中野重治Click!は、原泉Click!と結婚して上落合48番地、さらには上落合481番地へと転居してくる以前、独身時代に雑司ヶ谷の鬼子母神Click!(きしもじん)近くへ下宿していた時期があった。もちろん、中野は特高警察Click!に追われる左翼活動中で下宿も変名で借りていたのだが、彼の言葉によれば「見ず知らずの人間を見ず知らずのままそっとしておいてくれる」、非常に自由な風の吹く居心地のいい下宿だったようだ。
 以前にも、松本竣介夫妻Click!が編纂していた『雑記帳』の記事で、古澤元の「因業大家」Click!をご紹介したが、借家を建てて部屋を賃貸している不在地主ではなく、もともと地元の住民が下宿屋をやっているケースは、おしなべて気のきいた親切な下宿が多かったようだ。先の記事では、目白や上高田にあった下宿の親切な大家が紹介されていたが、中野重治もそんな親切で気のきいた下宿にめぐりあったようだ。
 雑司ヶ谷鬼子母神近くの下宿は、主人が植木屋を商売にしているようだったが、家を切り盛りして実質「家長」の役をはたしているのは主人ではなく、またその連れ合いであるおかみさんでもなく、19歳とも25、6歳とも見える小柄で利発な長女だった。彼女は、中野重治が訪ねて間借りの依頼と賃料8円への値下げ交渉をすると、その場は「母親に聞いてみます」といって即答を避けたが、翌日、賃料は8円50銭のまま負けることはできないが、いますぐにでも引っ越してきてかまわないと答えた。
 これは、のちの状況から長女が即答を避けるために、母親を理由にして彼女自身がひと晩じっくり考えた結果ではないかと思われる。そのときの状況を、1977年(昭和52)に筑摩書房から出版された、『中野重治全集』第26巻から引用してみよう。
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 植木屋か何かで、おやじさんにおふくろに子供が四、五人の家族だった。おやじさんとはろくに顔を合わせず、たとえばあるときおやじさんに部屋代を出すと、おやじさんは自分でそれを受けとらずに娘に渡してくれという具合であり、――部屋を見に行ったとき出てきた女の人が姉むすめだった。――おふくろは病気で寝ていて多分一ぺんも顔を合わせず、十七、八の男の子が二人いてこれは屋根屋か何かをやり、その下に九つくらいの女の子と足の悪い男の子とがいた。家のことはいっさい銭勘定の問題から子供たち衣食のことまで残らずこの姉むすめがやっていた。そしてこの姉むすめという人が全く珍しい人だった。 (「鬼子母神そばの家の人」より)
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 中野はその場で、長女のいうとおり8円50銭をすぐに支払い、周旋屋に引っ越し荷物を運ばせるが、自分は用事があってこれから4~5日帰省するのでここには帰らないといった。もちろん、中野は地下活動のために4~5日間、地方まわりをする予定なのだが、長女はそれを聞いても「眼をまんまるく」するだけで、特に深くは訊ねなかった。
 
 雑司ヶ谷の前、中野は本郷区の追分に部屋を借りていたが、彼の留守中に引っ越し屋が机や家具を勝手に運んできたようだ。娘は、それを受けとると中野の部屋へきっちり収納し、彼の帰りを待っていた。ところが、中野は4~5日で帰るはずが、都合で10日以上も空けてしまい、雑司ヶ谷へ帰ったのはかなりあとのことだった。しかし、中野は気が引けつつ「ただいま帰りました」と玄関に立つと、娘は「どうなすったのかと思っていたのですよ」と答えたきりで、遅れた理由など詳しいことはいっさい訊かなかった。
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 (娘は)じつに麗朗とした顔をしていて、どんなことがあっても泣き顔も見せなければ笑いころげるということもなかった。生れて一ぺんも病気をしたことがないような小柄な健康なからだで、髪をいつもひっつめ(?)に結い(その上に時おり手ぬぐいをかぶっていた)、木綿の紺がすりか何かに前垂がけでせっせと働いていた。/その一家では、この顔のはればれとした姉むすめが事実上の家長だった。家全体がこの姉むすめをたよりにしており、この娘さんは親兄弟の側から出る一種崇敬の念ともいうべきものに包まれていた。一番下の子でも、ねえさんというかわりに友達か何かのように何とかちゃんといって名で呼ぶのだが、それがその愛情のある崇敬の念をよく表していた。
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 この娘は、おそらく下宿人がなにを「仕事」にしているのか、薄々気がついていたのだろう。ときに、中野の変名を書いた「〇〇様気付中野様」という手紙がとどくので、下宿人の本名が「中野」であることにも気づいていたのかもしれない。でも、この娘はなにも訊かずに「気付中野様」あての手紙を彼にわたしていた。
 
 また、中野の友人が彼の留守中に「中野という男はいますか?」といって、下宿を訪ねてきた。ところが、「中野」という名前には頻繁にとどく郵便物などから、確かに心あたりがあるにもかかわらず、娘は「いません」といってけんもほろろに断っている。また、そのような訪問者があったことさえ、中野には伝えずにそのまま黙っていた。
 訪問者のことを伝えれば、彼がなんらかの弁解や説明をしなければならなくなるのを(つまり、娘に対してなんらかのウソをつかなければならないのを)、よくわきまえて知っていたからであり、そのことから娘と彼との間に“しこり”のようなものが残るのを、そして中野が家に居づらくなるのを見とおしていたからだろう。家全体を切り盛りしていた姉娘は、非常に頭のよい女性だったと思われる。
 自分がひとたび、その人物の性格や気性、姿勢、品位などを見きわめ、信用して間借りや下宿を許した相手、つまり家の敷居をまたがせた人間に対しては、たとえそれがどんな仕事をしている人物であろうが、とことん庇護して面倒をみるという、江戸東京で暮らす女性の意気地を体現しているような、鮮やかな娘が雑司ヶ谷の鬼子母神近くにもいた。
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 そのころ僕は何とかいう名まえだった。ところが何か出版物があってそれのゲラ刷がその何とか様気付中野様あてでひとしきり速達でやって来た。それについてしかし家の人はいっさい触れなかった。/ある日、僕の留守に誰か友人が「中野という男がいますか。」といって訪ねてきた。するとその女の人が、「そういう人は私のところにはおりません。」といって突っ放した。その男はしまったと思ったが、おかげで「そうですか……」とうまく引きさがることができた。その男はそのときの突っ放し方のうまさをひどく感心しながら私に話した。そしてそこの家の人はそういう訪問者のあったことさえ僕には知らせなかった。
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 中野重治は、この娘の心づかいを「稀に得られる種類の親切」という表現で書きとめた。あるいは、「親切」という言葉では表せないとも記している。中野はこのあと、特高に何度も逮捕されるのだが、拘留中に拷問を繰り返しうけながら「僕にひらいて見せた優秀なその庶民の魂にたいして深い感謝の思い」を送りつづけている。

◆写真上:中野重治の詩が、もっとも尖がっていたころの『雨の降る品川駅』の品川駅。
◆写真中上:雑司ヶ谷の小さな谷戸(左)と、戦災から焼け残った西洋館(右)。
◆写真中下:雑司ヶ谷鬼子母神の参道(左)と本堂(右)。
◆写真下:左は、1930年(昭和5)に滝野川の自宅で撮影された中野重治と中野政野(原泉子)。右は、1961年(昭和36)に撮影された中野重治と松本清張(右)。