昨年末、八王子市の夢美術館で開催されていた「前田寛治と小島善太郎―1930年協会の作家たち―」展を観にいった。前田寛治Click!は下落合に住み、また小島善太郎Click!は実家や先祖の墓(のちに落合近隣の寺墓地に改葬)が下落合にあった関係から、未知の「下落合風景」作品がないかどうか気になったのだ。展示されていたのは画集や図録などでおなじみの作品が多く、残念ながらそのような風景画は発見できなかった。でも、そのかわりとびきり面白い、このサイトにはピッタリな資料に出あうことができた。
 1927年(昭和2)6月17日(金)から30日(木)まで2週間にわたり、上野公園の日本美術協会展示場(現・上野の森美術館)で開催された1930年協会Click!第2回展Click!における、展覧会場への“出前リスト”が展示されていたのだ。これは、同展の事務方をつとめた小島善太郎が保存しつづけてきたものだ。小島善太郎は、当時の細かな資料類をのちのちまでたいせつに保存しており、1930年協会や独立美術協会Click!の細かな軌跡を知るにはまたとない貴重な情報源となっている。新宿歴史博物館で開かれた「佐伯祐三―下落合の風景―」展Click!でも、小島家から同協会の資料Click!や、佐伯祐三Click!の「化け猫原稿」Click!などを同館でお借りしている。
 さて、この“出前リスト”が面白い。第2回展の会場にきていた1930年協会の全メンバー、すなわち前田寛治Click!、木下義謙Click!、木下孝則Click!、野口彌太郎Click!、小島善太郎、佐伯祐三、里見勝蔵Click!、そして林武Click!が、上野公園周辺の蕎麦屋、洋食屋、うなぎ屋、あるいは仕出し屋へ毎日なにを注文して出前を頼んでいたのかが、2週間分の一覧表になっている…というものだ。こういう資料に迷いなく飛びつくのは、このサイトぐらいのものだろう。なんとなく、八王子夢美術館の学芸員の方から、「なんか書いてよ」と水を向けられたような気もしてくる。
 はい、昭和初期の下谷(上野)周辺ならなんとか、すぐにも調べがつくと思います…ということで、まずはリストの出前先の店舗から分類してみることにした。このリストは展示場に備えつけのものか、あるいは日本美術協会の事務局から借りるかした出前メニューだと思うのだが、小島善太郎は6月17日から30日までの線(縦軸)を引き、上部に画家たちの名前を記載したマス目(横軸)をこしらえ、表の左端に「十二(半)時までに之にかゝぬと注文せぬ 夕は四時まで」と書き添えた。美術展の会場へ出前メニューを預けるぐらいだから、そこそこキャパシティのある飲食店であり、しかも電話を導入できる規模の店でなければならない。
 下谷(現・上野)は江戸中期から、現在の上野駅あたりに岡場所(私娼窟)があり、周辺には蒲焼(うなぎ)や鶏料理(やき鳥屋)などが店を並べていた。江戸期には、同じ甘辛だれを使用するので、うなぎと鶏(かしわ)は同じ料理屋で扱われることが多く、現在でもその名残りをあちこちで見ることができる。リストに見える「うな重(丼)」と「そぼろ丼(重)」とは、当時もいまも老舗が多い下谷区(現・台東区の一部)で営業していた、同一のうなぎ屋の可能性が高い。ちなみに、出前をする場合は丼ではなく、岡もちの重量を減らすために重箱だった可能性のほうが高いのだが、とりあえず東京では丼が多いので「そぼろ丼」としてみた。
 「カレー」と「ハヤシ」は、もちろん洋食屋のメニューだ。上野公園といえば、すぐにも洋食の上野精養軒が思い浮かぶが、1927年(昭和2)の当時、上野精養軒は高級フランス料理店であり「へい、お待ち!」などと、気軽に出前をするような店ではなかった。また、「蕎麦」と「親子丼」は、当時もいまも蕎麦屋のメニューであり、そっけなく書かれたただの「弁当」は、今日の「〇〇弁当」とか「〇〇亭」などと同様、街角にある仕出しが専門の弁当屋だったのかもしれない。東京中央気象台による当日の天候記録も調べ、見やすいように改めて一覧にしたのが下記の表組だ。


 
 さて、うなぎ屋Click!からまず探してみよう。展示場に近く、下谷(上野)といえばこの店というような老舗の有名店なら、東京のみなさんはよくご承知の、池之端仲町の川村写真館の並びにあった江戸中期創業の伊豆栄しかないだろう。しかも、伊豆栄は「う」とは関係のない通常の弁当も手がけていて、うなぎ料理はもちろん、弁当は今日でも出前してくれる。したがって、「弁当」が街角の仕出し弁当でなければ、「うなぎ」「そぼろ」「弁当」はいずれも伊豆栄の可能性が高い。明治期より、本郷へと抜ける道沿いにあった同店は、文士たちが途中で立ち寄る昼飯処でもあり、1930年協会の画家たちもそのエピソードは知っていただろう。今日の伊豆栄は、池之端に本店と不忍亭の2店舗が開店しているが、当時から営業していたのはもちろん展示場に近い本店のほうだ。
 次に、洋食屋を考えてみよう。日本美術協会の展示場にいちばん近い、料理が冷めない距離の洋食屋、しかも、そこそこの規模の店をかまえる昭和初期の洋食屋といえば、2店舗ほどが思いつく。下谷町2丁目の上野駅の改札出口前で営業していた、東京へとやってきた宮沢賢治Click!もファンだったらしい大正末創業の須田町食堂上野店(聚楽)と、少し不忍池寄りの日活館の南隣り、元黒門町で開業していた1902年(明治35)創業の黒船亭だ。昭和初期も今日でも営業している両店だが、展示場へ近いのは須田町食堂のほうだ。黒船亭はデミグラソース料理やハヤシライスで有名だが、カレーも出していたようだ。でも、高級志向の黒船亭に比べ、須田町食堂上野店(聚楽)のほうが大衆的で価格もリーズナブルだったろう。上野駅前にあり展示場へも150mと近いことから、画家たちに洋食をとどけていたのは現・聚楽のほうではないだろうか。
 さて、難しいのが蕎麦屋なのだが、上野で有名な老舗の蕎麦屋といえば、数寄屋町5番地に開店していた1850年(安政6)創業の蓮玉庵がある。ちょうど、池之端にある伊豆栄の真裏にあたるのが数寄屋町だ。でも、江戸東京は昔から蕎麦屋Click!だらけなので、画家たちが蓮玉庵へ注文していたかどうかは不明だ。いまでこそ、蓮玉庵は上野界隈の“定番”といわれているが、1927年(昭和2)当時には、昔ながらの蕎麦屋が何軒も震災で廃業せずに残っていただろう。香ばしい蕎麦料理は、のびてしまえば価値がなく台無しなので、展示場に直近の蕎麦屋へ出前を頼んでいた可能性がある。しかも、蕎麦の味にはうるさかったと思われる東京の木下兄弟や野口彌太郎、蕎麦どころ山陰(鳥取)の前田寛治が注文しているのだから、そのあたりの感覚はよくわかっていただろう。また、不在がちな小島善太郎は別にして、近畿地方でうどん文化圏の佐伯祐三と里見勝蔵が、蕎麦屋の出汁の風味になじめないのか、一度も注文していないのが面白い。
 小島善太郎は、開催期間を通じて会場から出前をあまり注文していない。これは、事務方をつとめているため雑事や交渉ごとが多く、いろいろと多忙だったせいもあるのだろうが、高価な出前をとるのをできるだけ避け、弁当か握り飯を持参していた可能性もある。8人の画家たちの中で、おそらくおカネにもっとも不自由していたのが小島善太郎と林武で、ほかの画家たちのように実家が比較的裕福な家庭環境とは、生まれも育ちも異なっていた。それでも6月19日(日)に、1930年協会のメンバーが会場へ集合した日には、全員が出前を注文し、しかもうな重を中心に奮発した昼食をとっている。この日は、ちょっと贅沢をして伊豆栄の出前で統一したものだろうか。
 
 
 
 蕎麦に「1.5」と書いてあるのは、ざるの「大盛り」だと思われるが、それでも足りないのかカレーライスやハヤシライスを同時に注文している画家がいる。また、カレーライスと弁当の同時注文も多い。料理屋では出前をするぶん、配達コストと重量の軽減を考えて盛りをやや少なめにしていたのかもしれない。あるいは、昼と夕との注文ちがいだろうか。画家の中には、たとえば6月27日(月)の木下孝則と佐伯祐三のように、出前を3人前注文している日がある。これは、この日が特に空腹だったせいではなく、前日26日(日)に雨がやみ、上野公園への人出が多く来場者がたくさんいて、会場の絵が何点か売れたのだ。翌日、「あのな~、うな重に弁当にカレーを頼んどいてや~、ウハウハ食うで~」と、木下孝則とともに喜ぶ佐伯の顔が目に浮かぶようだ。
 その佐伯祐三は6月22日(水)、梅雨空が久しぶりに晴れた日の午前中、一度カレーと弁当を注文したにもかかわらず、あとでそれを取り消している。おそらく、久しぶりの晴れ間で外出した米子夫人Click!が、会場へ姿を見せたのではないか。「オンちゃんが来たさかい、わし、きょうは外でメシ食うわ」と、一度書いたメニューを塗りつぶしたのかもしれない。また、メニューが記載されていない日に、画家たちは会場にいなかった…とは限らない。上野公園の周囲は飲食店だらけであり、画家たちは連れ立って食事をしに外出している可能性のほうが高い。東京美術学校出身の画家たちにとって、上野は学生時代の“庭”みたいなものだったろう。
 2週間の会期を通じ、展覧会場に貼りついて来場者を接待し、比較的ちゃんと番をしていた画家は、少なくとも10日間通いつづけた前田寛治と木下孝則・義謙兄弟、9日間も会場にいた野口彌太郎の4人だ。ほかの画家たちは、会場を出たり入ったりしていたのか、あるいは会場へそもそも出てこないで、梅雨の晴れ間にどこかへいってしまったのだろう。会期も終盤に近い6月29日(水)などは、「ほな、林くん、あと頼んだで~」と、林武を除いて全員がどこかへ出てしまったのだろうか。あるいは、翌日が“千秋楽”なので、早くも近くで打ち上げでもやっているのだろうか。「ボ、ボクだけ、なんでお留守番…?」という、気が弱い林武のぼやきが聞こえてきそうだ。翌30日(木)の最終日は、おそらく全員が慰労会をかねた食事会に出ているのだろう。
 その林武が6月24日(金)に、めずらしく蕎麦屋へ親子丼を2つも注文している。きっと前日に絵が売れて、少し気が大きくなったのだろう。この出前リストは、当時の画家たちの“ふところ具合”まで透けて見えるようで、いつまで見ていても飽きない。おそらく、昼食にいちばんおカネをつかったのは、うな重を蒲焼屋へ5つも注文して食べた、前田寛治と木下孝則のふたりなのだろう。
 
 
 
 余談だが、上戸塚(現・高田馬場4丁目)にも伊豆栄が開店している。1924年(大正13)の創業と、夏目漱石が通った1877年(明治10)創業の早稲田・すず金ほどではないが、新乃手では老舗の部類に属する店だ。おそらく、下谷の伊豆栄から大正期に暖簾分けしているのだろう。

◆写真上:1927年(昭和2)6月17日~30日に、上野公園の日本美術協会展示場で開かれた1930年協会第2回展で、画家たちが注文した料理の出前リスト。
◆写真中上:上は、同リストに曜日や天候を加え改めて清書したもの。中は、日本美術協会展示場跡の現状(現・上野の森美術館)。下左は、戦前に撮影された黒猫亭。下右は、建て替えられる前の伊豆栄の旧館だが、空襲で焼けているため戦後に建てられた店舗。
◆写真中下:上は、池之端仲町にある伊豆栄本店(左)とうな丼(右)。中は、元黒門町にある黒船亭(左)と下谷町の聚楽(右)。下は、数寄屋町にある蓮玉庵(左)とざる蕎麦(右)。乃手らしく蕎麦の量は少なめで、「1.5」はおろか最低でも3枚は食べないと空腹はおさまらないだろう。
◆写真下:1930年協会の画家たちが目にしていた、当時の下谷に建っていた建築群。上左から下右へかけて順番に、東京科学博物館別館(現在の新館は1930年竣工)と松坂屋、下谷郵便局と古澤ビルディング、宮崎ビルディングと東京市設下谷市場など。