落合地域とはあまり関係ないけれど、先に美術モデルを派遣していた宮崎モデル紹介所Click!をご紹介したので、sigさんClick!からのご要望もありデパートへいわゆる“ファッションモデル”を派遣していた、マネキンガール紹介所の物語も書きとめておきたい。
 マネキンガールのビジネスは、1929年(昭和4)3月4日に丸の内の丸ビル内へ、米国帰りの山野千枝子によって設立された「日本マネキン倶楽部」が嚆矢とされる。その前年、彼女は上野公園で開かれた国産振興東京博覧会で、高島屋呉服店のプロデュースを担当しており、そこで初めて和装のマネキンガールを起用していた。その経験から、おそらく将来性のあるビジネスとして、翌年に日本マネキン倶楽部を創設したのだろう。
 ちなみに、同時期の三越Click!はファッションモデル兼イメージキャラクターとして、新派Click!女優の水谷八重子Click!たちを起用しており、いまだ専門職としてのマネキンガールは登場していない。本格的なファッションショーは、1927年(昭和2)9月21日に水谷八重子をモデルに開催された日本橋三越のものが日本初とされるが、この「三越染織逸品会」へ出品された作品の多くは、下落合の田島橋Click!北詰めにあった三越染物工場Click!で制作されたものだろう。
 日本マネキン倶楽部の結成から、その分裂さらに業務上の不手際による再分裂に関しては、その内部の様子や動向とともに1936年(昭和11)に人民社から出版された、高見順Click!の私小説『故旧忘れ得べき』が詳しいけれど、体裁が小説なので人物たちの名前が少しずつ仮名になっている。ダダイズムとともに村山知義Click!なども紹介される本作は、登場人物のほとんどが東京帝大の出身者であり、日本マネキン倶楽部のマネキンガールたちの多くが、その夫人たちだった。ここは、まず当のマネキンガールだった女性自身の証言から聞いてみたい。1984年(昭和54)に時事通信社から出版された、丸山三四子『マネキン・ガール-詩人の妻の昭和史-』から引用してみよう。
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 このマネキン・システムは、山野千枝子(略)がアメリカで得た知識を日本にもち帰ったものでした。銀座のそこここにネオンが輝きだしたのも、この昭和三年のことです。/そして四年三月四日、山野千枝子さんは「日本マネキン倶楽部」を創設されたのです。モデルと宣伝員を兼ねた女性の職業の誕生です。事務所は丸ビルでした。/この日本マネキン倶楽部で働くようになったのが、先に申しました駒井玲子さんです。(丸山)薫と同じ三高で過ごしたご主人の浅沼喜実さんは左翼活動をされており、そのため生活を支えなくてはならない立場だったのです。/たちまち駒井玲子さんは、マネキン・ガールの売れっ子として、新聞やグラフ雑誌にも働く姿が掲載されるようになったと聞いております。/ですが、日本マネキン倶楽部では、マネキン・ガールの収入を、マネージメント費として差し引いたために、ついにストライキをおこなうことになったのでした。(カッコ内引用者註)
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 丸山三四子は詩人である丸山薫の連れ合いだが、彼女が所属したのは山野千枝子の日本マネキン倶楽部ではなく、分裂後に駒井玲子たちが設立した「東京マネキン倶楽部」のほうだ。山野千枝子が設定した「営業経費」が、米国のビジネスモデルをまねて相当に高かったと思われるのだが、ストライキを決行しても待遇は改善されず、結局、駒井玲子を中心にモデルの大半が独立して、ついに別のモデル事務所「東京マネキン倶楽部」を設立することになった。
 
 
 丸山三四子がマネキンとして参加するのは、東京マネキン倶楽部の時代からだが、日本マネキン倶楽部が山野千枝子のワンマン経営だったのに対し、東京マネキン倶楽部は一種のユニオン形式を導入し、事業は所属モデルたちの経営委員会による合議制で進められた。当時の様子を、高見順『故旧忘れ得べき』(小学館版)から引用してみよう。ただし、体裁はいちおう小説なので駒井玲子は「駒沢麗子」、東京マネキン倶楽部は「Nマネキン・クラブ」とされている。
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 マネキンがまだ珍しいものとされていた時分、マネキン倶楽部は日本にひとつしか無かったが、美容術を本職としていたその経営者があんまりあたまをはねすぎるというんで、マネキンがストライキをやった。当時新聞紙上に、物言わぬマネキン嬢が断然ものを言った云々(当時のマネキンはその名の示す如く、人間が人形のかわりをやるに過ぎないもので、口はきかず、ただしなしなと身体を動かすだけであった。)と好奇的に喧伝された事件は、読者の記憶に残っている事であろう。思えば思想的昂揚の頂上にあった当時だったからして、彼女等はその事務所の壁に、搾取反対等々のスローガンを肉太の字で墨くろぐろと書いた大きなビラを張りめぐらし、さながら工場労働者の争議そのままの風景を新聞紙上の写真に映し出していたことを読者は覚えているだろう。Nマネキン・クラブはとりもなおさず、この争議の結果、搾取者の手を離れ、自主的なクラブを作ろうというんで彼女らが創めたもので、争議委員長駒沢麗子がその儘クラブの経営委員長になった。
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 このストライキが衆目を集めたため、日本じゅうでマネキン倶楽部ブームが起き、同様の商売があちこちで起業しているが、そんな過当競争の時代に入っても、東京マネキン倶楽部は駒井玲子たちのがんばりで存続しつづけた。それは、やたらに所属会員(マネキン)を増やさず、質のいいマネキンの少数精鋭で事業をつづけたからだろう。同倶楽部は、経営委員会で正会員20名および準会員20名と決められており、大きな催しでも最大40名の派遣を限度としていた。ただし、それ以上のマネキンがどうしても必要なイベントの場合は、舞台が素人の女性ではなく、新劇の女優たちに声をかけている。
 彼女たちの日給は10円(競争が激しくなると8円)なので、月給にするとゆうに200円を超えている。当時の百貨店は定休日がないため、丸々30日を働こうと思えば可能だった。日給10円のうち、2割の2円を事務所経費として倶楽部に納めるので手取りは8円なのだが、それでも25日以上働けば200円を超える。彼女たちは、当時の大卒初任給のゆうに3倍、一般の企業では管理職なみの給料を稼いでいたことになる。事務所へ納める2円は、銀座の部屋代や事務員の給与などの必要経費のほか、東京マネキン倶楽部の事業貯金として銀行に積み立てられた。


 昭和初期、マネキンガールになるには、とり立てて資格など必要なかったが、その条件として当時のアサヒグラフは「マネキンになるには」という記事を載せている。前掲の丸山三四子『マネキン・ガール-詩人の妻の昭和史-』から、再び引用してみよう。
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 それ(アサヒグラフ)によりますと、マネキン・ガールの条件としては「先ずスラリとして丈け低からず、目鼻立ちの整ったと云えば、非常に六ツ敷く考えられますが、いわば容姿が美しければ美しい程いい訳です。言葉に地方訛があってはいけません。舞踊だとか茶の湯などの心得があれば尚申分ない訳です」とありますが、何よりも仕事熱心なのが第一なのは当然のことでした。/東京マネキン倶楽部は、とりたてて入会規則などありませんでした。それも当然でして、帝大出身のご主人をもつ既婚者が大半で、いわば仲間が寄り集まったというものだったからです。(カッコ内引用者註)
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 ここで「地方訛」がいけないとあるのは、当初のマネキンたちは身体を動かしてポーズを決めるだけでよかったのだが、ほどなく広告文をしゃべることを要求されるようになったからだ。さらに時代が下ると、本来はモデルであるはずのマネキンが、販売部員を兼ねるような売り場環境になっていき、その売り上げの高低がマネキンガールの優劣を決める重要なファクターになっていく。高見順の前掲書から引用してみよう。
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 マネキンは最初、もの言わぬ人形であったと先に書いたが、間もなくそれはペラペラと商品の広告をまくし立てねばならぬよう要求せられ、やがては宣伝だけでなく同時にその商品を売り捌く仕事も追加せられた。眉目形好いのは言うまでもなく、それに弁舌も爽やかでなくてはならぬが、それにもまして一層売上高の多いものほど、すぐれたマネキンと言われるようになった。この移り行きに関し、若しや諸君にして、ながくマネキンをやっている女に、この頃はどう? とでも尋ねる機会を持つならば、諸君はきっと次のような答えを得るに違いない。マネキンも随分堕落したもんねエ!
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 事業を順調にのばしていった東京マネキン倶楽部だが、駒井玲子がマネキンたちの積立て金に手をつけ横領したのがバレて、彼女は同倶楽部を除名になり追放された。それでもめげずに、駒井玲子は女性専用の人材派遣会社を設立し、銀座資生堂の美容部員の養成を手がけるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:戦前まで三越の大きな染物工場があった、田嶋橋の三越高田馬場マンション。
◆写真中上:関東大震災Click!のあと、大正末から昭和初期にかけ続々と百貨店のリニューアルあるいは新設が進んだ。写真は銀座三越(上左)、神田伊勢丹(上右)、上野松坂屋(下左)。下右は、丸の内の丸ビル内に日本マネキン倶楽部を創設した山野千枝子。
◆写真中下:竣工したばかりの、新宿三越(上)と新宿伊勢丹(下)。
◆写真下:上左は、丸山三四子『マネキン・ガール-詩人の妻の昭和史-』(時事通信社)。上右は、東京マネキン倶楽部を創設した駒井玲子。下左は、『故旧忘れ得べき』を書いた高見順。下右は、鎌倉の東慶寺にある高見順の墓。相変わらず線香のかわりにタバコが供えられていて、出かけたときには3人の女性が墓前で一服していた。