鹿児島の八島太郎展実行委員長の山田みほ子様より、八島太郎(岩松淳)Click!の貴重な資料類をお送りいただいたので、その一部をご紹介しながら、彼の遺した作品類を改めてご紹介したい。現在、八島太郎の作品群は、鹿児島での保存あるいは記念館設立へ向けた活動を展開する中で、何点かが山田様の手もとに保管されている。ただし、山田様が身体を壊されて加療中のため、活動がなかなか進捗していないのが現状のようだ。
 上戸塚593番地(のち戸塚町4丁目593番地)にあった佐多稲子Click!宅の近くに住み、下落合を縦断して長崎町大和田1983番地にあった造形美術研究所Click!(のちプロレタリア美術研究所Click!)へと通っていた、おそらく日本初のマンガ講師・八島太郎(岩松淳)は、日本プロレタリア美術家同盟へと参加する以前、あるいは米国へと実質的に亡命したあとには、どのような作品を残しているのだろうか。
 1925年(大正14)の中学生のとき、八島は鹿児島で谷口午二が主宰していた画塾「金羊会」に通っている。東京美術学校を受験するにあたり、谷口から紹介されたのは美校で教えていた同郷の藤島武二Click!だ。明治から大正期にかけ東京美術学校は、明治政府の息がかかった薩摩閥が主流になっており、黒田清輝をはじめ藤島武二、和田英作などいずれも鹿児島出身者が指導していた時代だ。八島太郎は1927年(昭和2)、美校の西洋学科へ入学している。鹿児島の谷口午二はもちろん、当時の美校の教師たちもいわゆるアカデミックなフランス印象派の表現を踏襲していた。このころの八島作品は、印象派の流れをくむオーソドックスな画面が多かった。
 八島太郎は、そんな美校のアカデミズムに沈滞感を嗅ぎとったのだろう、実技以外の授業にはあまり出席せず、校庭でよくサッカーをしている姿を目撃されている。変化が起きるきっかけは、八島が美校へ入学したのと同年、1927年(昭和2)に開かれた「新ロシア美術展」を観にいってからだ。造形美術家協会の矢部友衛が中心となり、東京朝日新聞社の展示フロアで開催にこぎつけたもので、八島は「新リアリズム運動」を目の当たりにする。彼が、造形美術家協会の研究所を訪問したのは間もなくのことだった。
 造形美術研究所からプロレタリア美術研究所の時代、八島の作品は『広場へ』(1930年)に象徴的なように、新リアリズム運動のいわゆる「社会主義リアリズム」Click!に支配された、美術が思想に隷属する(当時の常套表現でいえば「芸術は民衆に属す」)ような、面白くない作品を描いている。もともとユーモアのセンスが抜群で、マンガを描かせたらピカイチだった八島の性格では、共産主義に思想的には共鳴できたとしても、おそらく自身には合わない表現法ではなかっただろうか。また、彼は思想宣伝よりも反戦をテーマにした作品を多く残しており、「戦争」に対する憎悪が彼の画因の多くを占めていたのかもしれない。
 
 
 八島は特高警察Click!に10回検挙され、すさまじい拷問を受けた。この間、特高に虐殺された小林多喜二Click!のデスマスクClick!も写生したりしている。特に、妊娠中の妻・新井光子と同時に逮捕され、1933年(昭和8)6月から翌年の2月まで、8ヶ月間拘留された最後の逮捕拘留は骨身にこたえただろう。勾留で妻が流産しないかを気づかったため、夫妻は特高からよけい執拗な拷問を受けている。1939年(昭和14)3月、ふたりは無事に生まれた息子の岩松信(のちのマコ岩松)を実家に残したまま、横浜から米国へ向けて出発している。外務次官だった澤田美喜Click!の夫・澤田廉三がビザを発行したためか、あるいは東京美術学校の関係者がなんらかの手をまわしたせいか、特高はふたりの渡米を直接的には妨害していない。
 渡米してから以降、八島太郎の活躍はめざましい。その活動は、反戦を強くアピールした日米戦争中の『あたらしい太陽』(1943年)からスタートしている。タブローも多く残しているが、特に絵本の分野では世界的に知られ、各国語に翻訳されて広く普及した。現在でも、全米各地の美術館、図書館、公共施設には彼の作品が収蔵されている。マンガや絵本を得意とした八島太郎らしく、タブローはどこか物語のワンシーンを切り取ったような画面が多い。鑑賞者が、その前後の物語を自由に想像して組み立てられるような、表現やモチーフを好んで選んでいるように見える。画面に静物を描いても、どこか静的ではなく時間軸を感じさせる、動的な画面に仕上げているのが面白い。
 
 
 少し横道へそれるが、八島が渡米してから数年後、おそらく1941年(昭和16)12月に日本軍がハワイの真珠湾Click!を攻撃した直後に描かれたとみられる『Pearl Harbor Nights(真珠湾の夜)』という作品があるが、ほぼ同時期に『Naite tamaruka(泣いてたまるか)』という素描が残されている。八島自身が、旅行用の小型バッグをかたわらに置いて、目をつぶりながら腕組みをしている画面だ。これは、自身が日本を出発するときか、あるいは貨客船で米国に到着したときの情景なのかもしれない。★
 かわいい盛りの息子・岩松信(マコ岩松)を、妻の実家があった神戸に残したまま、日本を離れざるをえなかった悔しさを表現したものか、あるいは勝ち目のない無謀な戦争へ突入してしまった、故国が破滅へ向けて突き進むのが米国からよく見えたせいなのか、その表現経緯が明らかではないが、「泣いてたまるか」という語彙は戦後、日本のTVドラマに登場している。同ドラマを撮影中と思われる渥美清と、スタジオでいっしょのマコ岩松の写真が残されており、1967年(昭和42)に同ドラマへマコ岩松自身も出演している。また、1995年(平成7)に開催された「八島太郎展」に、同ドラマを手がけた山田洋次や橋田壽賀子が賛辞を寄せているところをみると、ドラマ『泣いてたまるか』というタイトルには、どこか八島太郎と深くつながる物語が眠っていそうだ。
★八島太郎の素描『泣いてたまるか』について、山田みほ子様より改めて貴重な情報をいただいた。同作は、マコ岩松が1967年(昭和42)4月にドラマ『泣いてたまるか』(国際放映)の第43話「先生ニッポンへかえる」に出演した際、当時、国際放映のプロデューサーだった中沢啓作へ八島太郎が寄贈したものであることが判明した。また、作品のモチーフは、同ドラマのマコ岩松本人を描いているとのこと。中沢啓作は、八島太郎(岩松淳)が長崎(椎名町)のプロレタリア美術研究所にいたころからの友人だった。重ねて、貴重な情報をありがとうございました。>山田みほ子様
 1963年(昭和38)、日本でもようやく「八島太郎画会」が鹿児島を中心に発足している。賛助会員には、知事や市長、官僚、会社社長、銀行家、弁護士、医師などそうそうたるメンバーが並んでいるのだが、その中に検察庁や自衛隊の幹部の名前までが並んでいる。八島太郎はそれを見て、ようやく大日本帝国は滅亡し「あたらしい太陽」が昇った日本を実感しただろうか? それとも、眼鏡の奥に光る目を細め、口の端をゆがめて皮肉な笑いを浮かべていたのだろうか?
 1970年(昭和45)に小田急で開かれた「八島太郎展」の際、八島太郎・マコ岩松親子を中心に「八島親子を励ます会」のメンバーとともに撮影された記念写真には、映画関係者が数多く写っているのがめずらしい。東宝の藤本真澄や川喜田かしこ、篠田正浩、岩下志麻らの顔が見え、映画関係者と深いつながりがあったことを感じさせる。プロレタリア美術研究所では、黒澤明Click!とも顔見知りだったと思われるが、黒澤は同会に姿を見せていない。
 

 マコ岩松は、2006年(平成18)に米国で死去しているが、山田みほ子様は彼といっしょに上戸塚の旧居跡から下落合を抜け、プロレタリア美術研究所があった長崎町大和田を歩いてみたかったと惜しまれている。同年、わたしはすでにこのサイトを起ち上げて2年が経過しており、もっと早くに八島太郎の軌跡を調べていれば…と、やはり残念でならない。ちなみに、マコ岩松が晩年に出演した1作が『パールハーバー』(2001年)の山本五十六Click!役だったのには、なんとも皮肉なめぐりあわせを感じてしまうのだ。
 ところで、八島太郎(岩松淳)は1935年(昭和10)に、紀伊国屋書店の2階展示室Click!で個展を開いているのだけれど、そのときの住居が上落合であることが判明した。やはり、落合地域にいたわけなのだが、それはまた、別の物語…。

◆写真上:「八島親子を励ます会」で、柴笛を吹く八島太郎(岩松淳)。右側に座っているのがマコ岩松(岩松信)で、左手で歌っているのが山田みほ子様。
◆写真中上:上左は、1926年(大正15)制作の岩松淳(八島太郎)『田舎の風景』。上右は、1930年(昭和5)の岩松淳『広場へ』。下左は、1934年(昭和9)に描かれた岩松淳『蟹工船』。下右は、1936年(昭和11)に制作された岩松淳『石切場』。
◆写真中下:上左は、1941年(昭和16)の岩松淳『真珠湾の夜』。上右は、1940年(昭和15)ごろ制作の岩松淳『泣いてたまるか』。下左は、1960年代の後半とみられる撮影所のマコ岩松(左)と渥美清。下右は、1960年(昭和35)ごろ制作の八島太郎(岩松淳)『冬』。
◆写真下:上左は、1995年(平成7)に開催された「八島太郎展」(遺作展)の図録。上右は、米国のサイン会で子どもたちに囲まれる八島太郎。下は、1970年(昭和45)に開かれた「八島親子を励ます会」記念写真の中央▲が八島太郎で▲がマコ岩松。マコ岩松から、右へ4人目が山田みほ子様。八島太郎から、左へ4人目に岩下志麻が見える。また、岩下志麻の左斜め前のサングラスをかけた男は、若き日の吉本隆明だと思われる。右端の着物姿で立っている女性は、松竹代表の倍賞千恵子だろうか?