1934年(昭和9)4月、第二文化村Click!の下落合1705番地に住んでいた島峰徹Click!は、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)が移転したあとに建設中の、東京高等歯科医学校(現・東京医科歯科大学)の工事現場から不可解な連絡をもらっただろう。ひょっとすると、同校の設計・建設を指揮していた大蔵省営繕管財局工務部長の大熊喜邦Click!から、じかに電話をもらったかもしれない。女子高等師範の旧校舎を解体し、学校敷地の整地作業がようやく終わり、基礎工事がスタートする矢先のことだったと思われる。
 工事現場の異様な状況を聞いた校長の島峰徹は、「そりゃあなた、江戸時代に神田明神の甘酒茶屋が掘った、地下の麹室(こうじむろ)の一種でしょうな。歯っはっは」と、気楽に考えていたかもしれない。ところが、これが御茶ノ水から湯島一帯にかけて、膨大な古墳群の確認と発掘の端緒となるエピソードだった。実は、江戸期にも湯島聖堂(のち昌平坂学問所)を建設する際、地下から多くの洞穴が出現しているのだが、江戸初期の古い「麹室」跡だろうということで片づけられていた。1690年(元禄3)に林信篤が記した『武州昌平坂大成殿上梁』に見える、「覆虆裡而填洞穴」の箇所がそれだ。しかし、考古学者の中には当時の文献を読み、古墳の羨道あるいは玄室の発見だったのではないかと疑う人々もおり、同地域における新たな発見が待たれていたのだ。
 いや、このテーマは湯島聖堂建設のさらに前の時代、江戸幕府が神田山(現・駿河台)の土砂を崩して海辺の埋め立てに用い、御茶井(おちゃのい)に平川Click!つづきの外濠(現・神田川)を掘削して、神田明神を湯島台側へ移した時点から語られるべきものだろう。神田山の北麗から湯島台一帯が、この地下式横穴古墳群で覆われていた可能性が高いのだ。それは、その後につづく各地点の発掘成果にもよるのだが、神田明神下に数多く見世開きしていた甘酒茶屋の地下麹室でさえ、もともとは横穴古墳群の洞窟をいくつか活用し、それを改良・拡張して造られていたものではないか?……とさえ疑われるようになった。
 でも、1934年(昭和9)春の当時、島峰徹はそのような事例をいまだ知らず、とっさに江戸時代の遺構がまた出現したと直感しただろう。昭和初期の当時、宅地開発や建物の建て替えにともない、東京各地で地下に埋もれた江戸期の遺構(おもに水道管や屋敷跡)が見つかっていたからだ。また、東京あるいは関東地方は蛮族たる「坂東夷」の土地柄であり、巨大な古墳Click!はおろか大規模な古墳群など存在しない……という皇国史観Click!の“神話”が、いまだ信じられていた時代だ。ところが、工事現場を視察に訪れた島峰校長は、おそらく設計・建築責任者である大熊喜邦から説明を聞いて驚愕しただろう。同時に、校舎建設の工事計画がどれほど遅れるのか、頭を抱えたかもしれない。
 大熊喜邦は、基礎工事で出現した大量の横穴を、当初より江戸期の「麹室」とは考えていなかった。それは、すべての工事をストップし、綿密な測量調査をはじめたことからもうかがわれる。そして、大熊は1934年(昭和9)の『建築』8月号に、新たに発見された古墳群の詳しい断面図や平面図など、詳細な計測図を現場レポートとともに掲載している。また、大熊喜邦は文部省の専門学務局史蹟調査室へも連絡を入れたらしく、同室のメンバーがチームをつくり膨大な古墳群を調査することになった。チームには、のちに目白3丁目3534番地で日本史蹟研究会を主催することになる、同省の上田三平も含まれていた。上田は同研究所の名義で、1943年(昭和18)に詳細な報告書『東京御茶水に於て発見せる地下式横穴の研究』を発行することになる。余談だが、目白3丁目3534番地は現在の目白幼稚園の北側あたり、山手線沿いにふられた当時の地番だ。



 
 では、上田三平の同報告書から、古墳が発見された概要を引用してみよう。
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 (前略)その工事中の四月廿六日に根伐の底部に於て偶然不思議の洞穴を掘り当て、更に引き続いて他の場所に於てもトラックの車輪の陥落等によつて略同様の洞穴の存在せることを発見した。よつて現場監督員は、直ちに各々の洞穴の内部を仔細に点検し、その形状を測定したが、此等の洞穴は何れも予め十分な意図を以て設計され、その技術に於ても共通せる点があつて全く人工的なものであることを確め得たのである。/而してその一組と認められる形態は、地表から垂直に穿たれた深さ十二三尺の方形の孔を中心とし、その底部の周囲に於て数個の通路の如き穴を穿ち、それから矢車状に配置された四室若しくは五室に連続せることを発見したのである。その後も根伐工事の進捗に伴ひ、略同様の洞穴の集団が発見され益々その数を増加したが、この不思議な事実が遂に現場から文部省の専門学務局に伝へられ、鶴岡主任は之が調査を史蹟調査室の吾々に慫慂(しょうよう)されたのである。
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 また、大熊喜邦の主導で計測された実測図面が、工事の現場事務所に次々と貼られていった様子も記録されている。大熊喜邦Click!は、もともと麹町の旗本家の出身であり、出現した遺構が江戸期のものでないことは直感的に理解していたかもしれない。その後、遺体を地面へじかに安置すると、富士山の火山灰である関東ローム層では酸性が強く、遺骨や副葬品が残りにくいという条件下で、かすかな遺骨の断片や副葬品が見つかるにおよび、ようやく大規模な古墳群であると確認されることになる。
 古墳の形状は、12~13尺(約3.6~4.0m)ほどのタテ穴を掘った底部から、四方へ4~5室の羨道と玄室を、まるで矢車か車輪のように掘っためずらしい形態をしており、古墳時代末期からナラ時代の最初期に多くみられる埋葬形態だと規定された。また、従来の東京女子高等師範学校のころより、急に地面にできた窪みに馬が足をとられたり、大雨が降ると敷地のあちこちに凹地ができていたことから、古墳は東京女子高等師範学校のキャンバス全体におよんでいると考えられた。
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 而してその各々の横穴玄室の大きさは多少異る処はあるが何れも相似形を呈し、所謂羽子状を為せる点は殆ど同一といつてもよい。即ち羨門の内壁に沿ふて測定せる幅約七尺乃至九尺、奥壁の幅約十尺乃至十五尺、奥行約十五尺あり、室内の高さは側壁に於て約三尺乃至三尺五寸中央に於ける高さ約四尺余である。即ち室内の高さの比較的低い点も注意せねばならぬ。入口の幅は二尺に充たず高さ約二尺五寸とは甚だ狭隘なものである。然かも玄室に於ても高さ四尺位に過ぎず、加ふるにその室内の形状は略等しい点は、此等の土室は何の用に供せられたものであるかを暗示してゐるのである。
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 古墳時代の前・中期に発達した、大規模な前方後円墳Click!や円墳、帆立貝式古墳Click!などの時代から、人々の生活観や死生観に合理性が生まれ、葬儀形式や墳墓形態が大きく変化していった経緯を感じとれる古墳最末期の築造とみられる。羨門部はくびれ、幅が遺体を引きこめる程度のわずか60cm余で高さが約80cm弱しかなく、玄室は奥ゆきと奥壁が約4.5m前後、高さが約1.2m余で、明らかに埋葬施設の様相を呈しているのがわかる。同じ1934年(昭和9)の10月になると、今度は大塚古墳Click!近くの小日向台町1丁目に建っていた杉浦家の庭からも同様の横穴が発見され、副葬品として鉄鏃や鉄片、土器などが出土し、改めてこの奇妙な形態の地下式横穴群が古墳であることが確認された。
 地下式横穴古墳群は、東京高等歯科医学校の校舎ひとつぶんの工事現場から、なんと40基もの羨道と玄室が発見されている。さらに、その周辺域にも拡がりを見せており、聖橋筋の道路をはさんだ湯島聖堂側の江戸期に行われた普請で見つかった地下洞穴も、同様の古墳群だったことが推定された。また、当時はすでに多様な建築や住宅の下に埋もれてしまった、同学校の西側や北側、そして掘削されて現存しない南側の神田川、すなわち神田山の北斜面にも同様に展開していただろうと推測されている。
 現在では、同じような地下式横穴古墳群は全国各地で発見されており、見つかると同時に古墳認定がなされているけれど、当時はいまだ発掘事例も少なく、江戸期の麹室だとする学者との論争に、文部省の調査・発掘チームは忙殺されることになった。しかし、福井県敦賀郡の沓見地域で、当時は「丸山古墳」と呼ばれていた墳丘の斜面から、地下式横穴古墳がまとめて発見(現在では30基を超えているようだ)されるにおよび、改めて発見場所である東京高等歯科医学校の敷地を中心に、大規模な古墳群の存在が認知されている。
 しかし、同横穴古墳群の報告書が発行されたのは、1943年(昭和18)という太平洋戦争のまっ最中であって、しかも軍国主義による「神国ニッポン」=皇国史観の徹底化がなされているさなかでもあり、明治政府以来の朝鮮半島ひいては中国から拝借した非科学的な「東夷蛮族」史観が活きていたせいか、関東地方で続々と発見される大規模な古墳群は黙殺され、名称さえ付加されていない。「坂東夷」などと祖先が呼ばれてしまっているわたしは、江戸東京地方はおろか、広大な関東平野に拡がる古墳時代全期を通じての膨大な大小古墳群は、おそらく近畿地方を量的にも規模でも同等か、あるいはそれを凌駕していると想定しているので、ぜひ上田三平が調査した同古墳群にも名前を付けたいのだが(名称を付加して規定しないとカウントされない)、代々地付きである大熊喜邦の洞察力と、上田三平の優れた研究成果や業績をそのまま踏まえ、「御茶ノ水地下式横穴古墳群」ではいかがだろうか?
 
 
 
 余談だけれど、昨年まで群馬県(上毛野勢力圏)において発見された古墳数がついに1万基を超えたらしく、このまま進めば古墳数4位の福岡県や5位の京都府を抜き去る勢いだ。おそらく、空中考古学によるレーザー照射技術や地下探査技術などの発達にともない、今後は2位の千葉県(南武蔵勢力圏)や3位の鳥取県(出雲圏)に迫る日も近いのではないかと思われる。でも、ほとんどが早くから寺社や住宅街の下になってしまった江戸東京地方(南武蔵勢力圏)では、新たに発見される機会はこれまで以上に少なくなる一方だろうか?

◆写真上:御茶ノ水地下式横穴古墳群が発見された、現在の東京医科歯科大学の全景で、右手が湯島聖堂(昌平坂学問所)で手前が聖橋と御茶ノ水駅。江戸最初期には、手前から東京医科歯科大学あたりまでが、海浜埋め立てで崩された神田山の北斜面にあたる。
◆写真中上:上は、当時の東京高等歯科医学校の敷地図面で、斜線の校舎建設予定地から古墳群の一部40基が発見された。中は、発掘現場を視察する調査団で立っている人物の左からふたりめが大熊喜邦。下は、古墳1基の平断面図(左)と全体の平面図(右)。
◆写真中下:発掘中の羨道や玄室で、人物の大きさからそのサイズが想定できる。
◆写真下:同じく、発掘調査中の御茶ノ水地下式横穴古墳群の様子。中は、人骨が発見された玄室。下右は、1943年(昭和18)に日本史蹟研究会から発行された上田三平の報告書『東京御茶水に於て発見せる地下式横穴の研究』の表紙。