1940年(昭和15)になると、文部省では「戦時家庭」における教育の“ありかた”の策定をはじめ、翌1941年(昭和16)には『文部省戦時家庭教育要項』全5巻を発表している。同要項は、国家が天皇-家-父親-母親-子というヒエラルキー構造である確認と、軍国主義下における家庭内の支配構造を改めて規定するためのものだった。
 そこには、中国や朝鮮半島から輸入・模倣した「忠孝一致(本)」や、家父長制を基盤とする「男尊女卑」の社会観や生活観、すなわち、おもに新モンゴロイド系北方民族Click!によって形成された儒教思想が徹底して貫かれている。文部省の同要項は、文語体(漢=中国文の模倣)で漢字まじりのカタカナ文によって書かれているが、家庭内の“身分”について具体的に書かれた箇所を、吉武輝子による改題文から引用してみよう。
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 家に最も本質的であることは、親は本、子は末、夫は本、婦は末であること。而して父は本、母は末である(中略) 子は父を天とし、婦は夫を天とする。父を天とすることによつて最も母に孝であり、夫を天とすることによつて最もよき母である。如上を最もよく実現させるものが我国の家である。父母は尊く、児子は卑しく、夫は尊く、妻は卑しく、兄は尊く、弟は卑しく、家庭生活の根本的規範が立つてゐる。中にも父として夫として一家の長は最上位に位する。
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 天皇を頂点とする家族主義的国家観の押しつけは、自我の解放を模索し、自由な生き方(自己投企)を試みるヒロインが登場する、吉屋信子Click!の作品に描かれた多くの女性像が、全否定されたのも同じだった。「女子供」は常に家庭内においては「末」で「卑し」い存在であり、生き方に悩み選択に迷う女は「非国民」であり、常に従順な「良妻賢母」でなければならず、国民の思想・動向を常に監視する内務省にとっては、吉屋が創造するヒロインたちは残らず「不良思想」の「非国民」……ということになる。
 うちの祖母や、川田順造の母親Click!が同要項を読んだら、とたんに目をむいて「うちじゃ、そんなこと教えてないよ!」と怒鳴りつけられそうな内容だが、作家である吉屋信子は陰に日に国家や周囲から圧力を受けつづけ、国策に沿った作品を書かなければ「非国民」呼ばわりをされたのだろう。あるいは、過去に自由主義的な傾向のあった作家は、内務省から検閲・発禁の圧力をかけられて発表の場を奪われ、つづいて軍部から意図的に従軍作家として前線へ派遣Click!されて、“踏み絵”的な作品を書かされることになった。
 彼女たちの周囲には、しじゅう軍服・私服の別なく憲兵隊Click!の影がつきまとい、ボロを出すのを待ちかまえているような環境で執筆しなければならなかったようだ。戦時中、吉屋信子はついに筆を折って鎌倉の大仏裏へと引っこみ、執筆活動をやめている。このあたりの様子を、1982年(昭和57)に文藝春秋から出版された、吉武輝子『女人 吉屋信子』から引用してみよう。
 

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 信子の作品が検閲にひっかかったのは、「新しき日」がはじめてではなかった。すでに昭和十五年五月から、「少女の友」に「乙女の手帖」にひきつづいて連載をスタートさせた読み切り短篇小説「小さき花々」が、毎回、「戦時下の少女が読むにふさわしくない」と内務省に、クレームをつけられたため、止むなく三ヵ月で連載を打ち切っているのだ。(中略) かずかずの少女小説を目もおやかに咲き匂わせてきた「少女の友」から、信子の作品は、完全に姿を消してしまっている。「少女の友」からばかりではない。「少女倶楽部」をはじめとするあらゆる少女雑誌の目次から信子の名が消えてしまっているのである。(中略) 「新しき日」は、銃後の守り手としての家庭を舞台にし、一見、国策型の小説の体を成してはいるが、だが、父権社会に冒されることのない魂の不可侵性の実現という、信子の不変の命題が、隠しようもなく、前面に打ち出されている。信子は、意図せずして時局に不穏当な、反国策的な小説を書いていたのだった。
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 戦時中に、三岸節子Click!がいつもの着物姿で駅を歩いていると、白タスキに割烹着姿の大日本国防婦人会のメンバーに呼び止められて捕まり、公衆の面前で「非国民」呼ばわりされ、ののしられて恫喝Click!されたように、吉屋信子もまた、呼び出された軍部や会合などあちこちで、さまざまな経験をしているのだろう。
 戦争協力をいっさい拒否した、まっすぐな三岸節子は戦後に怒りを爆発させて、彼女を公衆の面前で「非国民」とののしり、国家を破滅へと導く走狗役をつとめた国防婦人会の「亡国」論者たちを、徹底的に批判する文章を残しているが、吉屋信子は目立った批判的な文章を残してはいない。軍部に協力し、「銃後」作品を書いてしまった反省からだろうか、軍部や内務省から「不良思想」の「非国民」作家として、終始目をつけられていたにもかかわらず、戦時中の詳しい様子についてはあまり書き残してはいないようだ。
 
 
 
 先日、1941年(昭和16)に出版された『記念』と題する、大日本国防婦人会/下落合東部分会のアルバムを古書店で見つけたので手に入れた。非常に質のいい装丁で、国防婦人会の幹部連の写真や「宣言」、和歌、ついでに東條英機Click!や永野修身の書などが掲載され、巻末には文字どおり新たな地域活動の写真が貼れるよう、空白のアルバムページが付属している。その中から、大日本国防婦人会の「宣言」を引用してみよう。
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一 世界に比なき日本婦徳を基とし益々之を顕揚し悪風と不良思想に染まず国防の堅き礎となり強き銃後の力となりませう
二 心身共に健全に子女を養育して皇国の御用に立てませう
三 台所を整へ如何なる非常時に際しても家庭より弱者を挙げない様に致しませう
四 国防の第一線に立つ方を慰め其後顧の憂を除きませう
五 母や姉妹同様の心を以て軍人及傷痍軍人並に其遺族家族の御世話を致しませう
六 一旦緩急の場合慌てず迷はぬやう常に用意を致しませう
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 今日の視点で、これらの文章を批判するのはたやすいとは思うのだが、彼女らや彼ら(大日本国防婦人会の東京師管本部役員は、「婦人会」の名に反して半分がおもに陸軍の軍人たちだ)の思想や言動が、国家の破滅という未曽有の危機を招来したことは、二度と同じまちがいを政治思想的に、社会思想的に、さらには生活思想的に繰り返さないためにも、何千回何万回、反復して批判しようが批判しすぎたことにはならないだろう。それだけ、国内外の人々の膨大な犠牲のはてに、日本を「亡国(家)」へと導いた不良思想の責任はとてつもなく巨大で重い。
 吉屋信子は、鎌倉の大仏裏の家へ引っこんで1944年(昭和19)に筆を折ったあと、高浜虚子の門下で心情を俳句に詠みつづけている。不本意なモンペやズボン姿で、防空頭巾を手にしながら地元の句会へと通っていた。1945年(昭和25)8月20日、敗戦後に初めて鶴岡八幡宮の社務所で開かれた句会で、彼女は次の句を詠んでいる。
  葉ばかりの 蓮池なれど 見て居りぬ
 この数年間の来し方を、強烈な脱力感とともにぼんやり想い浮かべながら、源平池の畔にたたずむ吉屋信子の姿が目に見えるようだ。彼女は、1946年(昭和21)3月から仕事を再開しているが、本格的に復活して戦後の第2期黄金時代を築くには、1951年(昭和26)から毎日新聞で連載がスタートする、『安宅家の人々』まで待たねばならなかった。
 

 1941年(昭和16)に出版された大日本国防婦人会の『記録』には、下落合東部分会の活動が写真を中心に記録されているのだが、地元・下落合のめずらしい風景がとらえられている。わずか4年後には、二度にわたる山手空襲Click!で失われてしまう貴重な情景もあるのだけれど、それはまた、別の物語……。

◆写真上:鎌倉市長谷1丁目に残る、吉田五十八設計による吉屋信子の書斎。
◆写真中上:上左は、1941年(昭和16)の『文部省戦時家庭教育要項』を要約した東京帝大教授・戸田貞三『家の道』。上右は、内務省による吉屋作品への弾圧が毎号集中した1940年(昭和15)発行の「少女の友」2月号。下は、1941年(昭和16)に大日本国防婦人会下落合東部分会が制作したアルバム『記念』。
◆写真中下:同アルバムに紹介された、大日本国防婦人会のおもな活動。上は、靖国神社までのデモ行進(左)と護国寺の陸軍墓地清掃(右)。中は、軍へ寄贈する軍手製造(左)と戦勝祈願の参拝(右)。下は、傷病兵への慰問(左)と戦死遺族への奉仕(右)。
◆写真下:上は、長谷の吉屋邸の門(左)と玄関(右)。下は、源平池に浮かぶ蓮。