落合地域とその周辺、戸塚町(現・高田馬場/早稲田界隈)や高田町(現・目白/雑司ヶ谷界隈)では、35区制の大東京時代Click!を迎える直前、各地で町誌(町史:それ以前には村誌)が制作されている。これまで、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!をはじめ、1919年(大正8)の古い『高田村誌』Click!、1933年(昭和8)の『高田町史』Click!、1931年(昭和6)の『戸塚町誌』Click!、そして中野区の上高田Click!側の資料類をご紹介してきた。目白通りをはさんで隣接し、落合地域との関係が深い地域として残るのは、1929年(昭和4)に出版された長崎地域の町誌のみとなっていた。
 『長崎町誌』は、もともと発行部数が少なかったものか古書店ではほとんど見かけない。『戸塚町誌』も稀少本のようであまり見かけず、またとても高価で手がとどかなかったのだが、先年、一時期の半値以下になっていたので入手することができた。でも『長崎町誌』は、そもそも古書市場には存在しないほど数が少ないようだ。そこで、同書が保存されている新宿歴史博物館Click!の資料室へ出かけ、同書の全ページをコピーさせていただくことにした。
 同館の『長崎町誌』は保存状態もよく、手持ちの『落合町誌』と比べても傷みが少ない。それで安心してコピーさせていただいたのだが、中身を読みはじめたとたんに大きな違和感を感じた。このような町誌の場合、巻頭のグラビア写真は街の名所や旧跡、古地図、古文書、昔の風景図、ときに街に住んだ史的“有名人”たちの肖像などではじまるのが常で、『落合町誌』や『高田村誌』、『高田町史』、『戸塚町誌』のいずれもが、そのような構成になっている。
 ところが、『長崎町誌』は荒木十畝の軸画のあと長崎町役場の写真と、いきなり当時の町長の大きな肖像写真からはじまっている。イヤな予感がしつつページをめくっていくと、町役場の役員、町会議員、郵便局長、小学校長、国粋会代表、はては「本町名士」の日本橋区議会議員と霊岸小学校長(まったくの場ちがいだ)と、ひとりで1ページ見開き、あるいは数人で1ページ見開きを占有し、“肖像写真大会”が繰り広げられていく。そして、おまけに著者・壚田忠敬のポートレートまでが、ちゃっかり巻頭のグラビアを大きくかざっているのだ。
 かんじんの、昭和初期の街の様子や風情、名所・旧跡・記念物を撮影した当時の写真が、巻頭グラビアにただの1枚も存在しない。すべて長崎町の役人や議員、“顔役”、職員、先生、よその地域の「名士」たちの広報宣伝パンフレットと化していて、周辺の落合や高田、戸塚、上高田(野方)各地域の町誌史や資料を読んできたわたしには、異様な感じをおぼえると同時に、心底ガッカリしてしまった。

 
 イヤな予感はそのあとも的中し、「長崎町名士録」ではグラビアをかざった人物たちが重複して登場し、再び顔面を拡大した写真入りで美辞麗句とともに、ひとりひとりの詳細が紹介されている。おまけに、巻末には「長崎町職員録」までが掲載され長崎町役場の全職員が15ページにわたって収録されていた。これでは『長崎町誌』ではなく、「長崎町全役職員・議員・顔役名簿」とでもしたほうが適切ではないだろうか。こういう町誌の“私物化”を、なんと表現したらいいのだろう? 「出たがり自己顕示欲充足私誌」、あるいは「町誌」と銘打っているにもかかわらず、街をあまり紹介しない「役人&議員&地域ボス記録誌」とでもいうべきなのだろうか?
 さて、お寒い中身を読んでいくと、長崎地域の一般的な歴史から記述されるのは、周辺の他の町誌史と同じなのだが、名所・旧跡・記念物が長崎神社Click!と金剛院Click!、長崎富士Click!のたったの3ヶ所しか収録されていないのはどういうことだろう? あまたの寺社や旧跡は、どこへ消えてしまったのだろうか? このような町誌史が貴重なのは、当時まで受け継がれた街の多彩な伝説・伝承、フォークロアなどの物語、あるいは消えてしまった旧跡や地名が詳細に収録されている点なのだが、『長崎町誌』は他の町誌史に比べそのボリュームも相対的に少ない。
 おそらく、長崎町の役人や議員、「名士」たちの紹介にページをあまた費やしすぎて、かんじんの街の様子を細かく収録するのに必要なページ数が、まったく足りなくなってしまったのではないだろうか。

 
 また、長崎地域で暮らしていた一般的な町民の姿や企業などの事業者も、「名士」紹介に隠れてあまり目立たずに影が薄く、当時の街の風情や暮らしの実態がなかなか透けて見えてこない。目立って詠われているのは、「名士」たちの功労と町役場、町議会、その他“顔役”たちの「業績」であって、あまり人々の生活が見えてこないのだ。あえて書いてしまうが、『長崎町誌』はその周辺域の町誌史の中で、もっとも街や住民に関する記述が貧弱で、あまりにレベルが低すぎる。これでは、江戸期の「町方(村方)書上」Click!のほうが、地域の暮らしや住民の様子をもう少し詳しく収録している。
 本文に収録された街の写真も「椎名町通り」、「長崎神社」、「金剛院」、「椎名町郵便局」、「尋常高等小学校」、「第二尋常小学校」、「長崎青年団」のたった7点にすぎない。巻末の「長崎町名士録」に掲載された「安達牧場」Click!の事業所写真を加えても、わずか8点だ。これは、周辺の町誌史に掲載されている街風景の写真点数に比べると、3分の1から5分の1という少なさだ。どうして、こんな編集や構成になってしまったものか、たいへん残念な内容になっている。
 1929年(昭和4)の『長崎町誌』は、周辺域で発行された町誌史に比べて、もっとも早い時期に出版されている。(ただし『高田村誌』を除く) したがって、「町誌」というものが街の全体像を紹介する「地誌本」ないしは「風土記」的な存在である……というような定義がいまだ明確化しておらず、単なる町役場や町議会、「名士」たちが寄ってたかって自己PR+選挙等を意識した宣伝パンフレットを作ればいいのだ……と誤解して、制作されたのではないかとも考えた。しかし、当時は東京の市街地でも町誌史はあまた作られており、それらの中には『戸塚町誌』や『高田町史(村誌)』、『落合町誌』と同様の編集方針のもと、できるだけ街の全貌や町民の暮らしを紹介しようとする意図の作品も多くみられる。だから、よけいに『長崎町誌』の編集方針や構成が異様で奇異に見えるのだ。
 
 『長崎町誌』が、他の町誌史に比べ古書店で見かける機会が少ないのが、なんとなくわかったような気がした。つまり今日まで保存され、ていねいに読み継がれるほど内容が「濃く」ないのだ。ひょっとすると「まるっきし役人や顔役の宣伝誌じゃねえか」と、長崎の地元でも手にする人たちが少なかったのではないだろうか? 戦前戦後を通じた長い時間経過の中で、内容の質的な課題とともに、周辺の町誌史に比べ“自然淘汰”されていってしまった可能性があるようにも感じるのだ。

◆写真上:『長崎町誌』の表紙と、目次前の「長崎町歌」。町歌が記された町誌史も初めてだが、町歌や短歌にページを裂くなら街の様子をもっと記録してほしいのだ。
◆写真中上:上は、掲載された希少な街の写真「椎名町通り」。1929年(昭和4)現在、椎名町通りには交番が1ヶ所(大正期は2ヶ所)に絞られるので、この情景は左手の大和田駐在所(長崎町大和田2037番地)前から椎名町駅方面を眺めた風景だと思われる。※その後の調査で、長崎町大和田の長崎バス通りから眺めた、椎名町派出所のある目白通りClick!であることが判明している。 下左は、『長崎町誌』と同年に開局した椎名町郵便局。下右は、富士浅間社の通称「長崎富士」。
◆写真中下:上は、本文では唯一掲載の事業所「安達牧場」。下は、安達牧場跡の現状。
◆写真下:長崎町西向2883番地にあった長崎町役場(左)と、同町役場跡の現状(右)。長崎町役場の背後に見えている大きな建物は、長崎尋常高等小学校の校舎。