以前より、住宅改良会Click!による住まいの雑誌『住宅』Click!をご紹介してきた。大正期の後半から昭和初期にかけての同誌は、西洋館を中心とした単なる住宅紹介にとどまらず、洋風のライフスタイル全般を推奨する、文字どおりスタイル誌としての性格が強くなる。室内の装飾や家具調度、美術、工芸などはもちろん誌面には理想的な食生活や礼法といった、建築とはあまり関係のない領域にまでテーマがおよんでいる。
 洋風生活を送るうえで、明治以前の一般的な日本人の生活には見られなかった新しい暮らしのスタイルや生活習慣を、同誌は「ハウス・キーピング」(ないしは「ハウス・キーピーング」)と名づけて毎号記事を掲載している。その概念を、1922年(大正11)に発行された『住宅』4月号(第二文化村号)から引用してみよう。
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 ハウスキーピーング
 このハウス・キーピング(ママ)の一欄では、洋風の室内装飾、礼儀作法、料理献立、育児衛生等一般の家事家政に関する実際記事を掲載致します。之れは唯だに洋行する人や欧米人と接触する機会の多い交際界の人々や又は洋風生活にとつて必要な丈でなく、彼の長を採り我が短を補ふて生活を改善せんとする一般の家庭にも愛読さる可き性質を持つてゐます。そして、記事が悉く机上の空論や理想でなく、実際に之れを施して大変に実益のある性質のものばかりで、而も本誌全体がさうである如く永久に生命のある事ばかりです。
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 洋風住宅の普及や西洋風に暮らす生活の浸透が、当時の生活改善運動Click!と密接に結びついていたことをうかがわせる。もともと、便利な東京市街地をあえて離れ、郊外の田園地帯Click!に文化住宅を建てて生活するというスタイルそのものが、明治末からスタートする生活改善運動の影響を大きく受けたものだ。市街地の汚れた空気を避け、郊外の清廉な空気や環境のもとで健康を増進し、体力の向上と病気への耐性を向上させようというのが、当時の切実な社会テーマのひとつだったのだろう。
 『住宅』の同号には、高田豊子が書いた「お弁当代りの献立」という記事が掲載されており、子どもの食生活には徹底して洋食が推奨されている。「小学校に通ふ位の年若い少年少女が、お弁当を持つて学校へ行くことは、あまり体の発育上、感心すべきことではございません」ではじまる同記事は、21世紀の今日とはかなり異なる食生活観をしていたのがわかる。和食よりも洋食が推奨されるのは、おそらく同量でも効率的に高いカロリーが摂取できる点にあるのだろうが、それは「肥った子供」が理想的だとされる点でも、現代からみれば違和感をおぼえる内容となっている。同記事から引用してみよう。
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 日本に長く住んでゐる或る西洋の婦人と、或る日電車で私が乗り合せました時に、丁度私共の前に、それは肥つた、私の眼からは、あまり肥り過ぎてゐはせぬかと思ふ位肥つた五六才の子供が〇(欠字)つて居りました。これを見た彼の西洋婦人が、そつと私に私語いて、「失礼だけれど、私は日本の子供で、充分に養はれて、充分に発育した子供を今日初めて見た。」と申して居りました。日本の家庭で三度の食卓に備えられる子供の食物が組織的でないのか、或は母親の無思慮のためか不注意のためか存じませんが、実際、町に遊んでゐる小供(ママ)の群の中にも、立派に装ふた母人につれられてゐる電車内の子供にも、ハチキレさうに肥えた充分な発育をしてゐるのは、少ないやうでございます。
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 現在の目から見れば、やたら「肥った子供」はかえって不健康に思われ、食生活における親の管理が行き届いていない……という感触をおぼえるのだが、当時の高田豊子にいわせればまったくの正反対ということになる。これには、当時の日本人の食生活が、おしなべて偏った栄養の摂り方をしており、特に子どもの場合は発育に適した食生活ではなく、栄養バランスが悪い低カロリーの食事をしていたという事情にもよるのだろう。
 
 
 その背景には、日本人の食生活に起因していると思われる疾病の蔓延という課題もあった。大正時代の中期から昭和初期にかけての1920年代、日本における結核Click!の発症率と死亡率は史上最悪Click!を記録している。死亡率でみると、男性は10万人あたり年間死亡者が約563人、女性の場合は10万人あたり年間死亡者が約376人という、惨憺たるありさまだった。ちなみに、当時の日本人口は大正末でちょうど6,000万人(男女ほぼ同数)だから、上記の死亡率統計を敷衍すると、年間に結核で死亡する男性は約17万人弱で女性は11万人強の、合計約28万人/年という膨大な人数になる。
 都市部と農村の差はあるだろうが、この人数はひとつの街が丸ごと消滅するに等しい数値だ。しかも、これは死亡者のみの数字であり、症状がそれほど深刻ではない軽度の結核患者は、その数倍の人数にのぼっただろう。結核の発症率Click!を少しでも低下させるためには、住環境の改善と食生活の根本的な変革が不可欠だと、真剣に検討されたにちがいない。そのような時代背景を前提に、高田豊子のレシピは考案されていると思われる。したがって、和食よりは洋食、ご飯よりはパンとバター、おみよつけよりは牛乳かスープを推奨しており、彼女が考案した「小学生のホームランチ」は、和食を目の敵にしたような構成なのだが、今日のわたしの目からすれば食物アレルギーの予備軍を大量に生みそうな食卓、あるいはハンバーガーを子どもに与えつづけるとどうなるか?……というような心配と、どこかでつながりそうな懸念をおぼえるレシピとなっている。
 しかも大正期の日本人は、乳製品を摂取しはじめてからわずか50年(2~3世代)ほどしかたっておらず、それらが消化器官へ与えるダメージや、長年にわたって形成されてきた消化酵素の課題、遺伝子の側面からの研究などがなされていなかった時代のことで、日本の調味料はおろか、ご飯や魚がほとんど存在しないレシピには異様な感じさえおぼえる。また、先述のようなアレルギー症状への配慮も、まったくなかった時代の献立だ。では、高田豊子が推奨する小学生の日々の食事を、以下にいくつかご紹介してみよう。

 
 毎日、こんな食事を出されたら、わたしなら1週間で身体の調子がおかしくなり、皮膚にポツポツとアレルギー症状も表れて、パンや乳製品を見ただけで気持ちが悪くなるだろう。いや、3日ぐらいで膳ごと(テーブルごと)ひっくり返すかもしれない。(もっとも後片づけと作り直しは、わたしがやるのだけれどw) 高田豊子のレシピはそれ以前に、わたしの舌に合いそうな地域性を意識した、きちんとした料理がただのひとつも存在しない……という、初歩的な課題もありそうなのだが。
 今日から見れば伝統的な、あるいは地域性のある食材をもとにした和食をバランスよく摂れば、結核はまず発症しないということになるのだが、当時は日本の食生活(和食)全体が疾病を発症しやすいアンバランスなものばかりであり、カロリー摂取が絶対的に不足している……と認識されていたのだろう。結核菌はいまでも全国あちこちに存在するし、どこにでもいる代表的な病原菌のひとつで、多くの人々が保菌者のはずなのだが、戦後の食生活の改善で発症者が激減している。また、BCGワクチンの接種による免疫力の向上もあるのだろう。
 余談だけれど、わたしはツベルクリン反応が常に陰性で、ただの一度も陽性になったことがない。したがって、小中学生時代は毎年BCGを受けていたにもかかわらず、いまでも陰性で体内に結核菌が存在せず免疫が形成されていない。それでも結核を発症しないのは、体内に常駐していない菌が外部から取りこまれると、すぐに結核の免疫機能ではない別の方法で「皆殺し」にする体質によるもののようだ。このような、免疫が非存在にもかかわらず発症しにくい人は、食糧事情が改善された戦後からずっと増えつづけているようで、うちの子どもたちも同じような体質をしている。ただし、“異物”に対して徹底的に攻撃を加えるぶん、アレルギーを発症しやすいという相反するデメリットもあるようだ。
 つまり、わたしの場合はツベルクリン反応が常に陰性だからといって、毎年痛い思いをしながら気持ちの悪いBCGなど受ける必要はなかった……ということになる。しかも、激しい運動をしてはいけないとか、海やプールで泳いではいけないなどと、学校からうるさいことを言われていたが、そんな必要はまったくなかったということだ。もちろん、そのようなアドバイスはいっさい無視して、海や山で遊んでいたのだが……。
 
 高田豊子と電車に乗った西洋婦人は、「充分に発育した子供を今日初めて見た」などといっているが、自身が一般の「西洋婦人」よりもかなり肥満していたのではなかろうか? だから、よけい日本の街中を歩くと目立つ存在であり、日ごろから日本人は栄養不足だというような観念を抱いており、そこへ電車の中でようやく出会った肥満児に“同類感”をおぼえて、ついそんなことを口走ってしまった……そんな気もするのだが。

◆写真上:大正期に建てられた洋風住宅にみる、典型的な食堂の様子。
◆写真中上:上は、1922年(大正11)にあめりか屋が建設した、大崎にある平澤家住宅の外観。下左は、同家住宅の応接室。下右は、大正期の洋風住宅の間取り見本。すでに居間と食堂が、現代住宅のように同一の空間になっている。
◆写真中下:左は、1922年(大正11)発行の『住宅』4月号(第二文化村号)に掲載された高田豊子「お弁当代りの献立」。右は、グラビアに掲載された米国式住宅。
◆写真下:毎日こんな食事ばかりしていたら、ほどなく身体を壊しそうなメニュー。