戦前・戦中には、国策標語や国策スローガンが街角にあふれるほどつくられた。そんな標語やスローガンを集めた書籍が、昨年(2013年)の夏に刊行されている。現代書館から出版された里中哲彦『黙つて働き笑つて納税―戦時国策スローガン傑作100選―』がそれだ。特に、若い子にはお奨めの1冊だ。
 当時の政府が、いかに国民から搾りとることだけを考え、すべてを戦争へと投入していったかが当時の世相とともに、じかに感じ取れる「作品」ばかりだ。それらの多くは、今日から見れば国民を虫ケラ同然にバカにしているとしか思えない、あるいは国民をモノか機械扱いにして人間性をどこまでも無視しきった、粒ぞろいの迷(惑)作ぞろいだ。中には、国民をそのものズバリ「寄生虫」や「屑(クズ)」と表現している標語さえ存在している。のちにナラと名づけられた地域へ侵入してきたヤマト朝廷が、自身の出自とは異なる原日本の民族やまつろわぬ者たち、すなわち日本列島の先住者(記紀ではおもに近畿地域における先住「日本人」)たちを、「国巣(クズ)」(あるいは「土蜘蛛(つちぐも)」)と蔑称した、弥生末ないしは古墳時代をほうふつとさせる表現だ。
 当時の“洗脳”されていない、少しはまともな眼差しをもった人々が激怒したのも無理はないだろう。(その多くの人々は、別に「主義者」でなくても特高警察Click!や憲兵隊Click!に引っぱられ恫喝や暴力を受けている) むしろ、腹を立てなかった人々の意識こそが大日本帝国を破滅させ、この国を「亡国」寸前の淵へと導いた元凶となる政治観であり社会観だったといえるだろう。この認識(全的な止揚)から出発しなければ、いまだ戦後を引きずる日本に明るい未来は存在しない。
 戦時の標語やスローガンというと、「欲しがりません勝つまでは」とか「贅沢は敵だ」などが有名だが、これらの「作品」は比較的まだ出来がいいほうだといえる。そのせいか、新聞や雑誌にも多く取り上げられ、ちまたでも広く知られるようになった「作品」だ。ところが、戦争の敗色が徐々に濃くなり、表現の工夫や語呂あわせなどしている余裕がなくなってくると、なにも考えずにただひたすら絶叫を繰り返すだけの、思考さえ停止したような「作品」が急増していく。これらの「作品」に共通しているのは、国家と個々の国民(人民)とを安易に一体化し、同一主体として(怠惰なことに)やすやすと語られるところが、今日の北朝鮮のスローガンと酷似しているということだ。
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 黙って働き 笑って納税 1937年
 護る軍機は 妻子も他人 1938年
 日の丸持つ手に 金を持つな 1939年
 小さいお手々が 亜細亜を握る 1939年
 国のためなら 愛児も金も 1939年
 金は政府へ 身は大君(おおきみ)へ 1939年
 支那の子供も 日本の言葉 1939年
 笑顔で受取る 召集令 1939年
 飾る体に 汚れる心 1939年
 聖戦へ 贅沢抜きの 衣食住 1940年
 家庭は 小さな翼賛会 1940年
 男の操(みさお)だ 変るな職場 1940年
 美食装飾 銃後の恥辱 1940年
 りつぱな戦死とゑがほ(笑顔)の老母 1940年
 屑(くず)も俺等も七生報国 1940年
 翼賛は 戸毎に下る 動員令 1941年
 強く育てよ 召される子ども 1941年
 働いて 耐えて笑つて 御奉公 1941年
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 つまり、それにくくられない人間は「非国民」であり、刑務所や留置場、ゲットーへ送られて当然というスターリニズム下のソ連やナチス・ドイツなどとほぼ同一の、独裁的政治形態上ないしは国家主義的思想の軌跡上に存立している視座だ。これは、別に戦前のみの視座とは限らず、戦後も多くの人々が意識的ないしは無意識にかかわらず、持ちつづけている無神経かつ危うい眼差しだろう。
 
 「1億3千万のニッポン人の熱い願い」(世界選手権でのスポーツ解説者某)、「全都民の願い」(オリンピック招致における元知事某)、「国民の知らぬ間に電力の原発依存が3割」(スペイン講演での小説家某)・・・と枚挙にいとまがない。わたしは、某解説者が中継していた世界選手権大会にほとんど興味はなかったので、1億2千999万9千999人の「ニッポン人」が応援していたかもしれないのが少なくとも事実だし、1964年(昭和39)の東京オリンピックで破壊された、関東大震災Click!の教訓で造られた(城)下町Click!の防災インフラを、ちゃんと人口ぶんにみあう防災施設の復元とともに担保するのが先だと考えているわたしは、なんの疑問もなく5,000万円の札束を受けとる某知事にいわせれば、どうやら東京「都民」ではないらしい。
 ましてや、スリーマイル島原発事故のあと、1982年(昭和57)に泊原発の新設と、電力の原発依存3割をめざす政府へ異議を唱えるため、著名人たちが新聞の全15D広告を出す際に某小説家にも声をかけており、少なくとも彼は「3割依存」を大江健三郎や筑紫哲也などの呼びかけを通じて、30年以上も前から知っていたはずだし、わたしでさえ知っていた。つづけて、チェルノブイリ原発事故直後の1987年(昭和62)にも、某小説家に対しては同様の呼びかけを行なっていたはずだ。「国民が知らない間に」とは、内部でどのような主体設定がなされているのだろう?
 それを知りつつ、警告の意見広告を出した作家や文化人、ジャーナリストたちは、そしてなによりも80年代の二度にわたる活動を通じて集まった数百万の署名者たちは、丸ごと「国民」ではないのか? ちなみに、某小説家は当時の反核・反原発の呼びかけに対し、一貫してシカトしつづけていた。少なくとも個を尊重する文学者であれば、知っていたはずなのに知らないと称するウソや欺瞞には目をつぶるにしても、「国民が知らぬ間に」ではなく、「“私”が知らぬ間に」の誤りだろう。
 個々の主体がもつ価値意識や思想性、社会観、生活観、愛情、感覚、趣味嗜好、欲求などを、きわめて大雑把かつ無神経にすりつぶし、多様性や多角的なモノの見方を不用意かつ安易に踏みつぶしていくところに、やすやすと国家主義的な、ひいては全体主義的な思想を萌芽させる大きな“スキ”があることにこそ、改めて大きな注意を向けたい。
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 屠れ米英 われらの敵だ 1941年
 節米は 毎日できる 御奉公 1941年
 飾らぬわたし 飲まないあなた 1941年
 戦場より危ない酒場 1941年
 酒呑みは 瑞穂の国の 寄生虫 1941年
 子も馬も 捧げて次は 鉄と銅 1941年
 遊山ではないぞ 練磨のハイキング 1941年
 まだまだ足りない 辛抱努力 1941年
 国策に 理屈は抜きだ 実践だ 1941年
 国が第一 私は第二 1941年
 任務は重く 命は軽く 1941年
 一億が みな砲台と なる覚悟 1942年
 無職はお国の寄生虫 1942年
 科学戦にも 神を出せ 1942年
 デマはつきもの みな聞きながせ 1942年
 縁起担いで 国担げるか 1942年
 余暇も捧げて 銃後の務(つとめ)  1942年
 迷信は 一等国の 恥曝(さら)し 1942年
 買溜(かいだめ)に 行くな行かすな 隣組 1942年
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 かたや「科学戦」や「物量戦」を標榜し、増産増産をスローガンでわめき散らしつつ、縁起かつぎや迷信を「恥曝(さら)し」とバカにしておきながら、その舌の根も乾かぬうちに「神」への依存に傾斜していく愚劣さ、「理屈は抜き」でどうやって「科学戦」を勝ち抜くのか意味不明の不可解さ、英語は敵性言語だから日本語をつかえと規定しておきながら、「ハイキング」は日本語であり英語だとはつゆほども思わないおかしさに、当時の政府当局の愚昧ぶりがあらわになっている。
 もはや、政府の一貫したスローガンなど存在せず、その場限りの刹那的かつご都合主義的で無意味なコトバの羅列にすぎなくなっていくのが明らかだ。「デマはつきもの、みな聞きながせ」などは、真っ先に大本営発表へ適用されるべき標語だし、「米英を消して明るい世界地図」にいたっては、消えてしまったのは大日本帝国のほうだ。戦争末期になると国民の不満が鬱積し、「分ける配給、不平をいふな」と、よほどの「忠君愛国」主義者でない限り、特に都市部における政府への反感が噴き出しはじめたのがわかる。「初湯から御楯と願う国の母」にいたっては、わたしの祖母や川田順造の母親Click!から、すぐにも「うちじゃ、そんなこと教えてないよ!」と叱責が飛んできそうだ。
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 二人して 五人育てて 一人前 1942年
 産んで殖やして 育てて皇楯(みたて)  1942年
 日の丸で 埋めよ倫敦(ロンドン) 紐育(ニューヨーク)  1942年
 米英を 消して明るい 世界地図 1942年
 飾る心が すでに敵 1942年
 買溜めは 米英の手先 1943年
 分ける配給 不平を言ふな 1943年
 初湯から 御楯と願う 国の母 1943年
 看板から 米英色を抹殺しよう 1943年
 嬉しいな 僕の貯金が 弾になる 1943年
 百年の うらみを晴らせ 日本刀 1943年
 理屈ぬき 贅沢抜きで 勝抜かう 1943年
 アメリカ人をぶち殺せ! 1944年
 米鬼を一匹も生かすな! 1945年
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 わたしは子どもをふたりしか育てていないので、当時の「非常時」には「御国(みくに)」へ兵士供給の「御奉仕」が足りない、半人前になるのだろう。あげくのはてに、子どものわずかな貯金さえ戦費に巻き上げようとする政府など、もはや末期症状で先が見えている。ロンドンやニューヨークではなく、日本の大都市が連合軍の旗で埋められるまで、あと2年と少ししかない。このころになると、大日本帝国の「亡国」思想は、ひねりも装いも飾りもなく、膨大な数の犠牲者を生みながら、ヒステリックかつムキだしの様相を呈するようになる。
 「理屈ぬき」で「科学戦」に勝ち抜こうなどという標語は、戦後も生きのびていた東條英機Click!か、畳の上で死んだインパール作戦の責任者・牟田口廉也がつくったのではないかとさえ思えてくる。1944~45年(昭和19~20)につくられた「作品」は、もはや標語の匂いや体裁さえなしてはいない。ただただ「殺せ!」を絶叫し繰り返すだけの、殺人狂のような標語になり果てていった。
 
 余談だが、同書の挿画を担当しているのは清重伸之と依田秀稔のふたりで、皮肉や揶揄に満ちた出来のいいイラストが多いのだけれど、わたしとしては現代書館の書籍類では学生時代からなじみ深い、故・貝原浩Click!に描いてほしかった。あと10年ほど長生きしてくれたら、『黙つて働き笑つて納税』のような本の挿画は、彼の独壇場だっただろう。

◆写真上:1944年(昭和19)1月31日、淀橋区内の小学校における授業風景。(新宿歴史博物館蔵) 右手に、「一億一心」と「これからだ/出せ一億の底力」の標語が見える。
◆写真中上:左は、市ヶ谷の陸軍参謀本部前の焼け野原。参謀本部に勤務していた中井英夫Click!は、当時の日記で陸軍の存在を「いつさい無価値」であると規定していた。右は、里中哲彦『黙つて働き笑つて納税―戦時国策スローガン傑作100選―』(現代書館)。
◆写真中下:「迷信は一等国の恥曝し」(左)と「儲けることより奉仕の心」(右)。
◆写真下:「強く育てよ召される子ども」(左)と「無職はお国の寄生虫」(右)の挿画。