1935年(昭和10)の9月、八島太郎(岩松淳)Click!は新宿通りに面した紀伊国屋書店の2階展示室Click!で、「油絵・漫画・素描個人展覧会」を開いている。このとき、同展のコンパクトな図録が制作されており、「印刷発行責任者」である八島太郎の居住地は、淀橋区上落合1丁目510番地になっていた。
 この展覧会を訪れ、また図録を目にした特高警察Click!の刑事は、2年前の1933年(昭和8)の夏に逮捕・拘留し、3ヶ月にわたって苛烈な拷問の末にようやく「転向手記」を書かせたはずなのに、八島太郎はおろか妻の新井光子(岩松光子)もぜんぜん「転向」などしてないじゃないか……と感じただろう。しかも、図録には旧・プロレタリア美術研究所Click!の岡本唐貴Click!や、窪川鶴次郎Click!までが賛辞を寄せていた。
 図録に掲載された同展覧会の作品群を見ると、小林多喜二Click!の作品タイトルそのままの『蟹工船』をはじめ、『貧農青年』、『農村青年』、『錬鉄場』、『船渠野天工事場』、『旋盤工』、『職場の鋳物工』、『旱害の山田』、『樟脳製造所』、『貧農』、『農村処女身売防止会』、『作家・窪川いね子(肖像)』……etc.、労働現場や労働者、肖像などを描いてはいるが、タイトルさえ変えればそのまま「プロレタリア美術」になってしまいそうなモチーフや表現ばかりだった。また、同展に賛助出品している妻の光子も、『貧しき親子』に『仕上工Aさんの像』と、これもタイトルを変えれば、すでに特高や憲兵隊に弾圧されて存在しないプロレタリア美術展に出品できそうな画面だった。
 図録に掲載された、岡本唐貴の八島太郎宛て手紙の文章から引用してみよう。
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 こゝに新らしいリアリストの誇りがある     岡本唐貴
 岩松君が、「貧農青年」から「鋳物工」へと、現代日本の青年の一つの典型的な事情と個性を追跡してゐることについて、何人も大きな興味を有つ必要があると僕は思ふ。レンブラント的遺産の新らしい展開とも云へる。/青年の個性の歴史を描き出したこと、同情と理解をもつて彼の人生をモデルにしたこと、モデルの人生を人生と芸術との正しい結合の関係で愛してゐるといふことに、新らしい芸術家----リアリストの道への誇りを見出すことが出来る。/「貧農青年」以来のこれらの一連のポートレートは、個人主義的ブルジョア美術の最良の方法の伝統の継承の大道に入り込んでゐる。(私信より)
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 モノはいいようで、「個人主義的ブルジョア美術の最良の方法の伝統の継承の大道に入り込んでゐる」という非常にまわりくどい表現は、裏返せば「プチブル的な視点に隠れつつプロレタリア美術の社会主義リアリズムをギリギリのところで継承し、なんとか検挙されずに済む狭隘な道を手さぐりで歩もうと模索している(岩松君)」と、岡本はいわず語らず書きたかったのだろう。この文章は、私信として岡本から八島太郎のもとへとどけられたものだが、当然、途中で特高に開封されて検閲を受けることを意識した文面だ。
 

 1935年(昭和10)9月発行の、「文学評論」10月号に掲載された窪川鶴次郎の文章も、読む人が読めば腹芸のように真意が伝わるような、含みの多い文章となっている。
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 これがリアリズムの本道     窪川鶴次郎
 すぐれた理論的な高さ、鋭さ、正当さが、対象の把へ方、解釈の深さの中によく現はれてゐる。直感や色彩感の快さなどに甘んじてゐない。人物において著しいやうに、作者は対象のすべてに亘つてよく考へ、その意義を追究してゐる。恐らく美術においても、これがリアリズムの本道であろう。
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 さて、1935年(昭和10)の八島太郎は、1981年(昭和56)出版の宇佐美承『さよなら日本―絵本作家・八島太郎と光子の亡命―』(晶文社)によれば、妻・光子の実家である神戸で暮らしているはずだった。でも、1935年(昭和10)9月には、少なくとも上落合に居住していたことになる。これは、岩松夫妻が神戸から東京へともどり、上落合の借家に住んでいたということではなく、岩松淳(八島太郎)が個展の準備や開催に備え、それほど長期間ではなく“単身赴任”し東京の拠点として、また仕事場として利用していたのだろう。
 
 
 上落合1丁目510番地の借家は、上落合1丁目470番地の吉武東里邸Click!(同邸が建設されたころは上落合469番地)から、同1丁目472番地の野々村邸をはさんでさらに南側、二二六事件Click!で蹶起した青年将校のひとり、同1丁目512番地の竹嶌継夫中尉Click!の実家のごく近くだ。この区画には陸海軍の軍人が多く住み、おそらく一帯の地主は上落合1丁目528番地の加藤喜崇だと思われる。
 近所には、壺井譲治・壺井栄夫妻宅Click!(上落合2丁目549番地)や村山知義・村山籌子アトリエClick!(上落合1丁目186番地)、窪川鶴次郎・窪川稲子(佐多稲子)宅Click!(上戸塚4丁目593番地)、近所から「アカの家」と呼ばれていた上落合1丁目469番地の神近市子宅Click!、それに弾圧でつぶされたとはいえ全日本無産者芸術連盟=ナップ本部Click!(上落合1丁目460番地)が置かれていた地域だ。特高警察の眉が吊り上ったのは、想像に難くない。しかし、八島太郎は「個人主義的ブルジョア美術」の枠からはみ出ず、なかなかシッポを出さないので、特高は紀伊国屋書店の個展では再拘束できなかった。
 少し余談めくが、戦前・戦中を通じて上落合1丁目472番地の広大な野々村金吾邸の敷地内には、憲兵隊の駐屯所が置かれていて常に憲兵が出入りしていたことを、先日、同地域に古くからお住まいの方にうかがった。上落合地域には、「元」プロレタリア芸術家がそのまま数多く住んでいたので、監視と威嚇の目的で駐屯していたものだろう。
 八島太郎が滞在した東隣り、上落合1丁目511番地には陸軍の近衛歩兵第一連隊少佐の川上明が住み、また八島宅の道路を隔てた西隣り、上落合1丁目509番地には海軍の航空本部勤務の中佐・大西瀧治郎が住んでいた。大西瀧治郎は、太平洋戦争の末期には海軍中将のポジションにあり、生還の望みがゼロのもはや作戦とさえ呼べない「神風特別攻撃隊」を指揮した“産みの親”だ。敗戦間際で兵器さえ存在しないのに、「二千万人の男子を特攻隊にすれば必ず戦局挽回できる」との妄言は“有名”だ。1945年(昭和20)8月16日、渋谷の焼け残った臨時海軍官舎で「作戦」の責任をとって自決している。
 

 さて、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、上落合1丁目510番地には芹沢邸を除けば4軒の家が確認できる。この中の1軒が、1935年(昭和10)に八島太郎が東京の拠点にしていた借家なのだろう。同じ地番の芹沢邸だが、この人物については『落合町誌』(1932年)に記載がない。八島太郎は、なんらかのつながりや伝手を頼って同地番の家に滞在していたと思うのだが、そこまでの資料はいまだ発見できないでいる。

◆写真上:岩松淳(八島太郎)の拠点だった、旧・上落合1丁目510番地(左手)の現状。
◆写真中上:上左は、1935年(昭和10)9月に紀伊国屋書店の2階で開かれた岩松淳の個展図録。上右は、1934年(昭和9)12月制作の岩松淳『漫画家自像』。下は、同展に出品された作品目録。妻の新井光子も、作品2点を賛助出品している。
◆写真中下:上は、1935年(昭和10)4月制作の岩松淳『鋳物工像』(左)と『旋盤工像』(右)。下左は、同年7月の岩松淳『貧しき親子』。下右は、同年1月の岩松淳『煉鉄場』。
◆写真下:上左は、1930年(昭和5)に結婚した岩松淳と新井光子。上右は、個展の図録奥付。下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる上落合1丁目510番地。