1920年(大正9)10月に岡田虎二郎Click!が死去したあと、娘の岡田禮子邸Click!となっていた下落合1丁目404番地(現・下落合2丁目)の敷地に、安井曾太郎Click!が自邸+アトリエClick!を建てたのは1934年(昭和9)ごろのことだ。東を藤田邸Click!、南を酒井邸Click!にはさまれた近衛町の一画で、林泉園からつづく深い谷戸に面した敷地だった。このアトリエ建設は、ちょうど上鷺宮の三岸アトリエClick!の建設とほぼ同時期に進行している。
※岡田虎二郎は生前、下落合356番地に住んでいたことがわかり、近衛町の下落合404番地は彼の死後、大正末に家族が転居した住所であることが判明Click!した。
 建築家の山口蚊象(のち山口文象と改名)は、アトリエを設計するにあたって安井曾太郎から5つの条件を提示されている。すなわち、①建物の構造は可及的堅実に、②北側から採光し西陽は絶対に避けること、③夏は涼しく冬は温かくすること、④制作に際して光は右から採ること(制作者は西側の壁に向かう)、⑤天井は13尺(約4m)以上はほしい……の5条件だ。でも、この中で④の西壁に向かう制作態勢のテーマは当初の予定とは異なり、アトリエ内で仕事をする安井曾太郎は、残されている写真類を検証する限り、いつも反対の東側を向いて制作している。つまり、採光(北窓)が常に左手にくるようにイーゼルを据え、画家は東の壁面(出入口側)に向かって仕事をしているのだ。
 また、上記の5条件をクリアしたうえで、建築家ならではの個性的な設計デザイン、つまりシャレた意匠や当時流行していた建物内外の装飾、室内における用途のない無駄な“遊び”の空間はすべて禁止という、当時の画家としてはあまり例を見ない注文を出していた。そのときの様子を、1935年(昭和10)発行の『新建築』第2号に掲載された、当の設計者である山口蚊象の証言から引用してみよう。
  ▼
 それに建築家のお道楽、意識的な洒落と気取りを謹しみ純粋な工房として造られたしと云ふ、甚だ痛ひところを一本刺されてゐる。第一(①)は敷地が斜面になつてゐるので鉄筋コンクリートの土台を作り、筋違ひ其他を十分に用ひ第二(②)の問題は何処でも今日までやかましく云はれて来た程には、巧く解決されて居なかつた。と云つて私の試みがそれ程革命的な立派なものではない、只平面図の様に窓の両側へ夏の朝と入陽をさえぎる壁を突き出したに過ぎない。また天光は測光と同じく一重窓では投射が強過ぎるおそれがあるので、断面図の如く二重ガラスとし、両側の面を反射面にする。こうする事に依つて天光と測光との光度を平均し、内部を軟かい光で包む事に成功した。それに今までの天光の方法では夏、陽の高くなつた時などガラス面へ直射するので、カーテン等で光度を調節しなければならないし、雨漏りの心配もあるが、此設計ではその事も考慮に入れてある。(カッコ内引用者註)
  ▲

 
 中村彝Click!が住んだアトリエClick!前の、林泉園からつづく谷戸地形の谷間は、今日では地下鉄・丸ノ内線の工事で出た土砂でかなり埋め立てられ、その深さはだいぶ浅くなっているけれど、当時は敷地の西側がほとんど断崖のような急傾斜地であり、安井邸の建設予定地も盛り土はなされただろうが、西側に向かって少なからず傾斜していたと思われる。谷間の急峻さは、安井邸の南隣りにお住いの酒井様からお借りした邸内の記念写真からも、またモデルになった大内兵衛の証言からもうかがい知ることができる。
 安井アトリエは、北側の採光窓の形状がめずらしくて面白い。決して直射日光が入らないよう、天窓には深い庇を、また壁面の窓には左右に壁を張りださせて、まるで窓全体をガードするような造りになっている。天窓は、直接天井に穿つのではなく、まるで出窓のように北側へ斜めに突きだした形状をしている。そのため、ガラス面へ陽光が直射することがなく、また安定した光線を室内に投射できるように工夫されている。これに似た仕様のアトリエは、下落合では他に林芙美子記念館にある手塚禄敏アトリエClick!に見ることができる。そう、林芙美子・手塚禄敏邸もまた山口蚊象(山口文象)の設計だ。
 安井曾太郎がことさら西陽を嫌ったのは、おそらくキャンバスに描いている絵の具の色が、オレンジ色の夕陽が混じると変色して見えてしまうからで、常に正確な色彩を目にして仕事をしたい画家にとっては切実な問題だったのだろう。中村彝が、採光窓の西側に納戸を3尺(1m)ほど張りださせたのも、西陽の射しこみが気になっていたのかもしれない。山口蚊象の証言を、引きつづき同誌から引用してみよう。
  ▼
 第三(③)の条件を満足させるには窓を南に採らなければならないが、普通の窓では折角の一方光線の効果が失はれてしまふし、カーテンを降るす(ママ)にしても風にあふられる事も考へなければならない。そこで光りを嫌つて風だけを入れる工夫をして見た。これに依ると冬期は只の板壁であり、夏は大きな風窓になる、云つて見れば開閉自由な大きいガラリ窓である。第四(④)は平面図を見ても判る様に押入、出入口、テーブルその他、目をさへぎるもの凡てを東側へ備へ、西側を大きいブランクな壁にした。第五(⑤)の条件に概当(ママ)させるためには桁行にトラスを用ひ其の他の工夫をした。壁と天井は白、建具や木部はペンキ塗りでグレーである。(カッコ内引用者註)
  ▲



 当時の建築家は、冬と夏をどう過ごしやすくするかが大きなテーマであり、特にそこが1日のうちで大半をすごす建築主の仕事場ともなれば、創造性や生産性を落とさないための効率的な仕組みづくりが求められただろう。安井曾太郎が西向きで制作するとの条件をつけたため(ここにも安井の夕陽嫌いを想定することができる)、山口は西側を画家の気が散らないよう「ブランクな壁」にし、目につきやすい家具調度類や出入口はすべて東側へ集めたにもかかわらず、安井はかえって落ち着かなかったものか、あるいは西陽の心配がまったく不要な設計に満足したものか、よく東側を向いて制作している。
 画室のカラーリングはシンプルで、ホワイトとグレーのモノトーン2色しか使われていない。これも余計な色彩で気を散らせたくない、画家のオーダーだったのだろう。このアトリエの注文内容から推察すると、安井曾太郎はよくいえば質実かつ堅実でマジメな性格のように思えるが、かなり神経質で周囲の環境や音などにもうるさい人物像を想像してしまう。採光窓が真北を向いてなくてもほとんど気にせず、かなり大雑把で「ズボ」というあだ名をつけられていた10歳ほど年下の佐伯祐三Click!とは、およそ正反対の性格だったのではないだろうか。
 安井アトリエは、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!でも、また5月25日夜半の第2次山手空襲Click!でも焼け残り、東隣りの藤田邸とともに戦後を迎えた。邸周辺の濃い緑が、周囲からの延焼をくい止めたと思われるのだが、南隣りの酒井邸は残念ながら全焼し、下落合を写した貴重なアルバム類が多数失われている。
 

 
 安井曾太郎は、昭和10年代から戦後に死去するまで、このアトリエでさまざまな人物像や静物画を制作しているが、他の画家たちのように絵道具を携えて、アトリエの周辺をスケッチしてまわることはしなかったようだ。安井の作品に、落合に住む人物を描いた絵は観るが、落合の風景を描いたとみられる画面を、わたしはまだ一度も観たことがない。

◆写真上:安井曾太郎アトリエの、北側の採光窓と東側の収納のある壁面。
◆写真中上:上は、安井曾太郎邸のエントランスと玄関。現在は、この右手に近衛篤麿の記念碑が建立されている。下左は、北側から眺めた安井曾太郎アトリエの全体像。下右は、アトリエ北側の採光窓と北東隅に設置された出入口。
◆写真中下:上は、安井アトリエの側面図と平面図。中は、アトリエの採光窓と白一色に塗られた西壁。下は、アトリエの南壁に設置された射光を遮断できる通風窓。
◆写真下:上左は、南壁に穿たれた通風窓の構造。上右は、安井邸跡の現状。中は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる安井邸。下左は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる安井邸。下右は、1945年(昭和20)4月2日撮影のB29偵察写真にみる安井邸。