先日、笠原吉太郎Click!が描いた油彩画『房州』(キャンバス6号F/318×409mm)を、三女・昌代様の長女である山中典子様Click!よりお預かりしている。わたしは潮風Click!で育ち海辺が大好きなので、とてもうれしい。描かれた作品のタッチや表現から、大正末ぐらいに房総半島Click!へ写生に出かけ、描いた作品ではないかと思われる。拡がる海は、もちろん太平洋だ。大正時代には、画家たちが房総の海岸線をたどるように写生へ出かけており、こちらでも中村彝Click!や曾宮一念Click!、佐伯祐三Click!、安井曾太郎Click!などの房州旅行をご紹介している。
 笠原吉太郎『房州』も、そのような画家たちのムーブメントに惹かれて、房総半島を訪れた際の作品だと思われる。浜辺には、地曳き網Click!に使用すると思われる、引き揚げられた舟の艫(とも)らしいかたちが描かれており、そのすぐ右手には網や浮きを収納する漁師小屋と思われる、小さな屋根の家があるようだ。おそらく、舟の傍らには材木の“コロ”が何本も置かれており、波打ち際まで舟を運ぶときに下に敷いては滑らせるのだろう。この光景は、その昔、わたしが子どものころ湘南海岸でいつも見ていた情景とまったく同じだ。
 手前には小さな川が流れており、それがちょうど海へと注ぐ河口のようだ。川の流れと、海からの波が衝突するところが白く波立っている様子で描かれている。また、浜辺の近くにはたくさんの岩礁が見えており、それらにぶつかってくだけた波頭をとらえるのに、ホワイトの絵具を鉛管から直接絞りだしては盛りあげる技法で表現されている。
 わたしがちょっと不思議に思うのは、通常、このような岩礁や岩場のある浜辺で地曳き網は行われない。漁網が岩礁の鋭い先へひっかかり破れてしまうのと、当時の網に結び付けられた浮きは、中に空気を閉じこめた木樽や大きなガラス球が多く用いられていたと思われるので、岩礁にぶつかればすぐに破損してしまうからだ。舟の左手に、岩礁のない滑らかな砂浜がつづいていると考えればつじつまが合うのだけれど、ひょっとすると笠原吉太郎が海辺を写生して歩いたスケッチブックによる、意図的な“構成”画面なのかもしれない。すなわち、舟や漁師小屋を写生した場所と、小流れが終わる河口から岩礁がある海の写生場所とは、異なっている可能性が残る。

 
 
 大正期に笠原吉太郎が表現していた画面の技法について、外山卯三郎Click!が書いている。1973年(昭和43)発行の『美術ジャーナル』、「画家・笠原吉太郎氏を偲ぶ」から引用してみよう。
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 笠原吉太郎氏の作品の根底は、自然写生であったといえるのです。大正末期から初(ママ)まる一連の写生を見ますと、まだ画筆による描写が多くて、ユトリロ風のナイーブな自然主義的な描写が多かったのですが、ヴラマンク的な自然主義に接近するにつれて、だんだんとペインティング・ナイフを多く使用するようになり、昭和時代に入ると、その殆んど悉くの描画がペインティング・ナイフによって、直截にまた簡明に処理されるようになってきたのです。そのために、一見すると、その作画が非常にスピードをもった一筆描きのように強く、ナイフで両断されているのであったのです。このスピードのあるナイフの一筆描きの手法によりますと、かって絵筆によって一筆一筆と、太陽光線を分解しながら、眼に見えるままを描写していた印象派の画家たちの手法は、一度にかきけされてしまう新表現になったと思われたのです。
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 笠原吉太郎は、昭和期に入るとフォーブの影響を色濃く受け、ペインティングナイフを多用して厚塗りの画面を「暴れさせる」作品が急増する。もちろん、近所に住み1926年(大正15)春に帰国した佐伯祐三の影響が、ことのほか大きかったと思われる。絵筆による表現が主体の『房州』は、後年の作品に比べれば比較的おとなしく、大正末期の制作であることを想起させる。もっとも、1928年(昭和3)9月13日の東京朝日新聞には、第3回笠原吉太郎展の展評記事が掲載されている。その中に、気になる作品のタイトルが見えている。以下、外山の文章から記事を孫引きしよう。
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 笠原氏の個展、長らく図案にかくれて居た笠原吉太郎氏は、両三年前から再び洋画に立帰り、十二日から十六日まで、本社画廊で、その第三回展を開いている。点数五十七、中で風景多数を占め、「丘の家」、「雪のあした」、「船のとも」、「波止場の夕」、「犬吠岬灯台」、などとりどりによい。氏の特色とするところは、暗い色と力のある筆致で、見る者に重々しい気持ちを与えずには置かぬ。構図の扱方も堂に入っている。
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 タイトルの中には、明らかに『下落合風景』とみられる作品もあるが、この中で『船のとも』がもし『房州』と同一の作品だとすれば、同じ房総の『犬吠岬灯台』とともに大正末から昭和初期にかけての笠原作品ということになる。地曳舟の艫(とも=船尾)を描いた『房州』が、第3回個展に出品した『船のとも』であるとすれば、笠原吉太郎が気に入っていた作品ということにもなるだろう。
 
 

 画面は、おしなべて上部の空が薄塗りで、下部の陸地が相対的に厚塗りとなっている。絵筆とナイフの双方を使って描かれているが、表現によっては絵筆の“お尻”を使って、生乾きの画面をなぞっているのかもしれない。また、ホワイトの鉛管から直接絵具を絞りだした、厚塗りの波の部分には絵具のクラックや剥脱が見られる。そこからのぞいて見えるキャンバス地には、佐伯祐三のキャンバスClick!に見られるような下塗りは、まったく施されていないことがわかる。
 笠原吉太郎は、キャンバス地にほとんどそのまま絵具をのせて描いていたようだ。ただし、キャンバスの端や裏面を見ると、どこか光沢のあるエナメルのような質感がうっすらと残っているのがわかる。これが、笠原独自の“下塗り”であり、油絵具のノリをよくするために、さらには作画スピードをアップするために施したなんらかの画布加工であるとすれば、いったいなにが塗布されているのだろう? 詳細に分析してみないとわからない、“謎”のてかりだ。あるいは、キャンバスを長期間にわたって維持するために塗布した、なんらかの保存剤の可能性もある。
 キャンバスは、合成繊維の混入がないピュアな麻布であり、黒光りした木枠も佐伯作品Click!と同時期の大正期のものだろう。現在はクリーニングが行なわれ、木枠やキャンバスが補修材で覆われて、めったに見ることができない佐伯のキャンバスだが、おそらく当作品と同じような裏面の表情をしているのだろう。キャンバス裏の左上には、笠原吉太郎の筆跡で「房州」という文字が書きこまれている。また、同作は一度画面が破れており、それを笠原自身が麻布でていねいに補修した跡も残っている。特に思い出の深い、画家お気に入りの作品だったのだろう。先述したように、1928年(昭和3)に東京朝日新聞社の画廊で開催された、第3回笠原吉太郎個展で評判のよかった『船のとも』は、この作品のことなのかもしれない。
 もうひとつ、6号Fサイズの木枠に張られる際、キャンバスをほんの少し小さめにしていることが、周囲の絵具の痕跡や古い釘跡から想定できる。当初は、6号Fよりも上下に数センチほど幅広く描いていたものを、展覧会などで額に嵌める際、正確な6号Fの木枠へ貼り直したものだろう。
 
 
 
 さて、この情景は千葉県につづく海岸線のどこを描いたものだろう。いつも、描画ポイントにこだわるわたしなのだが、さすがに房総半島の海辺までは範囲が広すぎてまったくわからない。青木繁や中村彝が滞在した、布良(めら)Click!の近くだろうか。それとも、銚子の街も近い外房の海岸だろうか。大正期の風景なので難しいかもしれないのだが、お心あたりの方はコメント欄まで。

◆写真上:大正末ごろに制作されたとみられる、千葉県の海岸を描いた笠原吉太郎『房州』。
◆写真中上:画面各部の拡大で、上部が薄塗りなのに対して下部が相対的に厚塗りだ。
◆写真中下:ほとんどが絵筆による表現であり、ナイフによる技法はあまり用いられていない。
◆写真下:キャンバスの様子や、裏面のタイトル、パッチ、木枠、釘跡などの状況。