米国防総省(ペンタゴン)が情報公開し、米公文書館へ収蔵された1947年(昭和22)の空中写真を、国土地理院の日本地図センターがずいぶん以前から公開しているのは有名だ。Gooの地図システムにも、透過の焼け跡写真としてセッティングされている。だが、新たに発見された写真に1945年(昭和20)4月に撮影された空中写真のあることが判明した。これは先年ニュースにもなり、瀬戸内海の柱島泊地に停泊中の、戦艦「大和」Click!の最後の姿(最終兵装)をとらえたものとして新聞などでも話題になった。その、一連の偵察写真の一部だと思われる。
 その中で、同年4月2日に東京上空から撮影した写真の存在していることが判明した。この一連の空中写真は、それほど枚数が多くなく、東京を網羅的に撮影しているわけではないが、同年3月10日の東京大空襲Click!のあと、鉄道と駅、そして河川沿いの中小工場を目標にした、同年4月13日の第1次山手空襲における爆撃目標の確認および特定用に、B29偵察機の2機が撮影(ないしは1機による反復撮影の可能性もあるが、2機偵察が通常)したものだ。飛行コースの標定図によれば、2機の偵察機は東京の西部から侵入し、北を飛ぶ1機は石神井上空から、また南を飛ぶ1機は吉祥寺上空から空撮をスタートしている。
 北側のB29偵察機は、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)沿いの街々を撮影したあと、練馬駅上空で急に進路を北東に変え、板橋の大谷口上空へと侵入し、そのまま東南東へ進んで池袋の北側から巣鴨、千駄木、谷中と撮影し、やがては現在の台東区から江東区(すでに3月10日の大空襲で焼け野原だった)の上空を飛行して、東京湾へと抜けている。
 また、南側の偵察機は、吉祥寺から中野まで中央線沿線をくまなく撮影したあと、北側の機とシンクロするように中野駅上空から急に北東へ航路を変え、下落合西端の城北学園Click!(現・目白学園)の上空へさしかかり、そこで再び進路を変えて東南東へと偵察写真の撮影をつづけていく。やがて、神田川に沿うように飛行して、秋葉原上空から神田、東京駅、日本橋、清洲橋、深川と通過し東京湾のかなたへと去っていった。
 おそらく、地上では空襲警報が発令されただろうが、ほどなくB29が2機ないしは1機なので偵察目的と判断されただろう。よく晴れた日で、地上からは銀色に光る機体と飛行機雲がよく見えたと思われるのだが、おそらくこの時期には迎撃戦闘機Click!は飛ばず、高射砲陣地も沈黙していただろう。本格的な空襲ではなく偵察目的で高々度を飛ぶB29に、もはや迎撃機の燃料や高射砲の弾をふんだんに使えるほど余裕がなくなっていたと思われる。撮影ポイントの標定図を見るかぎり、特に飛行が混乱した様子もなく、偵察機は予定どおりのコースを飛行して東京湾へと抜けている。


 さて、ここで重要なのが、中野駅上空から急に航路を北東に変え、なぜか下落合の真上を通過していった南側のB29偵察機だ。おそらく、中央線沿線の駅や街々を撮影したあと、妙正寺川と神田上水(現・神田川)沿いに展開していた中小の工場(その多くが染物工場や製薬会社など)と、西武電鉄(現・西武新宿線)沿いの様子を撮影する必要が、偵察任務に含まれていたと思われるのだ。そして、同年4月13日の第1次山手空襲では、まさにこれらの偵察機が撮影していった鉄道沿い、および河川沿いの地域が実際に爆撃を受けている。
 南側の偵察機は、西落合の自性院上空で一度めのシャッターを切ったあと、聖母病院のフィンデル本館の真上で二度めのシャッターを切っている。その次は学習院の真上なので、1945年(昭和20)4月2日現在の下落合を正確にとらえた空中写真は、聖母病院の上空で撮られた1枚だ。そして、この写真こそがわずか11日後に空襲で一部が焼失したらしい、目白文化村Click!の第一文化村および第二文化村の健全な姿をとらえた、最後の写真ということになる。日本の陸軍が撮影した1944年(昭和19)の写真に比べ、レンズやフィルムの解像度が格段に高いため、落合地域の子細な様子を観察することができる。
 第一文化村に接した、旧・箱根土地本社ビルClick!(のち中央生命保険倶楽部)は解体され、すでに存在していないことがわかる。これは、人が実際に住んでいない家屋や、家族全員が地方へ疎開してしまった建物は、延焼防止のために解体するという自治体や防護団の「建物疎開」Click!方針によって取り壊された可能性がある。下落合東部の近衛町では、家を購入したものの転居が済んでいなかった旧・杉卯七邸Click!が、防護団による解体の危機にさらされた。
 さて、第一文化村の元・長谷川邸(のち穂積邸に南接)のテニスコートは見えているが、当時は食糧確保のための畑にされていた可能性が高い。また、センター通り沿いにあったテニスコートは、すっかり住宅で埋められていて存在していない。第二文化村にあった益満邸のテニスコートClick!(佐伯祐三「テニス」Click!のモチーフ)やビリヤード場の建物も、それらしいスペースは見えているがすでに廃止されていただろう。この時期、家々の庭先には防空壕が掘られ、3月10日の東京大空襲Click!で現実化した絨毯爆撃の様子を伝え聞きClick!、文化村の住民たちは戦々兢々としていたにちがいない。箱根土地ではなく、かなり遅れて勝巳商店地所部が売り出した「第五文化村」Click!には、すでに家々が5割ほど建ち並んでいるのが見てとれる。


 目白文化村の第一・第二文化村は4月13日夜半、妙正寺川沿いの空襲の余波を受けて被爆炎上するはずなのだが、まだ落合全域が被災するほどの爆撃ではなかった。特に下落合の東部は、いまだ全域が焦土と化すような被害を受けてはいない。これらの住宅街(おもに山手線が近い東部)が、緑が濃い島状の敷地を残して焦土と化すのは、12日後に行われた第2次山手空襲Click!によるものだ。
★その後、第一文化村と第二文化村は4月13日夜半と、5月25日夜半の二度にわたる空襲により延焼していることが新たに判明Click!した。
一度めの空襲では、十分な爆撃効果が得られなかったと判断したのか、5月25日夜半の空襲はまさに(城)下町Click!と同様の徹底した絨毯爆撃だったようだ。また、同爆撃では米軍の被害も大きく、3月10日の東京大空襲におけるB29の未帰還機が13機だったのに対し、5月25日の第2次山手空襲では、29機のB29が未帰還と記録されている。
 さて、同空中写真では、下落合東部の相馬邸跡地の開発が目につく。1941年(昭和16)に黒門Click!の福岡への移築工事がスタートし、相馬邸母屋Click!もおそらく1943年(昭和18)ごろまでには解体されたとみられるが、その後の宅地開発の詳細が同写真でハッキリとわかるからだ。相馬邸の敷地跡には、十字型の三間道路が敷設され、東西道路の北側はすでに宅地の地割りが済み、およそ15の区画に分割されているのがハッキリと見てとれる。これは、東邦生命の太田清蔵Click!が1940年(昭和15)に淀橋区へ提出した、「淀橋区下落合壱丁目指定申請建築線図」Click!の12区画よりも分割数が増えていることになる。
 東西道路の南側、すなわち相馬邸を買いとり黒門を移築した4代目・太田清蔵の息子で、当時の東邦生命社長だった5代目・太田清蔵Click!の屋敷があったエリアは、淀橋区へ提出した「建築線図」のとおり、空中写真を参照するかぎり宅地開発で売り出したのは5区画だったと思われる。そして、相馬邸の南西に見えており、芝庭の南斜面や谷戸に面して建っている少し大きめな邸が、5代目・太田清蔵の自宅Click!だと思われる。この邸の姿は不明だが、ひょっとすると相馬邸の解体で出た建材の一部を、自邸の建設へ流用しているのかもしれない。


 1945年(昭和20)4月2日に撮影された空中写真には、11日後に焼失してしまう戦前の落合地域の貴重な姿が記録されている。さまざまなテーマに活用できる1級資料なので、これからの記事へも積極的に引用していきたい。また、米軍のB29偵察機は同年5月25日夜半の第2次山手空襲の直前にも、池袋駅あるいは下戸塚(早稲田)あたりを飛行している。この2つの空中写真を突きあわせると、これまで知られていないどのような事実が浮かびあがるのか、とても楽しみだ。

◆写真上:空襲直前、1945年(昭和20)4月2日撮影の第一・第二・第四文化村。
◆写真中上:上は、第一文化村の箱根土地本社跡から前谷戸にかけての様子。下は、第二文化村に隣接して勝巳商店が1940年(昭和15)から販売した「第五文化村」の様子。
◆写真中下:上は、1940年(昭和15)に東邦生命から淀橋区へ提出された「指定申請建築線図」どおりに開発が進む御留山の相馬邸跡と5代目・太田清蔵邸。下は、前年の1944年(昭和19)12月3日に飛来した2機のB29偵察機による飛行撮影コース(標定図)。
◆写真下:上は、建物疎開(防火帯36号江戸川線)が進む神田川と妙正寺川沿い。下は、目白橋付近で撮られた6両編成とみられる山手線。目白通りは一部を除き、いまだ建物疎開が行われていない(!)のがわかる。このテーマについては、改めて書いてみたい。
★その後、目白通り沿いの建物疎開は、1945年(昭和20)4月2日から5月17日までの、いずれかの時期に行われているのが判明Click!している。