目白崖線の東つづきである小日向(こびなた)崖線については、うちの山手側の墓Click!がある関係から、これまで何度か記事に取りあげてきた。墓の西側には、東京で個人名をつけた特異なふたつの小学校のうちの1校、小日向水道端(すいどうばし)の黒田小学校Click!についてご紹介している。また、その黒田小学校跡からつい先年、文京区の発掘調査により出土した水戸徳川家の上屋敷Click!へとつづく、神田上水の開渠遺跡Click!も取りあげた。きょうは、うちの墓のすぐ東側にあった大きな屋敷について書いてみたい。いまでは、その痕跡は邸内に残る樹木の一部(大イチョウ)と、西側に延々とつづく石垣にしか面影をとどめていないが、ここは小日向崖線下を流れていた神田上水の北岸、昔は小日向第六天町(現・春日2丁目)といわれた一画だ。
 わたしは墓参りをすると、現在は道路となっている神田上水の開渠あとを散歩することが多い。西へ歩けば、とても昭和初期の建築とは思えない、戦後建築に見えたモダンな黒田小学校の校舎がつい最近まで建っていて、その裏の丘上には小日向氷川明神社(八幡社合祀)がある。そのまま西へ向かえば、江戸川橋から神田川の遊歩道沿いに椿山Click!、関口芭蕉庵Click!、細川邸庭園跡Click!(現・新江戸川公園)、高田氷川社Click!、学習院馬場Click!、そして佐伯祐三Click!の山手線ガードClick!をくぐって下落合まで4kmほどを散歩できる。この旧・上水沿いの散歩が心地よいので、深川の墓には年に一度ぐらいしかお参りしないが、乃手の墓は出かける機会が多い。
 さて、墓から東側へ歩くと、ほんの1~2分で国際仏教学大学院大学という、一度では憶えられないむずかしい名前の学校がある。このキャンパスが、小日向第六天町の大屋敷の跡であり、住んでいたのは徳川幕府最後の15代将軍だった徳川慶喜(けいき)だ。大学の中へ入ってみる気になったのは、三岸アトリエClick!の保存に関連してお会いした、十川造形工房の十川百合子様Click!が徳川慶喜邸のジオラマを制作して展示しているとうかがったからだ。さっそく展示を拝見すると、なるほど聞きしに勝る広大な屋敷だったのがわかる。3,600坪にわたる広い敷地の北寄りに、まるで千代田城Click!の本丸御殿をミニチュアにしたような、甍の波が連なる邸が建設されていた様子がひと目でわかる。
 ただし、わたしが想像していたような豪華でオシャレな屋敷とは、だいぶ様子がちがっていた。下落合の徳川邸Click!(大垣)や目白町の徳川邸Click!(尾張)は、巨大で見あげるような豪華な西洋館を建設し、下戸塚三島山(現・早稲田甘泉園公園)の清水徳川邸Click!は大きな回遊式庭園を築造しているけれど、徳川慶喜邸はふつうの屋敷をそのままタテヨコへ拡張していったような、邸自体は大きいのだが建てつけはきわめて普通の家屋のように見える。江戸期から明治以降、神田上水沿いに建てられた徳川邸の中では、むしろ地味で質素な印象を受けるのだ。もっとも、建材にはかなりのおカネをかけていたのかもしれないのだが……。
 
 
 徳川慶喜は、現在の後楽園にあった水戸徳川家の上屋敷で生まれ、明治以降、その北西800mほどの小日向第六天町に邸をかまえて、そこで1913年(大正2)に死去している。徳川慶喜邸は、二度にわたる山手空襲Click!でも炎上することなく、戦後までそのまま建っていた。徳川慶喜の孫娘である徳川喜佐子(のち榊原喜佐子)が書いた『徳川慶喜家の子ども部屋』には、徳川慶喜邸での生活や内部の様子が詳しく記録されている。1996年(平成8)に草思社から出版された同書より引用してみよう。
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 邸の庭の西側は高い崖になっており、長く垣根が連なる崖沿いは私たちの散歩道だった。垣根の外側には、毎年春になると土筆があちこちに茶色い顔をのぞかせ、夏になると大株のススキが茂りに茂った。その茂みから、一間ぐらいもある大きな青大将が何匹も見つかったこともある。台風が来るとこのススキの群れは、竹垣ぎわの何本もの大木といっしょにざわざわごうごうと騒いでいた。晴れた日の夕方には、西の丘の会津様の森の上に富士山や秩父連山が望め、その後ろに赤い夕日が沈むのが見えた。/崖下は細い路だった。路は崖下の方から土止めの高い石垣に沿って南北に、江戸川の方から茗荷谷の方にと伸びていた。路の脇から小さな家々が軒を連ね、会津様とわが家の高台とのはざまを埋めていた。この細い路からは荷車が通る音が聞こえ、家々からは生活の音が響いてきた。まだ私が床にいる寒い冬の朝など、納豆売りの少年の声が聞こえてきた。夏の夕方などには二階家の窓から小学生と思える男の子が声を出して読本を読んでいるのが見えたりした。
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 敷地の西側につづく、崖の土どめとして築かれた擁壁は、いまもそのままの姿で残っている。この道をまっすぐ北へとたどれば、茗荷谷駅も近い地上を走る丸の内線の線路と、東京メトロの地下鉄操車場へと抜けられる。文中の「会津様」とは、うちの墓地に隣接する旧・会津藩の松平容保邸跡のことだ。
 同書には、興味深い記述も見える。1936年(昭和11)2月28日のいわゆる二二六事件Click!の際、青山の女子学習院Click!に通っていた徳川喜佐子は、やはりいつもどおりに通学している。彼女は運転手つきの自動車で通学していたが、電車で通っていた級友たちも登校していたことがわかる。また、その日の授業が中止になり帰宅すると、徳川邸では家内じゅうのラジオがつけっぱなしになっていた様子が記録されている。つまり、かなりの積雪があった当日、電車は遅れが出ていたかもしれないが通常どおり運行Click!しており、ラジオも“沈黙”Click!せずに放送していた様子が記録されているのだ。これは、わが家の情景Click!ともからんでくるテーマだが、二二六事件の当日、市内の電車は運行を停止しラジオは放送を中止していた……という記述は、なにを根拠にそう規定しているのだろうか?


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 同級生の中では、赤坂表町にお住いの高橋さん(高橋是清蔵相の令嬢)は来ておられなかった。白根さん(官房長官白根竹介氏の令嬢)は、官舎を出てから兵隊に銃剣を背中に突きつけられて歩いてきたと言われた。信濃町にお住いだった犬養さんは、学校に来る途中の道で顎紐姿の兵に阻止され家に引き返したと、のちに伺った。/やがて、今日は休校、皆急ぎ帰るようにと先生のお話があるころには、斎藤実内大臣、高橋蔵相はじめ相当数の大臣が襲われ、亡くなった方々もあると伝わってきて、皆で、「高橋さんはどうしていらっしゃるのかしら」とお案じしつつ帰宅したのだった。/家に帰れば、家でも皆が事件の話で持ちきりだった。表、奥のラジオは一日中つけられ、これはただならぬ事件だということが、私たちにも分かってきたのである。
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 特に徳川喜佐子が登校直後、すでに犠牲者の情報をかなり正確に把握している点に留意したい。この情報源は、女子学習院の職員室で聞かれていた朝のラジオではなかっただろうか。また、徳川邸の「表」と「奥」という表現が見えるが、これは千代田城の本丸と大奥との関係に近く、「表」には応接間、食堂、納戸、図書室、事務室、お次(女中)部屋、化粧室、使者の間などが展開し、「奥」には客間や家族たちの個室が設置されていた。
 同日の午後に、東京市内へは警備兵が展開するが(どこの連隊か、すでに午前中から展開していた警備兵の目撃例もある)、彼らは北関東の兵営から東京市内へ急遽、出動を命じられた連隊の兵士たちだった。市内に駐屯していた近衛師団の各連隊や、第1師団の第1・第3連隊は二二六事件を起こした当事者たちClick!の連隊であり、事件に関与せず兵営に残っている部隊とはいえ、陸軍は彼らを市内へそのまま展開することに危惧をおぼえただろう。
 第六天町の徳川邸には、宇都宮からやってきた李王の率いる歩兵第59連隊が駐屯している。屋敷内はもちろん、南側の庭などの空いたスペースに、士官や兵士たちはテントを張って駐留したようなのだが、少なくとも連隊なので兵士の数はゆうに1,000名を超えていただろう。そんな大人数を収容できるほど、徳川慶喜邸の敷地は広かったことになる。
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 お客座敷の一の間が聯隊長、李王様のお部屋となった。李王様は床の間を背にしてあぐらをかいて座られ、大きな紫檀の卓で事務をとられていた。次の二の間は空き室にして、三の間に聯隊旗が入り、そこには旗手の若い少尉殿がずっと詰めていた。お次の人たちはこの少尉殿を「かわいい」とか「素敵だ」とか、さかんに騒いでいたが、私たちは子どもだったのか、特別関心を持たず、三の間をのぞいたこともなかった。/ご滞在中の李王様の夕食のお給仕や、お話し相手に伺うのが、私たちの役目だった。
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 戦後まで焼け残っていた徳川慶喜邸を、一度でいいから見てみたかった。もっとも、下落合の徳川さんちClick!のように、お訪ねすると気軽に邸内の説明をしてくれるというような、さばけた雰囲気ではなかったようにも思えるが……。徳川邸には戦前、警官はもちろん警視庁の刑事や医者、コックまでが、北側の庭先に家を建てて住んでいた。

◆写真上:第六天町にあった、徳川慶喜邸の敷地西側につづく崖地の擁壁。
◆写真中上:上は、同じく敷地西側の延々とつづく擁壁。下左は、現在の国際仏教学大学院大学の正門付近から北を向いて撮影した様子。下右は、徳川邸の応接間(お折衷の間)跡あたりから南の芝庭跡や「下のお長屋」跡の方向を向いた様子。
◆写真中下:上は、邸の間取り図。下は、十川造形工房が制作した徳川邸ジオラマ。徳川慶喜が隠居所を増築した、1911年(明治44)ごろを想定して再現されたそうだ。
◆写真下:上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる徳川慶喜邸。下は、榊原喜佐子『徳川慶喜家の子ども部屋』(草思社/左)と、著者の榊原喜佐子(徳川喜佐子/右)。