以前、明治末に目白台の細川護成侯爵邸Click!へやってきた、御船千鶴子Click!について記事にしたことがある。そこでは、さまざまな「透視」実験が行われ、後日、再び東京帝国大学理科大学の教授たちを前に同様の実験が実施された。はたして、御船千鶴子の「透視」や「予言」がトリックだったかどうかは、ほどなく彼女が自殺してしまったため、曖昧で未解明のまま終わってしまったが、明治末のこの時期は不可思議な現象や迷信、怪奇現象、超能力などへ科学が積極的にかかわろうとした時代でもあった。
 その動向は、大正期に入ってからもそのまま継続し、全国各地で超能力者や霊能力者と自然科学者との間で、さまざまな検証実験が繰り広げられている。御船千鶴子の死後、全国各地で30人ほどの超能力者(霊能力者)が出現し、似たような実験や検証が行われているが、「お前らのやったことは、マルッとお見通しだーっ! だーっ!」と、トリックを暴いた事例は意外なほど少ない。
 むしろ、京都帝国大学のように、思い浮かべた文字や画像などをフィルム(乾板)へ思念で焼きつける「念写(射)」、または遠隔の密閉された容器内の中身を「透視」するスキャニング能力を、人体から発生するなんらかのX線と同じような放射線の一種によるものと想定し、「京大光線」あるいは通称「頭脳光線」などと呼称している事例さえある。はたして、「京大光線」の論文は現代でも撤回されることなく、どこかに埋没しているのだろうか。それとも、「なぜベストを尽くさないのか?」と研究は継続して、細ぼそとながらどこかの研究室でつづけられているのだろうか。
 明治末から大正期の有名な超能力者(霊能力者)には、長尾郁子(香川県)、高橋貞子(岡山県)、松山菊子(愛知県)、栗本淑子(岡山県)、松井忠治郎(京都府)、藤本栄二(山口県)、真壁光子(秋田県)、伊藤米吉(静岡県)、山崎玉江(和歌山県)……などがいて、ほぼ全国各地に存在していた。東京の新宿地域では、牛込区新小川町12番地に住んでいた牛込区職員の阿萬理愛(当時29歳)と、四谷区伝馬町新1丁目に住んでいた中野馨(当時12歳)のふたりが注目を集めている。前者は、御船千鶴子に刺激されていろいろ試みているうちに、自分にも「透視」能力があることを発見したようなのだが、かなり宗教(神道?)がかった言動が多かったせいか、自然科学的な実験が行われた記録はみられない。
 後者の中野馨は、四谷第一尋常小学校へ通ういまだ子どもだったせいか、よけいな信条や予断が入りこみにくい、実験向きな好モデルと判断されたのだろう、学者らの立ち合いのもとで詳細な実験が繰り返し行われた。ただし、当人が成長してからは、これらの能力が消えてしまったものか、実験が長期間にわたり継続的に行われたという記録は残されていない。立ち合い実験は、まず1923年(大正12)4月11日に帝大の医学博士・杉田直樹、理学博士・松村任三、文学士・浅野和三郎ら帝大チームが見守るなか、「自動書記」の実験からスタートしている。学者たちが用意した脱脂綿を厚く目に当て、その上からボール紙を何重にか折ったものをかぶせ、さらに藍染め手拭いを6重折りにしたもので中野馨に目かくしをほどこしている。その上で、さまざまな絵や文字を書かせる実験だった。


 中野少年によれば、「自動書記」とはいくら厳重に目かくしをされようが、頭に浮かんだ思念や「透視」した対象を認知することで、手が勝手に動いて絵や文字を正確に書くことができる……というものだった。「自動書記」実験の白眉は、学者がその場で任意に書いた文字列を目かくしした彼の前に見せ、そのすぐ横に全文カナの振り仮名をつけさせるという、トリックの入りこみにくい設定だった。余談だが、帝大の田中館愛橘Click!は「透視」実験の際、現場での偶然性を重視し、その場で箱の中へサイコロをふって出た目を当てさせるという方法を考案している。以下、その実験の結果を1924年(大正13)に帝国教育研究会から出版された、『精神科学/人間奇話全集』から引用してみよう。
  ▼
 (出題)
 猫に小判/花より団子/かねは上野か浅草か/論より証こ/犬もあるけば棒に当る/吉野山かすみの奥は知らねども見ゆる限りは桜なりけり
 (中野少年の自動書記)
 ネコニコバン/クワ(カ)ヨリダンゴ/カネハジヨウノカアサクサカ/ロンヨリシヨウコ/イヌモアルケバボウニアタル/ヨシノザンカスミノオクハシラネドモミユルカギリハサクラナリケリ(カッコ内引用者註)
  ▲
 面白いのは花を「か」、上野を「じょうの」、吉野山を「よしのざん」と振り仮名をつけているが、本人は正しい読み方を知っているにもかかわらず、それに逆らって手が勝手にそのような文字を書いてしまう……という点だ。もちろん、本人にはこの文面全体が見えていないので、文字のすぐ横に振り仮名をふること自体、ふつうの人間にとっては至難のワザだろう。この段階で学者たちは、中野少年が視力以外に対象物を正確に認知する、なんらかの能力を備えていると判断したようだ。
 次に、「透視」実験が行われたが、箱の中に隠したものを中野少年はいい当てることができなかった。それは、ボール箱でも鉛の箱でも材質を問わずに同じ結果だった。ところが、その中身を外光にさらしたとたんいい当てている。中野少年の背後で出題した品物を外光に当てると、すぐに答えをいい当てたようだ。学者たちは、先にほどこした目かくしを疑い、6重手ぬぐいの下にブリキをはさんだり、鉛入りのゴム板をはさんだりして繰り返し実験を試みたが、中野少年はすべていい当てている。しかし、出題した物品を紙1枚でくるんでも、「紙」の存在はいい当てられるものの、その中身についてはわからなかった。帝大の実験チームは以下のようなレポートをまとめている。再び同書から引用してみよう。
 

  ▼
 これで中野馨少年の透視能力は精神感応の結果でない事がいよいよ明瞭になつた。/茲(ここ)に一言付記せねばならぬ事は、此少年の能力が、十数年前福來博士が長尾郁子、御船千鶴子等に対して試みた透視実験の報告によりて与へられた一般的概念とは余程別種のものであることである。彼はどんな目隠しをされても平気で、それを透して物品を視る事が出来るが、其物品が必らず或る程度の光線に当たる事を必要条件とするものである。若しも其物品にして光線を遮断さるれば(例へば函に入れるとか、又は紙布の類にて包まれるとかすれば)もう其透視能力は消失する。
  ▲
 「ウソくせ!」といってしまえばそれまでだが、ほかにも数々の実験が行われており、これは学者たちが長時間かけて実施したマジメな実験結果だ。中野少年の超能力を、帝大の実験チームが確信したかどうかは別にして、少なくとも論理的かつ具体的な否定作業は行われていない。当時の学者たちは、自身が参加した実証実験の結果を受け、現状の科学レベルでは解明できないが、なんらかの能力が存在しているのだろうとする肯定派と、物理学者などを中心に「科学で説明ができる現象と、それ以外はなんらかのトリックだ」とする否定派に分かれた。
 落合地域の西隣りにある井上哲学堂Click!を創設した井上円了Click!は、現在の科学では解明できないレベルの超能力や怪異現象(説明のつかない自然現象など)を、「真怪」と名づけて否定はしていないが、おもに京都帝大が行なった「念写」実験などを対象に、当時の否定派を代表するような文章を残している。以下、井上円了『眞怪』から引用してみよう。
  ▼
 念射(写)の事は余はどうしても信ぜられぬ、若し是が出来るものならば、真怪でなくて魔怪である、我が心内で文字や物体を念じても、是が写真に写る筈はない、写真に写るならば、其の形が客観的に光線に写しなければならぬ。/さうなると、心と物との区別がないものになると、同時に従来築き上げたる学術の根底が破れて了ふ。又実際念写の実験が奇々怪々、一種の手品のやうになつてゐる。(カッコ内引用者註)
  ▲
 
 「真怪」と名づけて、不可思議な怪異現象や心霊現象は、科学が未熟・未発達のせいで説明がつかず「存在」すると認めていた井上円了は、その後、膨大な量の「幽霊」話や「妖怪」譚など怪談奇談を採集して著作に次々と発表し、ついには「オバケ博士」「妖怪博士」の異名をとることになるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:御船千鶴子の「透視」実験が行われた、現・新江戸川公園の細川邸跡の一画。
◆写真中上:明治末から大正期にかけての超能力者(霊能力者)たちで、1924年(大正13)に出版された帝国教育研究会『精神科学/人間奇話全集』所収のリスト。
◆写真中下:上左は、中野馨少年が住んでいた四谷伝馬町と通っていた四谷第一尋常小学校界隈。上右は、牛込区職員の阿萬理愛が住んでいた新小川町12番地界隈。下は、1929年(昭和4)に撮影された四谷第三尋常小学校の卒業式。
◆写真下:左は、井上哲学堂(哲学堂公園)内にある六賢台の塔内から“下界”を見下ろしたところ。右は、哲理門内に幽霊姉さんとともにいる烏天狗像。