そもそも、新橋「花月」における怪談会Click!は、いつからどのような目的ではじまったのだろうか? これが、『主婦之友』主催の会席ではなく、以前からつづいていた会席であることは、泉鏡花Click!の発言からもうかがえる。元気なころの劇作家・小山内薫も出席していたというから、少なくとも大正期から定期的に開かれつづけていたのではないかと推定できる。
 そして、新橋「花月」の催しは文学界あるいは演劇界を中心にかなり広く知られており、夏になるとひとつの風物詩的な会席として、以前から浸透していたように思えるのだ。そうでなければ、当時は100万部の婦人誌だった『主婦之友』がいくら参加を呼びかけても、これだけのメンバーを一同に集められたとは思えない。泉鏡花と平岡権八郎が世話役になって、怪談会席は毎年夏になると催されていたのではないか。
 さて、聞いているんだか聞いてないんだかわからない、黙って身体をユラユラさせている橋田邦彦医学博士(想像)をよそに、怪談は再び「死神」の話に回帰している。大阪の郵便屋が、夜明けまでに三等郵便局へとどけなければならない郵便物を詰めたカバンを肩に、真夜中の淀川堤を歩いていると、急に死んでしまいたい誘惑にかられる話だ。
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 ◎平岡権八郎の怪談(その3)
 何の理由もないのに、たゞ無性に死んでみたくなつたんださうです。丁度都合のよいことに、堤の下に共同便所があつたので、彼はつかつかと便所の中に入り、帯を解いて首を縊らうとしました。と、そのとき急に彼の胸に浮んだのは、郵便物の入つた鞄のことでした。『俺には大変な責任があるんだ。これを郵便局へ届けてから、ゆつくり死なう。』と、急いで首縊りを中止して、向うの三等郵便局へ向ひました。(笑声) 夜がだんだん明けると共に、死にたいといふ気持も、だんだん薄くなり、帰途に就く頃は、そんなことは、すつかり忘れてしまひました。淀川堤を、鼻唄か何か唄ひながら、彼はぶらぶら帰つて来ました。そして昨夜の共同便所のところまで来たら、何だか人集りがしてゐて、わいわい騒いでをります。近づいて様子を見たら、その共同便所に、旅のものらしい三十年輩の男が、首を縊つて死んでゐたさうです。つまり死神が、共同便所の中から誘惑したわけなのでせう。
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 このあと、縊死したくなる枝ぶりの木が話題になっている。柳田國男Click!は、「首縊り番付」で“大関”になった番町土手の松の木で、つづけて5~6人が首を吊った事例を話した。つづいて、日本画家・小村雪岱が東京美術学校の近くにあった、「首縊りの木」について触れている。「枝振りがよくて、高さが頃合で、如何にも縊りよいんですね」と、柳田が死にたくなる木について解説した。さて、東京美術学校のすぐ近くの「首縊りの木」とは、どこにあった樹木でどのようなエピソードが語られていたのだろうか。画家たちの資料がありそうなので、判明したら改めてこちらでご紹介したい。
 話題は、縊死による自殺から鉄道自殺Click!に移るのだが、柳田はここでも気味の悪い話をしている。それは彼の知人の趣味なのだが、鉄道自殺の報を聞くといち早く事件現場へ駆けつけ、血が飛び散った石をひとつ、記念にもらって帰るというものだった。血染め石のコレクションは、すでに1箱分になっているという。
 
 つづけて、里見弴が思想家であり美術家の柳宗悦にまつわる幽霊話を披露した。柳宗悦の兄は、柔道二段の豪快な船乗りで、荒くれ者が多い下級船員たちからは強く慕われていたらしい。そのかわいがっていた部下のひとりが、異動で他の船に転勤して間もなく、柳宗悦の兄は他の部下たちと伊豆下田の安宿で鍋料理をつつきながら、酒宴を開いていた。そこへ、他船へ転勤したはずの元・部下が訪ねてきたところから、物語がはじまる。
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 ◎里見弴の怪談(その2)
 そこへ前の部下が訪ねて来たので、大いに喜び、顔見知りのものばかりだから、ゆつくりして行けと引留めて、『幸ひ君はまだ草履を穿いてゐるんだから、済まないけれど一走り行つて、豆腐を買つて来てくれないか。』と頼みますと、その男は快く承知しましたので、味噌漉笊を渡すと、それを抱へて、いそいそと出て行きましたが、それから一時間経つても二時間経つても戻つて来ません。後になつて判明したところによれば、その男の乗つてゐた船は、例によつてその時刻に、難船してゐたのですが、味噌漉笊の行方のわからないのも、例によつて例の如しです。
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 柳の兄ばかりでなく、ほかの船乗りたちも同時に死んだ船員を目撃しているので、集団幻覚や全員の錯覚とはいい切れないと、柳田國男が言外に評している。次に泉鏡花が、友人の体験した京都の宿屋での幽霊譚を披露している。
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 ◎泉鏡花の怪談(その4)
 私の友だちが、幽霊らしいものを確に見ました。春四月、それも昼間の三時半頃、京都の宿で、どうかいふ折に、大阪の芸者二人と三人で、二階で話をしてゐました。何かの拍子に一人の芸者が、次の間へ行つて窓から庭を見てゐたが、変な顔をしてもう一人の芸者を、ちよいとゝ呼ぶ。同じく窓から見て、今度は二人で手招きをするんです。『ちよいと、あれ、あの部屋を。』と、指さした離れの小座敷に、夜具を胸に、枕を深くした女が、向うの障子の硝子をすいて見えました。その女の顔色がなかなか言葉では言へないやうな、青いとも緑とも。のみならず、枕も夜具もおなじやうに蒼い。『何だ、病人か。』と、わざと平気を装つて言ひましたが、心中はなかなか穏かでありません。後で庭に出ましたが、そこに誰もゐさうもないので、三人でソッと開けましたが、その部屋には誰もゐないことが判りました。影もない、尤も茶席構への唯一間です。
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 幽霊話は、出席者の多くが経験あるいはネタとして持っているらしく、泉鏡花につづいて平岡権八郎がすぐに話を継いでいる。平岡が語るのは、浪曲師として知られた桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)の愛人が、大阪の宿で体験した怪談だった。
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 ◎平岡権八郎の怪談(その4)
 大阪の××屋でのことですが、千鳥といふ雲右衛門のお妾さんは、東京から伴れて行つたお酌と二人で泊つてゐたさうです。ところが、そのお酌が、夜中になると、しくしく泣き出すので、お妾さんは心配して、理由を訊ねたが何も言はず、同じことが五晩も続いた後、お酌は遂に耐へ切れなくなつたものと見えて、東京へ帰してくれと言ひ出しました。仕方がないのでお酌を東京へ帰し、お妾さん一人だけ、その部屋に寝てゐたら、夜中に、枕頭の唐紙がすうつと音もなく開いて、女のお化が後ろ向きに入つて来たさうです。(中略) お妾さんは思はず大声を揚げようとしたが、気づいて見ると、まさかのときの用意に、寝床の中に呼鈴を入れておいたので、それを鳴して番頭を呼び、洗濯物があるからとて、湯殿に案内させ、そこで洗濯をして夜を明したさうです。
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 3つの幽霊話のうち、いちばん怖いのは京都の宿で芸者たちと昼間見た、離れの小座敷に横たわる女の幽霊だろうか。鏡花も含め、別に因果関係を知らずに、ただ向かいの2階から目撃しただけなのだが、宿にまつわる物語がいっさい不明なので、よけいに気味が悪く感じるせいかもしれない。唐紙を空けて寝間に入ってくる、平岡の女幽霊も怖いのだが、どこかうしろ向きというところに、怖さよりも哀れさを感じてしまう。
 このあと、柳田國男がお化けの見わけ方を“講義”し、看破する秘訣の1点めは「暗闇の中に輪郭がぼんやり明るい」ので、すぐに怪しいと気づくこと。そして、なにかお化けに話しかけられたら、逆にこちらから問い返してみると、「二度目には必ず、一層はつきりしないことをいふ」のが怪しい2点めなのだそうだ。このとき、完全に酔いつぶれてしまったとみられる橋田邦彦博士は、2点めのお化けの特徴に合致していたのではないか。w
 

 怪談会の後半には、まったく発言しなくなった橋田医学博士だが、同じく一度もまとまった話をしていない、『主婦之友』8月号で怪談会の挿画を担当した日本画家の古村雪岱が、ようやく重い口を開くのだけれど、それはまた、次の最終回で……。
                                   <つづく>

◆写真上:1831年(天保2)ごろ制作の、葛飾北斎『百物語』の「さらやしき」(部分)。
◆写真中上:左は、里見弴で兄(有島武雄)の情死から幽冥話に惹かれるようになったものだろうか。右は、過去の「花月」怪談会へ出席していたらしい小山内薫。
◆写真中下:1893年(明治26)に『やまと新聞』へ連載されていた「百物語」の挿画で、俥屋の前を足早にゆく女の幽霊(左)と大名屋敷に出現した女幽霊(右)。
◆写真下:上左は、歌川国貞(三代豊国)Click!が制作した番町皿屋敷のお菊Click!(部分)。上右は、豊原国周が描く明治期のお菊(部分)で明らかに国貞(三代豊国)の構図をマネている。下は、1928年(昭和3)6月19日に新橋「花月」で開かれた怪談会の模様。(伊藤徹子様Click!主宰の柳町クラブ「牛込柳町界隈」Click!Vol.17:2014年夏号より) 出席者は左から右へ平岡権八郎、泉鏡花、橋田邦彦、長谷川時雨、柳田國男、里見弴、小村雪岱の面々で、いまだ小林一三は到着していない。