刑部人Click!が、金山平三Click!による風景モチーフ選びの呪縛から“解放”されたのは、金山が死去した1964年(昭和39)以降のことだ。金山は、多くの人々が「美しい」と感じる名勝地や史的な旧蹟風景を描かなかった。それは、曾宮一念Click!が日々富士山を見あげる裾野に住みながら、富士をほとんど描かなかったのにも似ている。曾宮は、富士を描くことはことさら“売り絵”を制作するようで、自身の「商売」上「卑怯だ」と感じていたようだ。
 同じような感覚が金山平三にもあったらしく、いわゆる「名所絵」をほとんど描いてはいない。「名所絵」は、観光地の土産品と同様に注目され、あらかじめモチーフが備えた一般うけしそうな既存の規定“美”へ全面的に依存し、居間や書斎の装飾品として黙っていても売れるため、美への追究心が堕落する、あるいは美意識が怠惰に陥る、さらにはハナから“美”への探求勝負から逃げている……とでも感じていたものだろうか。ただし、金山は佐伯祐三Click!のように便所Click!の情景にまで美を見いだし、20号タブローのモチーフにしてしまうほど野放図ではなかった。
 刑部人は、金山平三の死後、堰を切ったように京都や奈良などの名所を描きはじめる。その様子を、1979年(昭和54)10月から11月にかけ栃木県立美術館で開催された、「刑部人展」の図録に掲載の、刑部人「私の絵のことなど」から引用してみよう。
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 金山先生は「京都は描く所がないなあ、奈良はもっとないよ。」といって居た。そのせいか私は妻の実家が京都であり度々行くことはあったのだが殆ど写生の為には行ったことがなかったのである。が、妻のいとこの島津洋二氏に関西一円を度々同氏の運転する自動車で案内されることがあり、自分の目で見た奈良、京都のよさを写生することが多くなった。今は少なくなったが斑鳩の法起寺の塔が見えて前景に桃の花、菜の花畑のある風景や三輪山の続きの岡の桃畑に登ると畝傍、耳成、天香久山の大和三山が遠く見えるなど、万葉の歌を思わす風景が随所に見られこれは又これで私を感動させた。
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 金山平三は根っからの画家であり、その“美”を追求する姿勢には非常にシビアで、決して妥協しない厳しいものがあった。刑部人は、金山とともに制作していた時期、その強烈な個性や制作姿勢とともに、少なからず影響を受けたのだろう。むしろ、その影響が強烈であるがゆえに、その時期は画面さえ金山の表現に近似しているとも指摘されている。しかし、刑部人には画家としての眼ざしと、もうひとつ物語や詩歌を愛でる文学の眼ざし、換言すればいわゆる“詩情”や“歌情”が制作意欲と同等にあふれ出ていたのではないか。
 刑部人の文学好きは、中学時代にまでさかのぼる。絵は小学3年生のとき、川端龍子の通信描画教室「スケッチ倶楽部」を受けはじめたころから好きだったのだろうが、府立一中Click!時代には4人の仲間たちと文芸サークルのような集まりを持ち、廻覧小説を書くなどして文学の魅力に触れている。この時代に、刑部人はさまざまな小説や詩歌を吸収し、文学的な素養を身につけたのだろう。仲間4人のひとりには、のちに小説家になる高見順Click!がいた。そのときの様子を、高見順『混濁の浪―わが一高時代』(構想社版)から引用してみよう。なお、文中の美術学校へ進学する「草壁」とは、刑部人のことだ。


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 依然四人は強烈な芸術的昂奮に酔い痴れながら同じように歩いていった。やがて私達は小説めいたものを書き出した。その頃から「芸術家になる」ということが私達の胸が轟く程の誇りとして感ぜられるようになってきた。/「あゝ、いかに輝かしい生活だ、幸福な生き方だ、芸術家!」/中学四年が終って四人は思い思いの学校に入ることになった。四人のうちの一人の古藤は突然K大学の医科に、坂元はS大学に這入った。私は少なからず驚いた。/欺かれた! そんな気もした。芸術をすてて彼等は走った。/裏切られた! 私は少なからず私の血を煮え立たした。/しかし、そういた小さな憤懣も、私の受けた高校の不合格という手ひどい打撃で脆くも打ち消されてしまって、私は中学五年生となった。そしてのこった一人の友、草壁が美術学校へ行くことにきめたときいた時の私の歓喜はどのようなものだったろう。私は草壁の肩をおさえながら鼻をつまらしてどもりどもり言った。「草壁! 君の決心を聞いてこんなうれしいことはない」
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 刑部人はある風景美にとらえられると、その基層に眠る物語が気になり、想像し、夢想しないではいられなかったのではないか。あるいは、散文にしろ詩歌にしろ、物語が重層的に眠る史的な(あるいは詩的な)風景を、自身の絵画と文学の両面を備えた眼ざしですくいとり、ことさら表現してみたかったのではないだろうか。それが画面の“美”に対して、あまりにストイックな金山平三の亡きあと、その桎梏から解き放たれたように、奈良や京のいわゆる史的物語が横溢した「名所」へと、刑部人を向かわせたモチベーションではなかったか。
 

 もうひとつ、めったに画家仲間を制作現場へ寄せつけなかった戦後の金山平三が、なぜ刑部人にだけは気を許し、積極的に制作旅行へ誘っているのか?……というテーマもある。刑部人は和田英作門であり、金山平三と当時の文部省と結託した和田英作は、当然ながら帝展改組Click!をめぐり犬猿の仲だったはずだ。お互いのアトリエClick!が、下落合の近所同士Click!だったし、島津家Click!を通じて顔見知りだったから……といってしまえばそれまでだが、金山が刑部人にことさら惹かれたのは、その性格が自身とは正反対だったからではないだろうか。金山にはない性格を、刑部人は多く備えていたのかもしれない。
 金山平三は、強烈な“我”やクセのある個性をもち、気に入らない知り合いと同席すれば背中を見せてメシを食うほど好悪がハッキリした強い性格だが、刑部人は金山とは異なり、周囲の状況に対しては柔軟性のある対応や幅の広い考え方ができる性格だった。刑部人の性格について、先ごろ亡くなった美術史家の大島清次が的確な表現をしていると思われるので、1976年(昭和51)に日動出版から刊行された『刑部人画集』掲載の、「刑部人論」から引用してみよう。
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 やむを得ないというよりも、刑部は本来どちらかというと状況に逆らわない流儀の持主で、その逆らわない流儀の中から自然に生れてくる自分の個性を大事にする術をすでに身につけていた。状況の中に素直に身をおきながら、もし個体としての自分の存在に生命が宿るものなら、その生命は当然その状況のなかであらたな根を張り芽を出して、その状況にふさわしい創造の花を咲かせる、そんな風に彼が悟っているようにも見受けられる。私はとくにそれを、彼の礼節正しい温厚篤実な日常の立居振舞のうちにつよく感じている。柔和な、ほとんど争うことを知らぬげな応対のうちに、いつとは知らず周囲の雰囲気が彼の存在を同化し、同化しつつまた雰囲気そのものが彼の存在を鮮やかに浮彫りにしていく。きわめて東洋的な倫理の世界であり、と同時に美学(エステティーティック)の世界でもある。あるいは、一種の東洋的な自然主義とそれはいいかえても差支えない。
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 刑部人の率直で飾らないピュアな性格が、金山のまるでアンキロサウルスのような頑固で強靭で鮮烈な存在へ、沁みこむように馴染んでいった……そんな気が強くするのだ。
 
 また、お互いが共鳴し響きあうような“なにか”がなければ、長期にわたり金山は晩年を刑部人とともにすごしたりはしなかっただろう。その共鳴しあった部分を、画業以外に想像してみるのも面白い。金山平三は、少年時代からとびきりの芝居好きだったが、刑部人Click!は中学時代からクラスメイトを通じて文学の世界に惹かれていた。芝居と文学とでは世界が異なるが、紡がれる物語が人間性を描く点は共通している。はたして、ふたりはともに絵を描きながら、旅先の夕べにどのような物語を語りあったものだろうか。

◆写真上:1955年(昭和30)10月に、おそらく旅先で撮影された制作中の刑部人。孫にあたる中島香菜様Click!から提供いただいた、「刑部人資料」の中の1ショット。
◆写真中上:上は、1929年(昭和4)に撮影された写生旅行中とみられる和田英作門の画家たち。和田英作の左隣りの▼が刑部人、列車の窓に立つ右から2番目が岡本太郎で、1972年(昭和47)に芸術新聞社から発行された「アートトップ」8号より。下は、1936年(昭和11)7月に開かれた東京美術学校同窓会の▼刑部人。(「刑部人資料」より)
◆写真中下:上は、冒頭写真と同じく1955年(昭和30)10月に撮影された風景画を制作中の刑部人。下は、1949年(昭和24)8月に軽井沢の岡本知一郎別荘で撮影された刑部人。ともに「刑部人資料」からで、真夏の背広姿が真面目な刑部人らしい。
◆写真下:左は、1928年(昭和3)に制作された刑部人『少女』。右は、下落合のアトリエ縁側で撮られたとみられる1955年(昭和30)ごろの金山平三。(「刑部人資料」より)