第二府営住宅24号(下落合1524番地)に住む、1924年(大正13)当時は目白中学校Click!4年生だった松原公平Click!が『桂蔭』Click!に書いた、「好景気にホクホクものゝ活動常設館」こと、目白通りから少し入った長崎バス通り沿いの映画館「洛西館」Click!(長崎町4101番地)は、1935年(昭和10)すぎに「目白松竹」と館名を変更している。
 目白松竹は、1942年(昭和17)2月に実施された映画産業の戦時統制で、「白系」の映画館に分類されている。「白系」とは、東宝、松竹、大映、日映の主要映画会社4社と政府が出資し、同年に設立された映画配給社による上映館の分類系統だ。全国に2,000館を超える上映館を「紅系」と「白系」の2系統に分け、映画配給および上映の国家統制を徹底させたものだ。「白系」の第1回配給は、松竹の小津安二郎Click!監督による『父ありき』であり、目白松竹でも封切り上映され近くにお住いの方は観ているだろう。ちなみに、「紅系」の第1回配給作品は、東宝の島津保次郎監督による『緑の大地』だった。
 さて、先日ある方から1942年(昭和17)12月27日に発行された、目白松竹の上映パンフレットをお譲りいただいた。「目白松竹にゆうす」第31号と題されたパンフレットは、粗末なわら半紙状の紙に刷られており、すでに物資の統制が浸透して娯楽の分野へはロクな用紙が配給されていなかったのがわかる。この当時、目白松竹(旧・洛西館)の所在地表記は、豊島区椎名町4丁目4101番地になっていた。貴重な配給紙を使って印刷されたパンフレットには、正月上映の新春映画特別興業が予告されており、目白松竹は1943年(昭和18)1月3日から新年開館する予定になっている。
 
 
 このパンフレットが発行された時期、つまり1942年(昭和17)の暮れに上映されていたのは、松竹の「文藝大作」で吉村公三郎監督による『続・南の風』(原作・獅子文六Click!)であり、佐分利信Click!や笠智衆Click!、高峰三枝子、水戸光子などが出演している。同作を観た方が、「全体として良くない。」という手書きのメモが残るパンフなのだが、掲載された梗概を読むと「西郷隆盛が開祖である仏印の新興宗教に、砂金の河と隆盛のご落胤来日の悪夢」……と、わたしも悪夢でアタマが痛くなりそうな筋立ての作品だったようだ。おそらく、『続・南の風』は12月31日大晦日までの上映だったのだろう。
 さて、新春1月3日から7日までは、嵐寛寿郎Click!主演による『横浜に現れた鞍馬天狗』であり、「夜霧に濡れた異人町」を背景に「妙神剣」を振るうのは、横浜在住の外国人を含めた悪漢たちなのだが、ここに登場している外国人たち(つまり外国人役の俳優たち)はもちろん敵国人たる欧米人ではなく、みなロシア人だったらしいのが名前からうかがい知れる。つづく1月8日から13日までは、大映の木村恵吾監督による『歌ふ狸御殿』で、高山廣子や宮城千賀子、雲井八重子、草笛美子などが出演している。「美しき夢が空想が浪漫の旋律にのつて花ひらく金色の物語! 大東亜十億の民族に敢て贈る唄と踊りの万華鏡! これぞ大映が放つ映画新体制初の健全娯楽映画! 万人待望裡に今や撮影最高潮!」と、「!」マークだらけのコピーが挿入されている。「狸御殿」と「大東亜十億の民族」がどこでどう関連するのか、まったく意味不明なのだが、少しでも軍部に戦争協力の姿勢を見せておいたほうが、なにかと上映に有利で便利だったのだろう。

 
 娯楽施設である目白松竹も、常に当局からの冷ややかな眼差しにさらされていたものか、営業にあたっては4つのスローガンをかかげている。すなわち、「一、年末年始の犯罪防止/一、銃後の守は火の用心と犯罪を防げ/一、さあ二年目も勝ち抜くぞ/一、親切と感謝で大東亜建設の使命を完ういたしませう」の4箇条だ。これにより、戦時という「非常時」でも閉館に追いこまれず、少しでも長く営業をつづけて生き残れれば……と考えていたにちがいない。でも、同館はなんとか建物疎開Click!からはがまぬがれたようなのだが、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲で炎上するまで、あと2年と5ヶ月の時間しか残されていなかった。
 さて、上映のつづきを見てみよう。1943年(昭和18)1月14日からは、東宝の萩原遼監督による『おもかげの街』が予定されており、長谷川一夫や入江たか子Click!が出演していた。「目白松竹にゆうす」は、上映中作品についての解説と同時に、3週間先までの上映予定を告知する役割りを果たしていたようだが、これはもちろん戦時による異例のパンフレットづくりだったのだろう。本来なら、各作品ごとに作品シーンのスチールが入った詳しいパンフがつくられていたはずであり、紙ももっと上質なものが使われていたのだろう。それが、B5判ふたつ折り(B6判4ページ)の粗末なものに変わったのは、物資統制が本格化しはじめた1940年(昭和15)ごろからだろうか。
 
 

 「目白松竹にゆうす」の奥付によれば、開館は平日なら午後1時から、日曜祭日は午前10時から上映していたようで、午後7時30分をすぎると入館料の割引きがあった。どことなく、銭湯の営業形態にも似ているが、午後7時30分からの割引きは映画の途中入場になるからだろう。目白松竹の電話番号は落合長崎局の2693番、上映中の館内は禁煙で、タバコを吸う場合は専用の喫煙室が設けられていた。

◆写真上:「目白松竹にゆうす」第31号の表紙はアラカンの『横浜に現れた鞍馬天狗』(松竹)で、1943年(昭和18)1月3日(日)から1月7日(木)まで上映された。
◆写真中上:上左は、目白松竹館(洛西館)跡の現状。上右は、1925年(大正14)4月発行の「出前地図」Click!にみる洛西館。下は、1935年(昭和10)の「落合町市街図」にみる洛西館(左)と、1941年(昭和16)の同図にみる目白松竹館(右)。
◆写真中下:上は、「目白松竹にゆうす」第31号発行時の1942年(昭和17)暮れに上映中だった『続・南の風』(松竹)。下左は、1945年(昭和20)4月2日にB29偵察機から撮影された目白松竹館。下右は、1947年(昭和22)7月撮影の屋根が焼け落ちた同館。
◆写真下:上左は、1943年(昭和18)1月8日(金)から1月13日(水)まで上映された『歌ふ狸御殿』(大映)。上右は、同年1月14日(木)から公開された『おもかげの街』(東宝)。中左は、「目白松竹にゆうす」第31号の奥付。中右は、奥付にある「日本ニュース」133号のタイトルバック。同ニュースはNHKアーカイブClick!で公開されており、133号は陸軍士官学校の卒業式Click!などが報じられている。下は、「目白松竹にゆうす」第31号に掲載された広告類。近くにお住まいだった方は、店名に見憶えがあるかもしれない。