明治維新のあと、神田上水Click!が淀橋浄水場Click!の本格稼働ののち、そのまま1901年(明治34)まで東京市の水道(すいど)Click!として機能しつづけられたのは、町年寄によるこまめな改修(メンテナンス)によるところが大きい。特に、上水の分岐点である目白下大堰(大洗堰)Click!の手前から、開渠のまま小日向を通って水戸徳川家の上屋敷内を抜け、外濠の大渡樋Click!(水道橋)から千代田城内へと入るまでの区間は、取水口から城内までの重要ルートだったので、改修工事が積極的に行われた。
 1672年(寛文12)からはじまる補修工事は大がかりなもので、江戸期から椿の名所として知られた椿山(つばきやま)の南、目白下(関口)の大堰大改修にはじまり、1680年(延宝8)の金杉村(現・春日1~2丁目界隈)における水道岸の石垣護岸工事、および下水道の設置工事で終了している。水道の改修工事が行われると、水銀(水道料金)が加算されるので町方にはイヤがられたのだが、毎日の飲み水のことなので文句のもっていき場がなかった。この8年間には、改修工事に関する町年寄による6件の「町触(まちぶれ)」が出されている。たとえば、1678年(延宝6)4月3日に出された「町触」は、小日向村の先の金杉村を流れる神田上水の改修を告知するものだ。「神田川芭蕉の会」から出版された、大松騏一『神田上水工事と松尾芭蕉』(2003年)掲載の「東京市史稿」から孫引用してみよう。
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 明後五日に神田上水の水上、石垣の丁場相渡し候間、その町々の名主月行事衆、かけやくい木もたせ、早天より水上金杉村まで遣わさるべく候。ただし、杭木は北山三寸角□心地にいたし、持参申さるべく候。もっとも印判持参申さるべく候。もし雨降り候わば、次々の日罷りでるべく候。油断有る間敷く候。 以上
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 町年寄から工事関係者へ、かなり詳細な指示書が出されていたのがわかる。これらの水道工事は、幕府が直接実施するものではなく、また水道支配である町奉行所が監督するものでもなく、水道を月番で委託管理していた3名の町年寄たちが合議のうえで進めていた自治事業だ。すなわち、日本橋の常磐橋御門に近い奈良屋市右衛門、日本橋駿河町に近い樽屋藤右衛門、そして日本橋小田原町に近い喜多村彦右衛門の3人だった。
 なぜ、改修工事が頻繁に必要だったかといえば、設備の保全や老朽化対策というよりも、むしろ江戸の(城)下町Click!における水道需要の増大、つまり人口の増加にともなう水道供給量の大容量化が、江戸期を通じて大きな課題となっていたからだ。江戸期に作られた万年石樋や船大工の技法を用いた水道木樋は、明治以降に敷設された金属の水道管よりも堅牢で、漏水率(水道管の傷みで地中に逃げる水量率)が少なく耐用年数もかなり長い。
 
 
 寛文から延宝期にかけ、足かけ8年間にわたる補修工事だったが、この期間中の4年間にわたり、武家を事実上やめて伊賀から江戸へとやってきた松尾甚七郎は、いずれかの工事に関わっていたという記録が数多く残っている。松尾甚七郎が日本橋小田原町に住み着いたのは、1672年(寛文12)のこと。のちの松尾桃青、さらに深川の松尾芭蕉だ。当時の甚七郎は1662年(寛文2)、つまり江戸へくる10年も前に伊賀藤堂家を辞して、武家をやめ俳諧の道へ進もうとしていたので、江戸にきたときは「浪人」ではなく、「町人」(風流人)に近いスタンスだったろう。
 ところが、俳諧のみでは生活ができず、なんらかの仕事をして生活(たつき)の糧を稼がなければならなかったと思われる。そこで、神田上水の改修工事のことを聞きおよび、直接町年寄を訪ねたか、あるいは誰か口入屋の紹介があったのかは不明だが、上水改修の現場差配(プロジェクトの現場ディレクターのような仕事)のひとりを引き受けたのではないか…というのが、芭蕉が参加した上水改修の今日的な解釈のようだ。
 さて、甚七郎は現場差配なので日本橋小田原町へ住むわけにはいかず、当然、工事現場の近くで起居しなければならなかった。そこで滞在したのが、椿山の目白不動Click!や目白下大洗堰も近い安楽寺(のち一部が龍隠庵=芭蕉庵)ではなかったかというのが、前掲書の推理だ。安楽寺(洞雲寺持ち)は、延宝年間にはすでに衰退していたとみられ、工事関係者の宿泊施設としては空き家同前、もってこいの場所だったのだろう。境内は広く、椿山の一部から関口芭蕉庵、そして現在の水神社(すいじんしゃ)までが含まれていた。

 

 目白下(関口)の大洗堰から、元吉祥寺町(現・水道橋)の外濠にかかる大渡樋まで、一連の改修工事がすべて終了したのは1680年(延宝8)7月のことだった。7月24日付けの「町触」が残っているので、前掲書の「東京市史稿」から孫引きしてみよう。
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 元吉祥寺前の上水樋普請、入目割付罷りなり候間、神田上水を取り候町々の間数、名主屋敷とも、同諸役仕らず候拝領屋敷の間数も委細に書き付け、名主月行事の印判いたすべし。今日より二三日中、勝手次第に樽屋所へ持参申すべく候。 以上
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 これは、改修工事がすべて結了したあと、普請にかかった費用を水道使用者が個々分担する際に出された「町触」だ。また、水銀(水道料金)の改訂にともなう最新の間口調査も兼ねていたと思われる。当時の水道代は、水の使用量ではなく(使用量など測定できないので)、間口の広さに応じて料金が決められていた。ただし、間口による換算は町人の場合で、武家の場合は禄高を基準に水道料金が決められている。
 そして、1680年(延宝8)の7月、まさに松尾甚七郎は目白下の庵を離れ、深川に転居して宗匠立机(そうしょうりっき/俳諧の宗匠になること)をしている。この経緯からすると、甚七郎は8年間の改修工事のうちの後半、すなわち1677年(延宝5)あたりから1680年(延宝8)までの4年間を、目白下の安楽寺で起居しながら工事の差配をしていたのだろう。
 

 芭蕉の句に、ちょうど神田上水の普請が終わった年、早々に詠じられた句がある。この作は、蕉風確立のさきがけとなったと位置づけられることの多い、有名な句だ。
  枯枝に烏のとまりたるや秋の暮
 上水改修が結了した7月下旬は、新暦では8月末から9月初頭にかけての時候だ。もちろん、枯れ枝には早い時節だが、芭蕉は深川で立机する際、日々椿山を見上げながら目白下で目にした光景をどこかでイメージしつつ、句に詠じたとしてもなんら不思議ではない。

◆写真上:神田川沿いから、塀沿いにのぞく関口芭蕉庵(龍隠庵跡)の風情。
◆写真中上:敷地内の斜面にある芭蕉庵と、バッケからの湧水でできた池のある庭。
◆写真中下:上は、明治中期の椿山(山県有朋別荘)で護国寺参道をはさんだ東側の音羽バッケから撮影されたと思われる。(学習院蔵) 中・下は、芭蕉庵とその全景で手前には神田上水(現・神田川)が流れる。
◆写真下:上左は、水神社で松尾甚七郎(芭蕉)も工事の無事を願ったと思われる。上右は、上総から奉納された庚申塚。椿山(現・椿山荘)から大洗堰、芭蕉庵、水神社にかけては江戸名所だったので各地から遊山客が訪れていた。下は、黒田小学校Click!跡から出土した神田上水の開渠遺構Click!。芭蕉も、このあたりの護岸改修に関わたのかもしれない。