係に限らず、きわめてシリアスな命がけの緊張関係が常に存在していたことを示唆している。実際に、栗田は輸送船が目的地に入港するまで、「東方遥拝」の時間を除いては甲板上には姿を見せなかった。この栗田の姿を、のちに井伏鱒二は『遥拝隊長』の狂った岡崎悠一の姿に重ね合わせて描いている。
 井伏鱒二も、当の軍人たちの言葉を『徴用中のこと』として記録に残している。この言葉は、1942年(昭和17)の1月にペナン島を訪問した際、第25軍参謀長の鈴木宗作中将の訓示を記録したものだ。これは、栗田班長より鈴木参謀長へ反抗的な作家たちの様子が、密告書「大阪結集以来、徴員に関する行状」として、微にいり細にいり逐一報告されていたからだ。2005年に中央公論社から出版された、井伏鱒二『徴用中のこと』(中公文庫版)から抜粋引用してみよう。
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 お前らの中には、反軍思想の者が居る。反軍思想の者は内地へ追い返さなければならん。国賊は、軍に御奉公させて置くわけにはいかん。(中略) 反軍思想の者は、今に自己の身に不幸が訪れることを、覚悟して置かなくてはならん。このような者は、早く自己の非を悟って、改悛の道に入るようにしなくてはならん。お前らの中に、反軍思想の者が居ることはわかって居る。改悛の道に入るのは今だ。
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 密告書には、「ぶつた斬つて見ろ」と栗田に反抗した海音寺の言葉や、甲板で海に向かって「大自然はこんなに美しいのに、どうして人間は馬鹿な戦争をするんだ」と叫んだ中村地平など、作家たちの言動がこと細かに報告されていた。また、鈴木参謀長は自身の言質に、主体設定の錯誤があることさえ気づいていない。作家たちは、友人も混じり凶作農家など貧困家庭の子弟が多い人間集団=徴兵軍に対しての反「軍」なのではなく、統治者であり政策決定の主体である政府そのものに対しての、反「戦」であることにさえ気づかない思考レベルなのだ。
 「国」や「日本」という言葉でくくられる、流動的で刹那的でさえあるその時代の政府(政治)と、そこに住む国民あるいは個々別々の人間(の想いや思想)とを安易に一体化し、ひとつの「主体」として怠惰に設定するところに、政策に組しない人々を徹底して排除・圧殺しようとするファシズム的全体主義が芽生えることを、作家たちの冷静なまなざしは熟知している。だが、「亡国」思想の権化となり果てた大日本帝国による暴力装置(昨今、このワードを現役の政治学ないし社会学用語だと知らない政治屋さえいる)によって、その場は沈黙する以外になかった。
 軍当局と徴用された作家との緊張関係は、軍に関する「秘密漏えい」のテーマでも常に軋轢を生んでいる。兵士たちの言動を忠実に描こうとする作家と、戦場での事実をできるだけ隠そうとする軍当局との相剋だ。火野葦平は、『麦と兵隊』などの作品群で膨大な記述に関する検閲・削除を経験し、陸軍が秘密として「制限」する表現をほぼ7つのテーマに大別した。つまり、軍当局が示した秘密の内実、裏返せばウソや粉飾がどのように形成されるのかを考察している。軍当局が、ひいては国家が秘密にしたがった7つの課題を、川西政明の前掲書から引用してみよう。
 

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(1) 日本軍が負けているところは書いてはいけない。理由は、皇軍は忠勇義烈、勇敢無比であって、けっして負けたり退却はしないからである。
(2) 戦争の暗黒面は書いてはいけない。理由は、戦争は殺人を基調におこなわれる人間最大の罪悪であり、悲劇であるから、これには強盗、強姦、掠奪、放火、傷害その他あらゆる犯罪がつきまとう。それをありのまま書けば、皇軍の実態が暴露される。
(3) 戦っている敵は憎々しくいやらしく書かねばならない。理由は、味方はすべて立派で、敵はすべて鬼畜でなければならなかったからである。
(4) 作戦の全貌を書くことは許されない。理由は、機密に属するからである。
(5) 部隊の編成と部隊名は書かせない。たとえば第七連隊第三大隊第二中隊は、〇〇連隊××大隊△△中隊という具合に表記しなければならない。
(6) 軍人の人間としての表現を許さない。分隊長以下の兵隊はいくらか性格描写ができるが、小隊長以上は、全部、人格高潔、沈着勇敢に書かねばならない。戦場における人間描写には制約があった。
(7) 女のことは書かせない。戦争と性欲、兵隊と現地人との接触はかなり深いものがあったが、それに触れることはタブーだった。
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 1938年(昭和13)1月に上海と南京を取材した石川達三は、戦場の事実をそのまま『生きている兵隊』に描いて発禁処分を受け、「虚構の事実を恰も事実の如くに空想して執筆したのは安寧秩序を紊(みだ)すもの」として、東京刑事地方裁判所検事局に検挙され、新聞紙法違反容疑で起訴された。同年8月に開かれた第1回公判の法廷で、石川達三は次のように陳述している。史的にも、今日的にも非常に重要な陳述だと思われるので、その主要部分を全文引用してみよう。
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 新聞テサヘモ都合ノ良イ事件ハ書キ真実ヲ報道シテ居ナイノテ国民カ暢気ナ気分テ居ル事カ自分ハ不満タ。/国民ハ出征兵ヲ神様ノ様ニ思ヒ我軍カ占領シタ土地ニハ忽チニシテ楽土カ建設サレ支那民衆モ之ニ協力シテ居ルカ如ク考ヘテ居ルカ戦争トハ左様ナ長閑ナモノテハ無ク戦争ト謂フモノノ真実ヲ国民ニ知ラセル事カ真ニ非常時ヲ認識セシメル此ノ時局ニ対シテ確乎タル態度ヲ採ラシムル為ニ本当ニ必要タト信シテ居リマス (1938年8月31日)
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 これに対し、裁判所は「皇軍兵士ノ非戦闘員ノ殺戮、掠奪、軍規弛緩ノ状況ヲ記述シタル安寧秩序ヲ紊乱スル事項ヲ編輯掲載シ」たとして、禁固4か月(執行猶予3年)の有罪判決を下している。明らかに言論封殺の判決だが、石川達三の作品を検事局の起訴状どおり「事実の如くに空想して執筆」した、すなわち書かれていることは絵空事の内容とはせず、事実であるのを前提に「軍規弛緩ノ状況」としたところが、裁判官の軍に対するぎりぎりの抵抗だったのかもしれない。
 
 まったく戦場の状況や事実を知らされないまま、石川達三の陳述どおり、国民は軍隊にひきずりまわされるように「皇軍の勝利」に酔いしれ、理性的かつ論理的な眼差しで状況を見きわめることができなくなり、あるいは危険だと警告を発する者たちの圧殺を繰り返しながら、大日本帝国は破滅と「亡国」へ向けて歩みを速めていった。「真実ヲ国民ニ知ラセル事カ真ニ非常時ヲ認識セシメル此ノ時局ニ対シテ確乎タル態度ヲ採ラシムル為ニ本当ニ必要タト信シテ居リマス」。
 余談だけれど、作家たちと同時期に東南アジアへ徴用された画家には藤田嗣治Click!、鶴田吾郎Click!、川端龍子Click!、中村研一Click!、福田豊四郎、清水登之Click!、松添健の7名がいた。

◆写真上:1940年(昭和15)ごろの陸士演習Click!で、九二式重機関銃を運ぶ兵士たち。
◆写真中上:上は、リベラルで「進歩的」な言論から徴用で前線に送られた高見順(左)と海音寺潮五郎(右)。下は、大阪城内にある旧・中部軍司令部の建物。
◆写真中下:上左は、1942年(昭和17)に米潜水艦から撮影された日本郵船の捕虜交換船「龍田丸」。下落合の目白福音教会Click!宣教師だったメーヤー夫妻Click!が、聖母病院Click!での監禁生活のあと帰国したのも同船だった。上右は、1943年(昭和18)に米潜水艦から写された撃沈直前の大阪商船「畿内丸」。下は、陸軍宣伝班“丁班”の派遣先のひとつでペナン島の夕暮れ。
◆写真下:ともに中国戦線の戦場を描いた、火野葦平(左)と石川達三(右)。前者は軍当局から徹底した検閲削除を受け、後者は出版直前に全文削除=発禁処分を受けている。