1862年(文久2)に、14代将軍・徳川家茂のもとへ嫁入りした皇女和宮が実は替え玉だったという説は、これまで幾度となく歴史本やドキュメンタリーなどで取り上げられてきているが、肝心の替え玉だったことについて有吉佐和子のもとへ直接、家伝を披露しに訪れた証言者(とその証言内容)の信憑性について、詳しく研究・分析した資料をわたしは知らない。かんじんの“仮説”を形成する基盤の証言部分について、掘り下げられていないのはなぜだろう? 案外、「名主の子孫の証言」という大前提のみで、証言した人物の存在の可否や内容の信憑性が、ほとんど顧みられていないのが実に不思議だ。「夏休みの自由研究」テーマだった第2弾は、この和宮にまつわる証言について考察してみたい。
 なぜ、いまさらこのサイトで場ちがいな和宮などを取り上げるのか? それは、この証言者が下落合の西に隣接した「高田村」(現・目白)の出身であり、彼女はそこの「豪農名主」だった新倉家の末裔だと名のっているからだ。さっそく、1978年(昭和53)に講談社から出版された、有吉佐和子『和宮様御留』の巻末「あとがき」から引用してみよう。
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 幕末、高田村の名主であったという豪農新倉家の一婦人が、私のところへ訪ねておいでになったのは、もう何年前のことになるだろうか。
 「和宮様は私の家の蔵で縊死なすったのです。御身代りに立ったのは私の大伯母でした。増上寺のお墓に納っているのは和宮様ではありません。このことは、戦前は決して他家の人の耳に洩らしてはならないと戒められてきましたが、時代も変ったことですし、何より、私の家で亡くなったお方の御供養がしたいと思ってお話しました。板橋本陣で入れかわったのです。新倉家には、薩摩の藩士がよく出入りしていたようですが。宮様が死なれて以来、家運が傾いて、屋敷跡が現在は目白の学習院になっています」
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 おそらく、1960年代後半から70年代の初めあたりだろうか、「高田村」の「豪農新倉家」の子孫が訪ねてきて語ったこの証言が、有吉佐和子の空想による小説つづきのフィクションでないとすれば、その証言内容には時代的な齟齬や誤りがみられる。
 まず、証言した女性は「高田村」の「名主」であった「新倉家」と名乗っているが、和宮がのべ15,000人ともいわれる嫁入り行列を従えて中山道を通り、大江戸(おえど)Click!へとやってきた幕末期の高田村に、「新倉」という姓の名主はいない。新倉家は代々、高田村の北隣り雑司ヶ谷村の名主であって、江戸時代末期の高田村には存在しなかった。幕末から明治初年にかけ、雑司ヶ谷村および高田村の名主・年寄・組頭の村方書上げを収録した、1951年(昭和26)に豊島区役所刊行の『豊島区史』から引用してみよう。
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 雑司ヶ谷村
 名主 柳下三郎右衛門、戸張平次左衛門、新倉四郎右衛門
 年寄兼組頭 柳下安兵衛、長島文左衛門、後藤七郎右衛門、新倉勝五郎、大野甚兵衛、渡邊善五郎、今井小右衛門、秋本六郎右衛門
 高田村
 名主 島田半兵衛、大澤吉右衛門、醍醐惣左衛門
 年寄兼組頭 醍醐平右衛門、醍醐利兵衛
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 これでも明らかなように、名主の新倉家は雑司ヶ谷村の出自であって高田村(下高田村)ではない。また、雑司ヶ谷村の筆頭名主も柳下家であって新倉家ではなかった。有吉佐和子の『和宮様御留』に登場した、娘を顔なじみだった幕臣の嫁(実は和宮の身代り)に急遽提供することになる名主「新倉覚左衛門」が、実在した人物である新倉四郎右衛門の小説上の仮名だったとすれば、「高田村の新倉覚左衛門」ではなく、「雑司ヶ谷村の新倉覚左衛門」としなければ誤りだ。
 たとえば、ここで有吉佐和子が小説を執筆するにあたり、周囲への影響を考慮して雑司ヶ谷村をあえて「高田村」に置き換えたか、あるいは高田村の名主である島田家、大澤家、さらに醍醐家のいずれか、つまり有吉佐和子のもとを訪れた証言者の素性に配慮して、名主の姓だけ隣り村の「新倉」姓を借用してきた可能性は、あえて否定できない。では、証言者の話はまるでデタラメなのだろうか? 実は、そうとは断言できない事実が、明治期になってから急浮上してくることになる。
 

 時代が明治に移ると、雑司ヶ谷村の新倉家は急速に羽ぶりがよくなり家運の隆盛をみて、雑司ヶ谷村や高田村一帯の戸長に就任している。1878年(明治11)7月の太政官布告第17号(郡区町村編制法発布)をうけ、新倉四郎右衛門の子である新倉徳三郎は、一帯の戸長(のち村長)に任命されている。同時に、新倉家では雑司ヶ谷村ばかりでなく、隣りの高田村の土地(高田村高田)まで手に入れており、当時の土地台帳によれば現在の学習院キャンパス内の何ヶ所かにも、新倉家は土地を所有するにまでなっていた。つまり新倉家は明治期になると、雑司ヶ谷と高田の両村一帯にまたがる大地主に成長していたことになる。新倉徳三郎について、1919年(大正8)に高田村誌編纂所から出版された『高田村誌』Click!から引用してみよう。
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 新倉徳三郎(戸長役場時代より勤続二十七ヶ年に及び)――明治三十八年六月柳下三郎右衛門氏就職勤務現今に至る。(中略) 又町村制施行以来二十幾ヶ年間村長の職に在りし新倉徳三郎氏に対する郡教育会の表彰ありたり。
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 1889年(明治22)4月、東京府下で町村制が実施されると、高田村と雑司ヶ谷村、その他小石川西部などの周辺エリアが合併して新生「高田村」(現代からみれば、もっとも意識されやすい高田村のイメージ)が誕生する。5月に初代村長に就いたのは、戸長時代からそのままスライドした新倉徳三郎だった。つまり、幕末の旧・高田村の「名主」ではなく、新・高田村の有力者としての村長・新倉家が登場してくることになる。このとき、高田村役場の建設が村制移行に間にあわず、高田村高田若葉1443番地の新倉家屋敷内の1室が、とりあえず村役場のオフィスとして使われている。のちに建設される村役場も、新倉家の東側に近接している。では、新倉徳三郎について、今度は1933年(昭和8)に高田町教育会から出版された、『高田町史』Click!の「歴代の町村長」から引用してみよう。
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 第一代 新倉徳三郎氏
 氏の家は、始祖四郎右衛門以来、系統の継続したる旧家で、江戸時代には、世々この地の名主を勤めた。徳三郎氏は、父祖の家を嗣ぎ、名主の任に当り、明治六年、区戸長制度の実施の際、高田雑司谷他四ヶ村の戸長に就任し、爾後十六年其の職に努めた。次で明治二十二年五月一日、村政施行の際、高田村々長の任に就き、自家の一室を村役場に提供して事務を執り、後ち役場庁舎及小学校々舎を新築して、範を近村に示した。斯く戸長時代より三十二年間、自治行政の任に当り、励精恪勤、克く其職責を尽くし、同三十八年五月退任した。其後は高田農商銀行を創立し、其の頭取に挙げられ、当町農商工業に貢献する所鮮からず。為人は温良誠実にして謙譲の徳ありし人、大正十二年五月八日病歿、年六十八。金乗院の瑩域に葬る、遺子は男三人、女三人あり、三男義雄家を嗣ぐ。
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 新倉家では、江戸期から父祖代々の名前が四郎右衛門であり、家督を継ぐと同名を名乗るようになっていたようだが、新倉徳三郎は新時代には合わない古臭い名前だと感じたものか、襲名はしなかったようだ。ここでは、新倉家を雑司ヶ谷村の名主と規定せず、「この地の名主」と抽象化しボカした表現にしている。ちなみに、「高田農商銀行を創立し、其の頭取」と書かれているが、同銀行の創立には参画したかもしれないが、取締役頭取に就任するのは村長退職後の、もう少しあとの時代だ。
 また、子どもが6人おり、1970年(昭和45)前後に有吉佐和子を訪ねてきた女性が実在するとすれば、この6人のうちのいずれかの娘、すなわち江戸期に雑司ヶ谷村の名主だった新倉四郎右衛門の曽孫にあたる女性だったと想定できる。それは、板橋宿で和宮の身代りになった四郎右衛門の娘を、祖父であったとみられる新倉徳三郎の姉、すなわち「大伯母」と表現していることからも明らかだ。
 ここで、最初の証言内容にもどってみよう。新倉家の出身である証言者の女性は、江戸期の雑司ヶ谷村における名主時代の新倉家と、明治期の隆盛をきわめた新・高田村における戸長から村長時代の新倉家とを、前後ごっちゃにして証言しているとすれば、どうやら話の辻褄が合ってくるのだ。また、新倉家の本家は雑司ヶ谷鬼子母神(きしもじん)の参道沿い、高田若葉1443番地にあったのだが、証言者の生まれた分家がのちの学習院キャンパス内、すなわち旧・高田村時代に買収していた、新倉家の土地(高田村高田)に屋敷をかまえて住んでいたとすれば、「家運が傾いて、屋敷跡が現在は目白の学習院になっています」といういい方も、あながちウソとはいい切れない。
 さらに、明治維新前後と思われる時期に、「薩摩の藩士がよく出入りしていた」というのも、この地域では非常にリアリティのある表現なのだ。なぜなら、高田村や雑司ヶ谷村は上落合村や下落合村と同様に徳川幕府の“天領”Click!が多く、幕末から明治にかけては村の湧水流沿い、あるいは河川沿いの水車小屋で、火薬の製造を委託されていたと思われるからだ。以前、幕末に起きた淀橋水車小屋の爆発事故Click!について記事に書いたけれど、明治維新の直後は薩長軍に必要な戊辰戦争用の、あるいは火薬工廠(東京砲兵工廠)が1871年(明治4)に竣工するまでの間、火薬の製造・調達で薩摩の藩士がこの界隈の名主屋敷にこぞって出入りしても、決して不自然ではない状況だったからだ。
 

 事実、高田村の南東にあたる神田上水(現・神田川)沿い牛込矢来下にあった水車小屋で、幕末に火薬製造による爆発事故が起きている。有吉佐和子は、新倉家を「花火師」の家系として、火薬とのつながりをぼんやりと描いているが、もし名主の家に多くの薩摩藩士たちが出入りしていたとすれば、軍備には直結しない花火Click!用の火薬などではなく、幕末から徳川幕府の肝入りにより付近の水車小屋でつづけられていた、黒色火薬の製造・調達についての相談だとみるのが、当時の時代背景や状況からみて自然なのだ。
                                  <つづく>

◆写真上:鬼子母神の参道に近い、旧・高田村高田若葉1443番地の新倉家跡(左手)。
◆写真中上:上左は、1978年(昭和53)出版の有吉佐和子『和宮様御留』(講談社)。上右は、新倉徳三郎が登場する1919年(大正8)に刊行された『高田村誌』の「行政一般」。下は、1985年(昭和60)出版の鈴木尚『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』(東京大学出版会)に収録された芝増上寺の徳川家茂・和宮(静寛院)夫妻の墓。右が徳川家茂で左が和宮(静寛院)の墓所であり、背後には建設中の東京タワーが見えている。
◆写真中下:上は、明治期には新倉家の所有地が各所にあったとみられる学習院キャンパスの現状。下は、1933年(昭和8)に撮影された学習院の空撮。目白通りを隔てた向かいには、旧・宮内省帝室林野局が買収した土地に目白警察署や高田町役場が見える。
◆写真下:上左は、1926年(大正15)作成の「高田町住宅明細図」にみる高田若葉1443番地(地図では番地1445番地表記)の新倉本家。新倉徳三郎の三男である、新倉義雄の名前が採取されている。上右は、『高田村誌』(1919年)に掲載された選挙人名簿の新倉一族で×印は地主表記。下は、鬼子母神参道沿いにあった高田村(町)役場跡の現状。