以前、1926年(大正15・昭和元)の暮れに、西武電鉄(現・西武新宿線)Click!の敷設を数週間で結了したと思われる、千葉鉄道第一連隊と津田沼鉄道第二連隊の工事をご紹介Click!した。国立公文書館には、翌1927年(昭和2)1月13日に工事期間中に用いられた「軌条敷設器」の導入効果を、近衛師団から陸軍省へ上申する報告書「鉄道敷設器材審査採用ノ件」Click!が残されている。西武線が開業する同年4月16日まで、陸軍は同線の一大物流拠点である東村山駅から、軍用物資(建築資材)Click!をおそらく戸山ヶ原Click!へ頻繁に運びこんでいることも書いた。
 さて、きょうは井荻駅-下落合駅(氷川明神前の旧駅Click!)間を鉄道連隊が敷設した現在の西武新宿線で、約90年後の今日、その痕跡をたどるのがテーマだ。実は、この課題はsuzuran6さんClick!がすでに記事Click!にされており、わたしはその内容からご教示をうけたものだ。上井草駅には、当時の鉄道連隊が演習敷設に用いたと思われる軌条(レール)が、そのままホーム屋根の支柱用に加工されて現存している。鉄道連隊マークの入れられたレールは、1914年(大正3)製のものが多く、製造番号から八幡製鉄所で同年に製造されたものだ。
 1901年(明治34)に開業した官営八幡製鉄所は、13年後には製鋼から圧延工程をへて、それほど複雑ではない形鋼生産をしていた様子がうかがえる。これらのレールは、千葉ないしは習志野の鉄道連隊敷地内に設置された倉庫にストックされていた資材だと考えられ、生産から13年後の1926年(大正15)に、西武線工事の軌条(レール)敷設へ投入されていると思われる。つまり、井荻-下落合間の鉄道連隊による線路工事は、あらかじめ西武鉄道が調達・用意した軌条(レール)などの資材を用いて敷設されたのではなく、鉄道連隊がそのストック資材を持ちこんで工事を進めている気配が濃厚だということだ。
 換言すれば、千葉あるいは習志野の倉庫から工事現場である東京郊外へ、線路敷設資材をスピーディかつ円滑に輸送・搬入するのも、当時の重要な鉄道連隊演習の一環だったのだろう。軌条敷設の工事のみに関していえば、陸軍省が西武線の井荻-下落合間の敷設を資材ごと丸抱えした可能性が高い。これは、大正初期から多摩湖を建設Click!するために東村山駅へ大量に蓄積された、セメントや砂利などの建築資材を戸山ヶ原Click!へ直接ピストン輸送するための、陸軍省から西武鉄道へ提案した“交換ビジネス”であり、バズワードぎみで少し時代遅れの表現をするなら“アライアンス事業”ではなかったか?
 
 
 さて、上井草駅に降りてみると、ホーム上のあちこちに鉄道連隊の軌条(レール)を発見することができる。suzuran6さんも書かれているように、支柱に流用されたレールは腐食防止のために分厚いペンキで重ね塗りされており、鉄道連隊のマークや製造年・製造番号が非常に判読しにくくなっている。中には、おそらく連隊マークが刻印されていたものの、ペンキの重ね塗りで単なる盛り上がりにしか見えない箇所もある。特に、風雨にさらされている支柱部分は腐食も進み、マークや番号がほとんど読み取れなくなっていた。
 西武新宿線では、上井草駅とともに下落合寄りでもう1ヶ所、鉄道連隊の軌条(レール)を使用したと思われる駅がある。上高田小学校Click!も近い、新井薬師前駅だ。上井草駅と同様に、厚いペンキが重ね塗りされているが、新井薬師前駅のほうが腐食が激しいのか鉄道連隊のマークはおろか、数字も読みとるのがかなり困難なほど風化しているものが多い。ただし、屋根近くの数字は比較的クッキリ残っていて、1925年(大正14)製の軌条(レール)を確認することができる。これらの軌条は、実際に西武線の井荻-下落合間で使用されたあと、摩耗したものから交換されて西武鉄道が保管し、ホームの屋根を増設する際に加工・流用したものだろう。とうに過ぎ去った、90年前の歴史上の出来事のはずなのだが、いまだ思わぬところで当時の無言の“証言”を、じかに目にすることができる。
 

 わたしが学生だった頃、山手線の新大久保駅舎には二度にわたる山手空襲で被爆し、火災の高熱でアメのようにねじ曲がった天井の鉄骨が、そのままむき出しの状態で残されていた。おそらく、1980年以降に行われた駅舎の改装工事により、戦災の“証言”は取り除かれるか、新たな建築材で覆われるかしたのだろう。それとは逆の事例に、親父から上の世代には馴染み深い、当初の姿をようやく取りもどした東京駅には、以前は目につかないようたくみに内装で覆われていた駅舎の内壁、すなわち1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲で炎上した、黒く焦げたレンガや炭になった芯材など戦争の“証言”が、誰でも見ることができるよう保存処理をほどこされて展示されている。
 時代はどんどん移ろい、あたかも歴史教科書のページをめくるかのように流れていくのだけれど、立ちどまってよく周囲を眺めまわしてみると、ページをめくりきれなかった時代の痕跡や、新しいページであるにもかかわらず、その部分だけが糊づけでもされたかように、いつまでもめくり切れないで破れつづける箇所があるのに気づく。スムーズにページをめくれない箇所には、それなりに重くて忘れられない歴史の“証言”や、さらりと通りすぎてはいけない物語が眠っていることが多いのに、改めて気がつくのだ。
 
 

 先日、神田川Click!をボートでたどったときに、日本橋川の新常磐橋と鎌倉橋との間に架かるJR外濠鉄橋に、鉄道省のシンボルマークが残されているのを見た。1918年(大正7)に鉄橋が建設される際、同省によって埋めこまれた青銅のレリーフだ。鉄道連隊のマークが軌条と斧なのに対し、鉄道省のマークは動輪をモチーフにリースの装飾が施されている。

◆写真上:上井草駅のホームに残る、鉄道連隊のマークが入った軌条(レール)。
◆写真中上:いずれも上井草駅のホームと屋根の支柱に使われたレールの刻印。
◆写真中下:上は、1914年(大正2)の刻印が残る上井草駅のレール支柱。下は、1925年(大正14)の刻印が入れられた新井薬師前駅のレール支柱。
◆写真下:上は、舟からでしか見ることができないJR外濠鉄橋の鉄道省レリーフ。中は、東京駅の内壁に残る空襲による焼け跡。下は、上野駅に残る古いレール支柱。