岡本綺堂Click!の小説に、『放し鰻』という短編がある。大橋Click!のたもとから、小さなウナギの幼体=めそっこウナギClick!を大川(隅田川)へ放流してやる話なのだが、いわゆる放生会をテーマにした小品だ。放生会とは、以前に泉鏡花Click!の『日本橋』Click!でも取りあげているけれど、いつも食用や飼育している魚介類、たとえばアサリやハマグリ、ウナギ、ドジョウ、カメなどを生きて放流することで、仏教的な意味合いから供養と功徳をかねた往生思想のひとつだ。いまではすっかり廃れてしまい、ほとんど見かけない。
 その様子を、1990年(平成2)に出た光文社版の岡本綺堂『放し鰻』から引用しよう。
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 平吉はそれにも答えないで、おやじの手から竹柄杓を引ったくるようにして、ひと息にぐっと飲んだ。そうして、自分の駈けて来た方角を狐のように幾たびか見まわしているのを、橋番のおやじは呆気に取られたようにながめていた。文政末年の秋の日ももう午に近づいて、広小路の青物市の呼び声がやがて見世物やおででこ芝居の鳴物に変ろうとする頃で、昼ながらどことなく冷たいような秋風が番小屋の軒の柳を軽くなびかせていた。
 「どうかしなすったかえ。」と、おやじは相手の顔をのぞきながら訊いた。
 平吉は何か言おうとしてまた躊躇した。かれは無言でそこらにある小桶を指さした。番小屋の店のまえに置いてある盤台風の浅い小桶には、泥鰌かと間違えられそうなめそっこ鰻が二、三十匹かさなり合ってのたくっていた。これは橋番が内職にしている放しうなぎで、後生をねがう人たちは幾らかの銭を払ってその幾匹かを買取って、眼のまえを流れる大川へ放してやるのであった。
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 ここに描かれている広小路(防火帯の大通り)とは、大江戸(おえど)いちばんの繁華街だった大橋(両国橋)は西詰め(日本橋側)つづきの両国広小路のことで、これから書こうとしている下谷広小路(現・上野広小路)界隈のことではない。
 安藤広重『名所江戸百景』Click!のうち、第56景「深川萬年橋」Click!に描かれた萬年橋のたもとで縛られているカメは、橋番が放生会の客を待っている様子を描いたものだ。放生会の商売は、たいがい橋番(通行税を徴収する橋の番屋)が兼業で行なっており、江戸湾や市街地の河川で捕まえた魚介類(稚魚が多い)を生きたまま売っている。客はそれを買い、橋の下に放流してあげることで「功徳を積んだ」ことになるわけだが、放流されたそばからまた放生会商売のために捕まるカメもいたと思われるので、なんのことはない放しては捕まりを繰り返す、自己満足を前提としたリピート商売といえるだろうか。「深川萬年橋」のカメは、その下を流れる小名木川(女木川)へ放流されるのを待ってるのだが、萬年橋と「亀は萬年」をひっかけた広重のシャレとばしだ。
 欧米人の目から見ると、江戸期のこのような放生会や供養塚(人間が利用した動植物の冥福を祈り供養した塚)は、どうやら欺瞞に満ちた「卑怯」な考え方のように見えるらしい。江戸期の日本をテーマにする海外の研究者たちは、おおむねこの習慣に対しては拒絶反応を示すというのを、どこかで読んだ憶えがある。キリスト教圏の思想からいえば、非常に奇妙で不可解な風俗に映るのだろう。確かに、いつも「うまいもん」Click!にしてガツガツ食っている食材を、たまに気がとがめるのか放生会を催したり塚を建立したりするのは、どこか欺瞞臭がするし、あまりにも人間の身勝手な想いが前面にせり出していそうだ。
 
 
 上野(旧・下谷)の「うまいもん」めぐりをするとき、不忍池の前を通りかかると、いつも放生会のことが頭に浮かぶ。不忍池からの流れが暗渠化されず、上野三橋が架かっていた江戸期の黒門Click!前には、おそらく放生会商売が見世を拡げていただろう。なにを扱っていたのかは知らないが、フナやコイ、ドジョウ、アユといった淡水魚の稚魚だろうか。上野山のサクラや、下谷広小路(現・上野広小路)の人出が多い日には、かなりいい商売になったのではないかと想像している。以前、中村勘三郎の当たり役だった芝居『男達ばやり(おとこだてばやり)』Click!にからめ、不忍池でも多かった身投げについて書いたことがあったが、同池の放生会について書かれた資料は思いあたらない。
 上野といえば、現在の上野駅あたりに岡場所(いわゆる上野山下のケコロ)があったせいか、精力のつく「うまいもん」を出す飲食店が江戸期から多かった。元祖・甘辛やき鳥Click!をはじめ、ウナギの蒲焼屋や柳川のドジョウ屋などが軒を並べていたらしい。まちがいなく、ももんじ屋Click!や茶漬け店Click!も何軒か開店していただろう。上野は、関東大震災Click!と空襲Click!でわずか20年ほどの間に二度壊滅しているけれど、現在でも江戸期からつづく「うまいもん」屋の老舗はしぶとく商売をつづけている。また、明治になってからも、今度は日本橋や銀座と並んで洋食屋が進出し、「うまいもん」屋の伝統は今日まで受けつがれてきた。
 これらの「うまいもん」屋の多くは、下谷から湯島、そして本郷へと抜ける道すがらに開店していて、明治期には東京帝大へと通う教師や学生たち、あるいは上野界隈に住む文士や画家たちを集めては繁盛していた。ウナギ好きで有名な斎藤茂吉Click!は、ほとんど1日おきに“うな丼”を食べていたようで、現存する日記の記述は1年じゅうウナギだらけだ。そう、下谷(現・上野)の町々は旗本や御家人が多く住む武家屋敷街であり、芝居茶屋にはまったく縁のない土地柄なので、メニューは“うな重”Click!ではなく“うな丼”が主流だった。斎藤茂吉が詠じたニョロニョロ作品を、いくつか引用してみよう。

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 夕飯に鰻も食へどゆとりなき 一日一日は暮れゆきにけり
 五月雨の雨の晴れたる夕まぐれ うなぎを食ひに街にいで来し
 利根川を幾むらがりてのぼりくる 鰻の子をぞともに養ふ
 ひと老いて何のいのりぞ鰻すら あぶら濃過ぐと言はむとぞする
 ゆふぐれの机のまへにひとり居て 鰻を食ふは楽しかりけり
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 上野を散歩すると、いつも和食にしようか洋食にしようか迷うことになる。洋食では明治の早い時期から、築地の外国人居留地に江戸期からあった西洋館ホテルの料理部の流れをくむ上野精養軒や、ハヤシライスをはじめとするデミグラソースの黒船亭、宮沢賢治Click!お気に入りの上野駅改札前にある須田町食堂上野店(現・聚楽Click!)と、目移りがしてしょうがない。ウナギでは、池之端町で江戸期からつづく伊豆栄や亀屋、蕎麦屋では上野藪蕎麦や蓮玉庵などが、「おいでおいで」と手まねきしている。
 迷ったときには、2軒の「うまいもん」屋をハシゴするに限るのだが、洋食屋の2軒ハシゴはちょっときつい。洋食+和食あるいは和食+和食の組み合わせで、食べ歩きをするのが穏当なのだろう。日本橋や銀座だと千疋屋Click!や資生堂があるので、たとえば洋食+和食+洋食(デザート)というコースが可能なのだが、上野に多い甘味喫茶の汁粉類は、さすがにわたしのデザートにはなりにくい。
 先日、伊豆栄の“うな丼”と“うな重”を味見したあと、蓮玉庵でサラッと蕎麦Click!を流しこんできたのだが、伊豆栄の“うな重”はいけない。うな丼とうな重では、ウナギの調理のしかたがちがうとみえて、うな丼は焼きが強く(つまり城下町Click!風)、うな重は蒸しが中心(乃手風)のようだ。でも、うな重は泥臭さが鼻にツンと立ってうまいとは感じなかった。これでは、高田馬場でコツコツとおじいちゃんがひとりでいい仕事をしている「愛川」Click!にさえ負けてるではないか。ウナギのこの臭みを感じたのは、はとバスClick!客が押しかける駒形の前川Click!以来だ。2店とも江戸期からの老舗なのだから、いくらお客がわんさか押しかけても、もう少しちゃんとマジメに仕事をしないと老舗の看板が泣くというものだ。
 
 洋食屋の部門では、昔から上野精養軒や須田町食堂(聚楽)へ寄ることが多いが、1902年(明治35)から開業している元黒門町の黒船亭が、食い意地の張っているわたしには気になっている。子どものころ、下町の「うまいもん」好きな親父に日本橋の泰明軒や、銀座の煉瓦亭にはずいぶん連れていってもらったけれど、わたしの味覚の基準になってはいない。わたしの洋食舌のリファレンスは、おそらく横浜の山手育ちでハイカラなおふくろの味にあるのかもしれない。定期的に食べにいきたい洋食屋に、いまだ出会えずにいる。

◆写真上:前方後円墳の墳頂を削り明治以降は公園の見晴らし台にされていた、中規模な上野摺鉢山古墳の後円部。墳丘本来の高さは、4~5階建てのビルぐらいだろうか。
◆写真中上:上は、伊豆栄のうな丼(左)とうな重(右)。うな重の泥臭さにはがっかりだ。下は、上野ではおなじみの蕎麦の蓮玉庵(左)と上野藪蕎麦(右)。
◆写真中下:関東大震災直後の1923年(大正13)9月5日に飛行第五大隊が撮影した上野界隈。街は全滅状態だが、上野山には罹災者による無数のテントが見える。不忍通りの拡幅前だが震災後の店も含め、その位置をだいたい重ね合わせてみた。
◆写真下:左は、上野山へ出かけるとたいがい立ち寄る彰義隊供養塔。右は、なぜか上野に展示されている関東大震災で倒壊した浅草凌雲閣(十二階)のレンガ。