1929年(昭和4)の夏、目白駅前に奇抜なデザインの建物が出現した。「目白市場」と名づけられた2階建ての建物は、11世紀のヨーロッパに建てられたレンガ造りの古城のような意匠で、中にはさまざまな商店や飲食店などが入る、今日の“テナントビル”のようなコンセプトで建てられていた。施工したのは東京府で、東側の並びに建つ川村女学院が全面的に協力している。高田町1709番地(のち目白町2丁目1709番地)の、ちょうど先ごろオープンした複合商業施設「トレッド目白」が建つ西寄りの敷地だ。
 川村女学院が協力したのは、同年4月より高等専攻科へ新たに家政科と国文科が追加で設置されたせいもあるのだろう、「女学校は実際的な教育を行うべき」という理念を提唱する同学園としては、女学生たちが作った料理や物品を、実際に売店で販売できる目白市場という実践スペースは、願ってもない教育機会だととらえたようだ。そして、料理や物品を販売するのは、すべて川村女学院に設置された各学科の女学生や卒業生たちが担当することになった。マスコミからは、さっそく誤解をまねきそうな「女学生市場」などと呼ばれて喧伝されている。
 中でも、川村女学院割烹科の女学生たちが直営する喫茶店は、開店当初から人気が沸騰したのではないかと思われる。特に、目白市場や川村女学院のまん前、目白通りをはさんだ南側にある学習院、あるいは少し離れてはいるが池袋の立教大学では、女学生喫茶へ通いつめる常連の学生がたくさんいたのではないだろうか。では、1929年(昭和4)4月14日に発行された、東京朝日新聞の記事から引用してみよう。
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 これは新しい女学生市場
 目白駅近くへ新建築して/お給仕まで上品に
 女学生が店主であり店員といふ東京最初の珍しい市場が省線目白駅の側に出来る、市場の建物は府の直営工費三万円でこゝ数日中に起工し七月中旬には開店の運び 女学生は川村女学院の生徒達である 従つてこの計画は「類のない有意義のものに」といふ府の理想と 「女学校の教育をもつと実際的に」といふ川村女学院の気持ちがピツタリと合つて実現されることになつたのである 従つて市場内の各売店は同校の生徒や卒業生の希望者が学校の余暇に店に立ち 子供用品 家庭の日用品の販売に当る外 階上のきつ茶店では同校割ぱう科で作つた料理、菓子、サンドウヰツチなどを売り、お茶の給仕にまで出て品位をきずつけない程度でかひがひしく働く
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 さて、東京初の「女学生市場」となった目白市場には、ものめずらしさも手伝って開店当初は、東京じゅうから野次馬のお客(特に男性)を集めたと思うのだが、そのとき喫茶店で女学生たちはどのようなコスチュームでお客を迎えたのだろうか? まさか、ミルクホールやカフェの女給さんのような、フリフリのついたエプロン姿ではなかったと思うし、川村女学院当局もそのようなコスチュームは許さなかったと思うのだが、紺のセーラー服ぐらいは着てたのだろうか。



 それとも、大正時代が終わったばかりなので、少しレトロな趣味のまま矢絣と海老茶の袴に、頭には大きめなリボンをつけたコスチュームで、近所のオジサンたちの目を喜ばせていただろうか。とにかく、教育の一環とはいえ、お客を集めなければハナから商売にはならず、市場内のテナント料が東京府へ払えないし経営も成り立たないので、「♪お帰りなさいませ~、目白のダンナさま~」はありえないにしても、女学生たちによる目白駅前での特売ビラ配りや、「高等師範より、お茶の水が美味なお紅茶あります/喫茶リバービレッヂ」wとか、「お昼間は、奥様わすれお茶を召しませ/珈琲・三羽鶴」(爆!)のポスターといった、なんらかのセールスプロモーションは実施しているのだろう……と、妄想はどこまでもふくらんでいく。
 目白市場の存在は、椿坂Click!の目白貨物駅前から目白通りを見上げた小熊秀雄Click!のスケッチ「目白駅附近」Click!や、1938(昭和13)に作成された「火保図」の記載、小川薫様Click!からお貸しいただいた東環乗合自動車のバスガールたちが写る目白橋での記念写真Click!などで、早くから気がついていたのだけれど、同市場の中身がどのような商業施設で、運営主体がどこなのかが不明のままだった。おそらく、市場の2フロアに出店した売店は川村女学院がすべて経営していたわけではなく、東京府が運営していた売店もいくつか入っていたのだろう。はたして、戦前まで川村女学院の直営店は、喫茶店も含めて東京府の公営市場内に残っていたのだろうか。同紙から、つづきの記事を引用してみよう。
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 府当局もこの新しい試みに力こぶをいれ、女学生運営の売店以外にもかつてなかつた全くの府直営の売店をもだして、よいものを安く売り一般家庭のためをはかりたいと準備にかかつてゐる なほ建物もグツと珍らしい造りで十一世紀時代の欧州の古城をまねた二階建ださうである
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 目白市場の敷地は、1947年(昭和22)の空中写真では焼け跡状の更地になっているので、二度にわたる山手空襲で焼失していると思われる。外観は、古城のようなレンガ造りの姿をしていたのだろうが、実際は木造モルタル2階建ての大きめな建築で、外壁にレンガ状のタイルを貼りつけただけの、火災にはもろい構造をしていたのではないか。
 1945年(昭和20)5月25日夜半に行なわれた、住宅地の絨毯爆撃をともなう第2次山手空襲Click!の直前、5月17日にB29によって撮影された偵察写真には、いまだ目白市場のあたりに建物らしいかたちを確認することができる。しかし、同年4月13日夜半の駅や鉄道、河川沿いの中小工場などを“精密爆撃”した第1次山手空襲で延焼し、もはや目白市場の残骸が写っているだけなのかもしれない。
 戦前、目白通り沿いに形成された目白市場を含む当時の商業施設の様子を、同市場が建設されてから4年後、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』から引用してみよう。
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 日用品需要供給の公設市場が、始(ママ)めて高田町に設けられたのは大正十二年十一月一日で、現在は公設一、私設八、諸営業中警察の取締を受くる営業は、浴場二十五、理髪店六十六、女髪結四十六、古物商百八十六、請負業二十、遊技場四十三、料理屋三、飲食店二百十三、喫茶店七あり、而して年々増加して行くのは、カフエーと女髪結と遊技場で、生活必需品の小売商店はデパートと公設市場とのため打撃を受けて苦しみ、享楽気分を誘ふカフエーと遊技場が次第に多くなり、虚栄装飾のための美容術女髪結が年を逐ふて多くなりつゝある。
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 オシャレをする店のことを、「虚栄装飾」などとのたまう高慢ちきな『高田町史』の執筆者は、ヘソ曲がりの夏目漱石Click!ではないけれど「大きなお世話だ」Click!w。この中で、1933年(昭和8)の「現在は公設一」と書かれている東京府営の市場が、4年前に竣工した目白市場のことだろう。

 
 11世紀の古城のような意匠で、すぐに思い浮かぶ建築がごく近くにある。長崎バス通り沿いに建っていた、長崎町4101番地(のち椎名町5丁目4105番地)の「長崎市場」Click!だ。小川薫様のアルバムには、出征兵士を送る壮行会の背後に長崎市場の看板とともに、まるで戦後の名曲喫茶のような古城風の建物がとらえられている。おそらく、目白市場もまったく同じような意匠をしていたと思われ、長崎市場もまた東京府が運営していた、長崎町の公営市場の可能性が高い。

◆写真上:目白市場跡に建っていた、解体前の旧・目白コマースビル。現在は、2014年10月にオープンしたばかりの複合商業施設「トレッド目白」が建っている。
◆写真中上:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる目白市場。中は、1930年代に描かれた小熊秀雄のスケッチ『目白駅附近』に描かれた古城のようにみえる目白市場。下は、目白市場の建設を伝える1929年(昭和4)4月14日発行の東京朝日新聞。
◆写真中下:上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる目白市場と東隣りの川村女学院。下は、1944年(昭和19)12月13日の空襲前にB29偵察機によって撮影された目白市場。上空から見ると、妙なかたちをした建築だったのがわかる。
◆写真下:上は、1945年(昭和20)5月17日の第2次山手空襲8日前にB29偵察機によって撮影された目白駅周辺。下左は、小川薫様のアルバムに写る目白橋東詰めの目白市場と思われる建物。1935年(昭和10)ごろの撮影とみられ、目白橋の手前は東環乗合自動車のバスガールたち。下右は、同じく小川様のアルバムから1940年(昭和15)前後に撮影されたとみられる古城のような意匠の長崎市場。