1992年(平成4)に求龍堂から出版された匠秀夫『三岸好太郎―昭和洋画史への序章―』Click!には、西洋館が建ち並び居留地の街並みが残る、エキゾチックな風情だった築地の友人宅で、裸婦像の制作をめぐる三岸好太郎Click!の次のようなエピソードがある。
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 三岸は築地に住んだ桑山と交友を深めており、前出節子夫人宛書簡にも記されているように、大正一二年春頃には、桑山宅に泊り込んで盛んに築地界隈を描いた。桑山書簡によれば、時には桑山がモデル代を出して、下谷の宮崎(註、モデル斡旋屋)からモデルを雇い、光線の具合のあまりよくない桑山宅の二階で三岸と岡田七蔵と三人で裸婦を描いたこともあり、また久米正雄の紹介状を貰って、当時鳴らした帝劇女優森律子の築地の家を訪ねて、律子の河岸沿いの家を描いた画を売ろうとして断られたこともあったという。
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 この中に登場する「宮崎」が、きょうから2回にわたり連載する記事のテーマだ。明治期から大正にかけ、画家たちは気に入ったモデルを探すのに四苦八苦していた。そもそも、人前で1日じゅう動かずに同じポーズをつづけたり、衣服を脱いでヌードになったりすることなど考えられない時代だ。東京美術学校でも、モデル探しは切実な課題だった。
 明治期、モデルになってくれる女性は画家たちの間でも引っぱりだこであり、東京美術学校でもモデル不足は、実技の授業を行ううえで深刻な支障をきたしていた。画学生たちは街中へ散り、足を棒のようにして1日じゅうスカウトを繰り返し描きたいモデルを探しまわるのだが、当然、引き受けてくれる女性などほとんどいなかった。今日でさえ、街中で「モデルをやりませんか?」などと声をかけられたら、まずは「ナンパかサギか?」と怪しまれるのが普通であり、ましてや明治期の東京では「人買いか拐(かどわ)かし?」のように思われただろう。美校のモデルだと説明しても、いかがわしく得体のしれない職業の筆頭のように思われ、スカウトに応じる女性はほとんど皆無だった。
 以前、こちらでも彫刻家の荻原守衛Click!をはじめ、日本画家の松岡映丘や竹内栖鳳のモデルをつとめた岡田みどりClick!についてご紹介している。東京美術学校に出入りしていた、岡田みどりより世代が少し上のモデルたちには、宮崎菊や飯田ハル、滝口フミなどがいる。また、少し遅れて東京美術学校に通ったモデルには、おシマやおタカ、おカネ、おタイと名前や愛称で呼ばれる女性たちがいた。当時のモデルたちは、なかなか本名では仕事をせず仮名や愛称で呼ばれている。今日とは異なり、画家や画学生とはいえ人前で裸になる職業は、まるで売春婦と同様に見られていた時代だ。のちに登場するモデル紹介所の監督を、吉原Click!と同様に警察の風紀係や風俗営業係が担当していたことでも、当時の美術モデルに対する世の中の眼差しをうかがい知ることができる。
 当時、来日していたフランス人は銭湯や長屋での行水、あるいは川遊びなどで異性の目をほとんど気にせず、平然と裸になって楽しんでいる日本女性が、なぜ美術モデルというと急に羞恥心をあらわにし、まるで身を持ち崩したような職業としてとらえるのか、まったく理解できない……と記している。明治期に活躍した黒田清輝Click!は、これらの偏見と真っ向から対決Click!するのが東京美術学校における仕事のようなものだった。洋画壇の権威であり、表現においては保守的なボスといわれたメエトル黒田が、実は世間における当時の常識や偏見をことごとく否定・破壊していく「革新者」であり、「革命的」な画家だったという側面へスポットをあてた好著に、1986年(昭和61)に日本経済新聞社から出版された勅使河原純『裸体画の黎明-黒田清輝と明治のヌード-』がある。裸体画は、明治期の美術界においては官憲と正面から対峙する、一種の“踏み絵”でもあった。
 

 上記の美校モデルのおシマとおタカは、本名を新島シマと新島タカといい、ふたりは姉妹だった。姉の新島シマは、12歳のころから美校でモデルをやっていたといわれ、肌がとても美しかったらしい。ストーブで温められると肌の血色がバラ色になり、印象派の表現をめざす画家たちには格好のモデルだった。中村彝Click!は、下落合のアトリエへ新島シマClick!を好んで呼び寄せ、多くの作品を残している。また、おカネの本名は兼代といったが、親の職業から「納豆屋おカネ」とも呼ばれ、竹久夢二Click!の専属モデルとなり、やがては愛人となって「お葉」と呼ばれるようになる。
 さて、東京美術学校でモデルをつとめた第1世代の女性たちの中に、ことさらビジネス感覚に優れた人物がいた。幕末から、浮世絵などのモデルもつとめていた宮崎菊だ。彼女は、東京美術学校で絶対的に不足しているモデルを養成し、美校や画家たちのニーズに応じて派遣するモデル紹介業のビジネスを思いつく。ちなみに、フランスをはじめヨーロッパ諸国における美術学校や画家のモデルは、希望者に対して学校や画家が個々にオーディションを行ない、それぞれ個別に決定して雇用するかたちだが、この方式はついに日本では根づかなかった。学校や画家とモデルとの間には、仲介業者(モデル事務所)が介在して派遣する形式が現在までつづいている。
 それは、モデルを雇用する学校・画家側から見れば、苦労をしてモデルを探し歩く手間を省く効率的なシステムなのだが、先の日本における社会的な偏見や「卑賤」な職業観とも無関係ではないだろう。宮崎菊は、東京美術学校に新設された西洋画科の黒田清輝との邂逅を通じて、モデルの必要性と洋画・日本画を問わずマーケットの大きな可能性に気づいていく。以降、黒田清輝ひいては東京美術学校と宮崎菊の“二人三脚”ともいうべき、「美術標本(モデル)」をめぐる協力体制が築かれていくことになる。
 東京美術学校に西洋画科が設置された1896年(明治29)、宮崎菊は東京の街中へ出てモデルに向きそうな女性に声をかけ、やはりスカウトするところからビジネスをはじめている。美校の男子学生による勧誘とは異なり、モデル経験もある宮崎菊のアプローチには説得力があったのだろう。彼女のもとには、少しずつモデル志望者が集まりだしている。当初は、谷中2丁目の掛茶屋を営業拠点にしていたが、モデルの人数が増えてくると、下谷区谷中坂町の丘上、領玄寺にある近宝庵の斜向いに事務所を開設した。
 
 そして、事業が軌道に乗り東京美術学校をはじめ、白馬会や太平洋画会、各画家たちからモデルの依頼が多くなると、手狭になった近宝庵向かいの事務所から、20mほど北側にある行き止まりの路地を入った突き当たり、領玄寺の参道沿い西側の谷中坂町95番地(のち台東区谷中4丁目4152番地)に、オーディション部屋を備えた本格的なモデル事務所を新築している。その様子を、前述の勅使河原純『裸体画の黎明』から引用してみよう。
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 お菊が晩年まで過ごしたその「宮崎モデル紹介所」の家は、最初からモデルの選定場として設計された、狭いながら瓦屋根のしっかりした建物である。はじめの頃は、日曜日の午前中に主に研究所と一般作家向けのモデル選定会(作家の間ではモデル市といいならわされていた)がここで開かれ、月曜日の朝には美術学校用の選定会が開かれた。美術学校の方はじきに美校内の建物に会場を移したが、日曜日の「市」はその後断続的に昭和十六、七年頃まで続けられていたようだ。
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 東京市電の走る不忍通りから、谷中坂町95番地の宮崎モデル紹介所へと通う三浦坂のことを、いつしか「モデル坂」といい慣わすようになったのは、画家たちがそう呼んでいたせいもあるが、モデルの若い女性たちがゾロゾロと寺々の墓地に沿った坂道を上っていくのを見ていた、近隣の住民たちの通称でもあったのだろう。
 以前、佐伯祐三Click!の『下落合風景』Click!に関連し、東京美術学校門前にある沸雲堂Click!の浅尾丁策Click!と、彼の著作である『谷中人物叢話・金四郎三代記』(芸術新聞社)をご紹介した。浅尾丁策の手もとには、大正期から昭和初期にかけて記された宮崎モデル紹介所の古簿冊が残されている。下谷谷中警察署の検閲角印が押された同簿には、モデルを雇用した高名な画家や彫刻家たち、美術学校、美術研究所の名前と住所、日付などが列記され、美術標本(モデル)料と用途が記入されている。また、宮崎モデル紹介所へ新規に登録したモデルたちの名前や住所、学歴、経歴なども記録されている。
 
 下落合の中村彝は、病状が進み谷中坂町の選定場へ出かけられなくなると、宮崎モデル紹介所からアトリエへモデルをまとめて派遣してもらい、その中から好みのモデルを選んでは制作していた。のちに上落合に住んだ辻潤Click!の妻になる小島キヨClick!も、そのうちのひとりだった。また、上落合に住んだ中野重治の連れ合いである女優の原泉Click!や、埴谷雄高Click!夫人の伊藤静子、水の江滝子Click!、淡谷のり子なども本業だけでは食べてはいけず、宮崎モデル紹介所に所属して一時期はモデルで生計を立てていた。
                                  <つづく>

◆写真上:通称「モデル坂」と呼ばれた、谷中坂町へ向かう三浦坂。
◆写真中上:上左は、勅使河原純『裸体画の黎明-黒田清輝と明治のヌード-』(日本経済新聞社)。上右は、1921年(大正10)制作の新島シマを描いた中村彝『女』(パーフェクトリバティー教団蔵)。下は、1921年(大正10)に下落合のアトリエで制作中の中村彝とモデルの新島シマ。
◆写真中下:いずれも前掲『裸体画の黎明』所収のモデル授業の様子で、1923年(大正12)の東京美術学校における彫刻実技風景(左)と太平洋画会講習会の風景(右)。
◆写真下:左は、領玄寺境内の「近宝庵」で同寺の境内全体は縄文期の貝塚遺跡だ。右は、宮崎菊が最初に事務所を設置した版宝庵の斜向かいあたりの現状。
★舟木力英さんの「美術館学芸員のノートから」に、宮崎モデルから派遣された中村彝のモデルについて考察されている詳しい記事Click!が掲載されています。ご参照ください。