甲斐仁代Click!は晩年、練馬の桜台にアトリエをかまえていた。我孫子に借りていた志賀直哉の書斎Click!から、雑司ヶ谷、落合町下落合1385番地の借家Click!、野方町上高田422番地の故・虫明柏太アトリエClick!と、このあたりを中出三也とともに転々としていた様子がうかがえる。しかし、桜台のアトリエにはすでに中出三也の姿はなかった。
 戦後の中出三也Click!の軌跡は、ようとしてつかめない。はっきりいえば、甲斐仁代のもとを出奔して行方不明になっている。晩年の甲斐仁代の悔しげな口ぶりから、おそらく女性がらみのなんらかの事件が発生し、彼女のもとから去ったのだろう。ひょっとすると、他の女性と駆け落ちしたのではないかとの想像が働くけれど、そもそも甲斐仁代と中出三也との生活も、すでに結婚していた中出三也が彼女と駆け落ちして成立していたものだ。中出三也は戦後、画壇からもすっかり姿を消してしまった。
 桜台のアトリエで仕事をする、晩年の甲斐仁代を見つめていたのは、のちに画家であり美術評論家になる谷川晃一だ。谷川は、おそらく1955年(昭和30)前後に彼女が仕事をする姿を書きとめている。当時の甲斐仁代は一水会に所属しており、1947年(昭和22)からは会員になっていた。そして、1957年(昭和32)には二科展ではなく日展へ作品を出品している。パートナーだった中出三也は帝展画家だったが、二科における女性画家の代表のような甲斐仁代になにが起きたのだろうか? 1985年(昭和60)に池袋のリブロポート「毒旺日のギャラリー」に掲載された、谷川晃一『甲斐先生の思い出』から引用してみよう。
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 甲斐仁代は深沢紅子Click!、三岸節子Click!、佐伯米子Click!らと並ぶわが国の先駆的な女流画家といわれているが、今日、彼女の名を知る人はけっして多いとはいえない。少なくとも私の友人たち、三、四十代の画家たちは甲斐仁代の名を誰一人知らないのだ。/むろん彼女を生前から支持しつづけてきた人は何人もいるし、没後も何度か遺作展が開かれ、パブリックなコレクションにも数点の作品は入っている。しかし一九六三年にひっそりと世を去ったこの画家は、まだまだ世に知られた存在とはいい難い。まことに残念なことである。/私が甲斐先生に師事したのは十六歳のときで一年に満たぬ短期間だが頻繁に練馬区の桜台にあった彼女のアトリエに通っていた。しかしその間に私が描いた作品はごくわずかで油彩画が二点と水彩画が四、五点だった。
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 谷川は、甲斐仁代から絵を具体的に習うのではなく、彼女が仕事をするのをただジッと眺めている……という、「描かない弟子」として師事している。桜台のアトリエは、北向きの天井までとどく広い窓があり、生花ではなくドライフラワーが飾られていた。
 甲斐仁代は当時、キャンバスはあまり用いず、どこからか横長の小さな板やボール紙をたくさん仕入れては、静物画を中心に描いていたらしい。モチーフには、色鮮やかな陶磁器やさまざまなフルーツ、それらを載せる敷布などを用意していたようで、赤やオレンジを基調とする吉屋信子Click!が愛した彼女ならではの色づかいは、晩年になるまで健在だった。何気なくかわいい静物画なのだが、谷川は重厚で「金色のハーモニーを秘めてい」て、「熟れた果実」のような味わいをもつ画面だったと証言している。
 キャンバスを用いた本格的なタブローは、甲斐仁代が会員だった一水会の展覧会に出品するため、年に一度しか描かなくなっていた。筆を運んでいると、ときどき手の震えが止まらなくなり描けなくなることがあった。彼女の体内から、アルコールが切れたのだ。谷川晃一は、大急ぎで近くの酒屋へ焼酎かビールを買いに走らされることになる。アトリエと酒屋との往復は、日々の習慣となっていった。
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 彼女はその当時五十代でオカッパの髪はすでに半分は白髪だったが頬は紅く小柄で、女学生のような可愛さが残っている不思議な人だった。もっともこの赤い頬は酒焼けで彼女はひどいアル中だった。/彼女は私が絵をあまり描きたがらず、彼女の制作を見るほうを好んでいることをすぐ理解し、五匹もいる猫の交通整理をしながらアトリエの隅に坐っていることをゆるしてくれた。/彼女は黙々とプラムや桃やくるみの実を写生していたが、突然、筆を持つ手が震えだす。アルコールが切れたのだ。「コーちゃん、お酒!」の掛け声に私は酒屋に焼酎を買いに走る。これが日課だった。焼酎かビールをひと口のんで落ちつきを取戻すと肴をつくる。キウリもみにはよく猫の毛がまじっていた。夜が更けるとともに彼女は次第に泥酔し、そしていつも別れた夫の不実をなじり、涙を流していた。孤独がアル中の原因だった。これにはいささか閉口したが、彼女が青春時代を過ごした青島(チンタオ)の街のことや北京旅行のこと、林芙美子Click!や吉屋信子Click!との交流の話を聞くことは興味ぶかく楽しいことであった。
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 谷川晃一が甲斐仁代のもとを去ったのには、いろいろな理由があるようだ。家の事情や、絵画表現の興味が別の方角へ向いたせいもあるが、いちばん大きな理由は彼女が日展へ出品するといいだしたからだ。谷川には、二科の先鋭的な女流画家として出発したはずの甲斐仁代が、官展などへ傾斜していくのが許せなかったのだ。
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 私にとって甲斐仁代という画家は、何ものにも束縛されずに一人自由に生きて描いている「画家の原型」とでもいえるライフスタイルによって、アートの豊かさを教えてくれた初めての人であったが、「日展」という体制的権威の世界に傾倒してゆく先生には失望せざるをえなかった。/十六歳の私はやたらと反抗的で生意気で無意味に硬直しており、先生が日展に出品することにより、彼女の画家としての世間的な地位が上り経済的にプラスになるというリアリズムを許容することができなかった。/「アカデミックな一水会だってやめればいいのに、日展に出すなんて先生はいつ堕落したんですか……。」 彼女は私のこの無礼な発言に対し「あなたは新しい時代の人なのね。そう、だからご自分の思うようにやんなさい。でも私もね、好きなようにやりますからね。」 私は黙ってアトリエを背にし、二度と彼女を訪ねなかった。
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 甲斐仁代は1957年(昭和32)に日展へ出品したあと、アルコール依存症がもとで徐々に体調を崩して療養生活を送るようになる。だが、日展には二度と出品することはなかった。1963年(昭和38)7月28日、かねて入院中だった江古田の中野療養所で死去している。まだ、10~20年は作品を描きつづけられそうな、享年61歳だった。

 
 甲斐仁代は、ほんの一時期に中出三也と住んだ我孫子生活Click!を除き、雑司ヶ谷・下落合・上高田・桜台と、その半生を直径6kmほどの楕円状をした狭い圏内ですごしている。最寄り駅でいうなら、目白駅から中井駅ないしは東長崎駅、桜台駅あるいは江古田駅といったところだろうか。この地域が、彼女のもっとも愛着のあるエリアであり、彼女が若い生命を燃やした思い出深い場所でもあるのだろう。

◆写真上:1928年(昭和3)まで、甲斐仁代が暮らしていた下落合1385番地界隈の現状。右手にあるベージュ外壁の家が、旧居跡あたりだと思われる。
◆写真中上:いずれも戦後に描かれた作品で、左は1958年(昭和33)制作の甲斐仁代『曇りの日の浅間山』と、右は1959年(昭和34)制作の甲斐仁代『秋のうた』。
◆写真中下:小さな細長い板に描かれた作品で、左は1959年(昭和34)に制作された甲斐仁代『くわいなど』と、右は1960年(昭和35)制作の甲斐仁代『赤い静物』。
◆写真下:上は、1929年(昭和4)に松下春雄Click!が撮影した下落合1385番地界隈。右端が淑子夫人Click!で、抱かれているのは彩子様Click!。下左は、1932年(昭和7)9月15日の読売新聞に掲載された甲斐仁代。下右は、1950年(昭和25)ごろと思われる甲斐仁代。