さて、「花月」の怪談会Click!もいよいよクライマックスを迎えた。これまで沈黙していた日本画家の小村雪岱が、ようやく口を開き幽霊の目撃談を紹介している。自身が体験したのではなく、東京美術学校で小村の先輩にあたる、「笹島」という日本画家が目にしたエピソードだ。この「笹島」とは、おそらく山形県出身で川合玉堂の門下だった笹島月山のことだと思われるが、空中で幽霊たちが盆踊りをする光景を目撃している。つまり、ひとりだけぽつねんと現れたさびしい幽霊ではなく、集団で出現した幽霊の事例だ。
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 ◎小村雪岱の怪談
 私の先輩に笹島といふ画家がありましてね、(と、今まで沈黙を守つてゐた雪岱画伯が、口を開かれた。) 天才的な芸術家で、創作は来世の仕事とし、今生は死ぬまで習作ばかりして暮すと言つてゐる人ですが、この笹島氏が、故郷の月山の麓に住んでゐた頃、さうですね、それは日露戦争直後の或る夏の夜、沢山の人が野原に出て、空を仰いでゐるのを見かけたので、何かあるのか知らと、そこへ行つて空を仰いで見たら、空中に沢山の人々が浮んで、楽しげに盆踊りをしてゐるのが見えたさうです。その人達はみんな、日露戦争に出征して、戦死した人ばかりだつたさうです。地上から仰ぎ見てゐた人々は、『あそこに、家の息子が踊つてゐる。』とか、『家の息子はあそこにゐる。』とか、口々に騒ぎながら、中にはぽろぽろ涙を流して、泣いてゐるものもあつたさうです。
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 怖いというよりも、えもいわれず哀しくて切ない幽霊譚だ。自分たちの子どもが、海の向こうの知らない土地で次々と殺されていった、やり場のない深い悲しみが、村人たちに集団幻覚を見させたものだろうか。ただし、いっしょに目撃している30代前半の笹島月山は、別に子どもを喪っているわけではなく、精神的にも平常な状態にあったと思われるので、空中の盆踊りを同時に目撃している事実は説明がつかない。そのエピソードがきっかけか、「笹島氏は、来世の存在を堅く信じ」るようになったらしい。
 このとき、仕事が多忙で出席できるかどうか、最後まで危ぶまれていた東京電燈副社長の小林一三が、ようやく「花月」に駆けつけた。おそらく、時間は夜の11時をまわっていただろう。同時に、柳田國男Click!が熊本の知人から聞いたという、明治期の幽霊譚を紹介している。それは、明治維新のときに起きた「蛤御門の戦」にまつわる話だ。
 知人の叔父は、蛤御門の戦闘に加わって敗退し、真木和泉たち残党は天王山に登って切腹した。生還した者の話によれば、叔父はかすり傷ひとつ負ってなかったらしく、「さアいつまでこんなことをしてゐても仕方がない。もう死なうぢやないか」といって、みんながいっせいに腹を切ったらしい。でも、無念な「魂」はあとあとまで残るらしく、時代が明治を迎えたころのこと……。
 
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 ◎柳田國男の怪談(その4)
 (前略)明治初年に招魂碑が建つて、熊本の花岡山でお祭りがあるといふ前夜、親類のものが一同来て一泊した。いよいよ夜が白みかけたとき、彼の父が手水を使ひに縁先に出て見たら、庭の橘の樹のこんもりした梢に、二十五歳で腹を切つたその勇士が、羽織袴で端然と坐つてゐたと申します。おゝ来てゐるかと一家眷属を呼んで、縁側にずらりと坐らせて、その一人々々を、幽霊に引合せたさうです。これはお前が死んだ次の歳にどこへ縁づいて、これはその倅だといふ風に、一人一人お辞儀をさせたといひます。その橘の樹は、叔父さんが非常に愛してゐた樹ださうで、日といひ時刻といひ、場処といひ、幽霊があるなら出ずにはをられぬわけである。さうして血気の少しも衰へない二十五歳の若い武士の魂が、腹を切つたからとてすぐに消えて放散する理由がないと、その知人は私に話しました。菊池から阿蘇へ行く、例の掘割の路の馬車の中での話でした。
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 柳田國男も少し酔いがまわったものか、やや思い入れ過多の感動気味で講談調の語り口になっており、まわりクドくてまだるっこしいので、談話を3分の2ほどのボリュームに短縮している。この幽霊もまた、庭に植えられた橘の樹の梢、つまり座した姿勢のまま空中に浮遊していることになる。その家の当主は、幽霊の兄にあたる人物なので、弟を見てもあわてず騒がず家族のその後と、新しく増えた家族をひとりひとり紹介して、橘の樹にお辞儀をさせているところが、どことなくユーモラスな情景で面白い。
 さて、この豪華な怪談会のトリをつとめたのは、深夜になってから駆けつけた東京電燈Click!の小林一三だった。同じく幽霊の目撃譚なのだが、小林の怪談は知人からの又聞きではなく、本人が4~5年前に高野山で実際に体験した実話だった。
 小林一三の両親は、彼が生まれてからほどなくふたりそろって亡くなり、彼は叔父に養われて育った。高野山へは、伯母とともに父母の供養をするために出かけたようだ。当時の高野山では、寺へ泊っても宿泊料はとらず、少しのお布施を包んで死者の供養を依頼すると、それが宿泊料の代わりになったらしい。小林は、30円を包んで父母の供養を頼み、伯母とともに寺へ泊まった。すると、その深夜のこと……。

 
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 ◎小林一三の怪談
 (前略)私は寧(むし)ろ、叔父の供養をすべきだつたのです。といふのは、父母は、私の生れると間もなく亡くなり、叔父が私を育て上げてくれたやうなものです。で、本来ならば、このとき一緒に、叔父の供養もしなくてはならなかつたのですが、さうすればまた十円か十五円は追加しなくてはなりませんので、つい吝嗇(けち)臭い了簡を起して、そのまゝにしておきました。ところがその夜、気が咎めて、どうしても寝つかれません。夜中も過ぎて、ついとろとろと微睡(まどろ)んだ頃、がさがさがさがさといふ気味の悪い音が聞えます。見ると、私の寝てゐる後ろの方に、まさしく亡き叔父の幽霊が、恨めしげに私を見つめてゐました。私は思はず半分起き上りましたら、隣りに寝てゐた叔母が、『どうしたのか?』と訊ねました。我に復つて見れば、何の変つたこともありません。私は、夜の明けるを(ママ)待ちかねて、叔父の供養をして頂き、それから、がさがさと音のしたところを調べてみましたら、戸袋の後ろに、壊れた竹の樋がぶら下つてゐて、風の工合で、がさがさと音を立てゝゐたのでした。
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 里見弴がすかさず、「良心の呵責によつて生れた幽霊ですね」と、この話は小林の不安定な精神状態が見させた幻覚ではないかと、言わず語らずに指摘している。これに対し小林は、「大抵の幽霊が、さうぢやないでせうか」と答えているが、里見は「まア、そんなものもありませうね」と同意していない。
 ここにきて、東京帝大の橋田邦彦医学博士は、ようやく話が合いそうで“まとも”な小林一三が現れたのだから、ひと言あってもよさそうなものだが、沈黙したままなんの反応もしていない。すなわち、場ちがいな怪談会などに出席した橋田博士は、飲みすぎて意識がモウロウとなり、呂律のまわらない口調で「オバケがいてたまるか、オバケー! いや、オバカー!」……と、うつむいた赤い顔でブツブツつぶやいていたのかもしれない。
 こうして、新橋「花月」で開かれた怪談会席は、午前0時の少し前に解散するのだが、おそらく泉鏡花Click!や柳田國男、里見弴、小村雪岱たちは、平岡権八郎の実家でもある「花月」で、最新の幽霊話や怪談の情報交換をつづけ、そのまま泊まってしまったのではなかろうか。小林一三は、明日の仕事があるので早めに帰り、「じゃ、あたしもこれで。センセ方も、あまり飲みすぎませんように、ごめんくださいまし」と、長谷川時雨Click!も席を立っただろう。
 『主婦之友』の編集記者たちは、「オバケ……、オバカ……」とつぶやく橋田博士の両脇を抱えながら、「ほら、橋田センセ、しっかりしてくださいってば。……通りに出たら、早えとこ円タクに乗せっちまおう。ほらほら橋田センセってば、怪談に、いや階段に気をつけて」などといいながら、明日の速記おこしのことを考えていたかもしれない。
 
 さて、学習院の乃木希典Click!が、16年後の1928年(昭和3)に78歳の高齢ながら元気でいたとすれば、さっそく『主婦之友』編集部から声をかけられ、ようやく自分の時代がきたとばかり喜んで、「ぃやぃやぃやぃや」と率先して出席していただろうか。おそらく、このような怪談会は乃木希典Click!の独壇場で、持ちネタがあまりにたくさんありすぎて、彼だけでひと晩中、汲めども尽きずに話しつづけ周囲を呆れさせたかもしれない。
                                    <了>

◆写真上:芝居『東山桜荘子(ひがしやま・さくらのそうし)』の主人公で、1851年(嘉永4)に制作された歌川国芳『浅倉当吾亡霊』(部分)。
◆写真中上:左は、日本画家で当怪談会の挿画を担当した小村雪岱。右は、山形美術館に保存されている笹島月山『白衣観音画像』(部分)。
◆写真中下:上は、1831年(天保2)ごろに制作された葛飾北斎『こはだ小平二(ママ)』(部分)。下左は、芝居『真景累ヶ淵(しんけい・かさねがふち)』のヒロインを描いた1813年(文化10)制作の豊国『かさねぼうこん』(部分)。下右は、芝居『東海道四谷怪談(あずまかいどう・よつやかいだん)』Click!の隠亡堀戸板返しを描いた1861年(文久元)制作の国貞(三代豊国)Click!『お岩の亡霊』(部分)。
◆写真下:左は、散会直前の深夜に「花月」へ駆けつけた東京電燈の小林一三。右は、芝居『復讐奇談安積沼(ふくしょうきだん・あさかのぬま)』の主人公を描いた1808年(文化5)制作の豊国『小はだ小平次』(部分)。