佐伯祐三Click!があと数年長生きして、第2次滞仏から下落合へもどってきたとしたら、おそらく描いたと思われるモチーフに、葛ヶ谷(現・西落合)の外れに建設された荒玉水道Click!の野方配水塔(水道タンク)Click!がある。当時は高い建物が少なかったので、わざわざ西落合へはいかずに下落合からでも、また上落合や東中野からでも眺められただろう。東中野から下落合へともどる松本竣介Click!が、丘陵から突出して見える野方配水塔を描いた、戦後すぐのころのClick!が現存している。
 旧・下落合の西部や、西落合へ散歩に出かけると、つい寄ってしまうのが井上哲学堂Click!と野方配水塔だ。特に水道タンクは、なにか人を惹きつける魅惑的なデザインをしているせいか、軒が高くなった住宅の間からチラリと目に入ったりすると、つい足が向いてしまう。一時は取り壊しの話もあったと聞くが、現在は中野区が非常災害時の給水タンクとして保存し、また2010年(平成22)には国の登録有形文化財にも指定された。
 野方配水塔をモチーフに、もっとも多く風景作品を描いた画家は、おそらく近くの西落合にアトリエをかまえて住んでいた平塚運一Click!だろう。版画作品はもちろん、昭和初期に描いた素描も何点か残されている。それらの作品や昭和初期に撮られた写真を見ると、周囲には田畑か耕地整理が終わったばかりの原っぱが拡がり、その平らな地面から突然にょっきり顔をのぞかせた、巨人の“指先”のような印象を受ける。高さ34mの塔は、目白崖線の南斜面や谷間を除き、落合地域の多くの地点から望めただろう。
 朝日新聞社が1979年(昭和54)に出版した、『佐伯祐三全画集』をようやく廉価で手に入れた。同画集は限定1,200部で出版されていて、少し前まで10万円前後もするのがあたりまえだった。「全画集」とタイトルされているけれど、実際にはずいぶん漏れている作品が多い。1980年代以降、新たに見つかった佐伯作品も少なくないからだ。また、こちらでもご紹介した海外オークションで売買されている『下落合風景(散歩道)』Click!のように、国外へ流出してしまった作品類も、ほとんど収録されていないと思われる。
 さて、重たい同画集(5.8kg)をめくりながら、改めて佐伯の作品を1点1点じっくり観ていたら、佐伯がすでに独特な形状の配水塔を描いているのに気がついた。フランスではなく、日本の風景作品だ。もちろん、佐伯の死後に建設された野方配水塔ではなく、大阪は土佐堀川に架かる肥後橋の東側、中之島の川端に建っていたとみられる、いかにも配水塔らしい建造物だ。朝日晃は、佐伯祐三が『肥後橋風景』を描くとき、画道具運びで同行した杉邨家Click!の息子・房雄Click!に取材して、『肥後橋風景』の制作時期を1926年(大正15)11月下旬とはっきり規定している。1994年(平成6)に大日本絵画から出版された、朝日晃『佐伯祐三のパリ』から引用してみよう。
 
 
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 十一月下旬、風が強く寒い日、その日は長姉の杉邨家(当時の港区辰巳町一ノ一〇、現在の市岡公園附近)から写生道具と三十号のカンヴァスを用意して出た。大学を病気で休学中だった十九歳の房雄は絵具箱を持つ役で同行した。/土佐堀川に着いた佐伯は、肥後橋に向かってイーゼルを立てた。三十号のカンヴァスは強風で安定せず、房雄はカンヴァスを押さえ続けた。朝日新聞社屋(旧屋、一九一六年竣工、一九六五年新築のため撤去)に対峙する佐伯は筆が走った。川の新聞社側に新聞印刷用のロール紙を運んできた木造船が強い風と波に揺れている。(中略) 制作中、突風が吹き三十号のカンヴァスは川土手に転がり落ちた。房雄は催促され、あわてて飛んで行って拾ってはきたが、枯草と泥砂がくっついていた。「祐三さんは平気でそのまま描きあげた――」と房雄が話した。パレット・ナイフ、親指も筆がわりだった。寒い風の日の三時間である。
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 佐伯のキャンバスには木の小枝や泥、ときに髪の毛などが、絵の具に混じって塗りこめられていることがあるのを、かなり以前に記事Click!へ書いたことがある。『肥後橋風景』は、土佐堀川に築かれた土手の泥がびっしりと付着している。それは、いまでも画面で確認できるのだが、ちょっとふつうの画家の制作では考えられないことだ。
 また、キャンパスが強風にあおられて安定せず、佐伯は制作にかなり手こずったらしく30号を3時間“も”かけて描いている。「20号40分」を豪語する佐伯にしては遅筆だが、むろんふつうの洋画家に比べたら考えられないようなスピードだ。
 中之島の配水塔らしき建造物は、肥後橋北詰めにある大阪朝日新聞社と、画面では右手奥に塔の見える大阪市役所、そして市役所の手前にある日本銀行大阪支店との間にはさまれたあたりに位置している。現在の中之島セントラルタワー、あるいは大阪中之島ビルの土佐堀川に面した河畔だ。大阪の事情にはうといので、この配水塔が中之島へ水道を配備するための大阪府水道局の施設なのか、あるいは水を大量に使用するなんらかの製造工場の給水タンクなのかは不明だが、配水塔の意匠が東京の野方配水塔や、すでに解体されてしまった大谷口配水塔(板橋)によく似ているのがわかる。

 

 佐伯が描いた『肥後橋風景』とほぼ同時代に、その界隈を撮影した写真がないかどうか探したが、1929年(昭和4)に大阪朝日新聞社が制作した溝口健二監督による『朝日は輝く』を見つけた。東京国立近代美術館フィルムセンターに収蔵されている作品で、同新聞社の社機が大阪市の上空を飛び、市街地の空中撮影を行なっている。その中に、肥後橋北詰めにある大阪朝日新聞社の社屋を写したシーンが登場するのだが、そこにかろうじて東側の配水塔らしい建築物がとらえられている。作品は1929年(昭和4)に公開されているが、撮影は前年の1928年(昭和3)の可能性が高い。つまり、佐伯が『肥後橋風景』を描いてから、わずか2年足らずの肥後橋界隈の映像ということになる。
 もうひとつ、土佐堀川沿いに配水塔があったことは、宮武外骨Click!のテーマにもつながってくる。戦後の最晩年に、どこかの料理屋で撮影された宮武外骨の写真Click!があるが、料亭の窓から見える景色の中に水道の配水塔がとらえられている。わたしは、新宿駅西口にあった淀橋浄水場Click!のさらに西側、小西六の広い工場敷地内にあった配水塔だと考え、外骨は熊野十二社Click!の池の端に並んでいた料亭Click!で食事をしている、すなわち見えている水面は1968年(昭和43)に埋め立てられてしまった十二社池Click!だと想定していた。しかし、土佐堀川に面した中之島のこの位置に配水塔があったことを考えれば、宮武外骨は肥後橋の東側に架かる淀屋橋の近く、古い町名でいうなら大川町にあった料理屋の2階へ上がって、食事を楽しんでいた可能性が高い。
 なぜなら、大阪で発行していた『滑稽新聞』の編集社屋が、肥後橋からわずか南西へ800mほどのところ、いまは埋め立てられてしまった江戸堀川沿いの江戸堀南通り4丁目に建っていたからだ。(現在は旧社屋の位置に、大阪市教育委員会の碑とプレートが設置されているようだ) つまり、外骨にとってこの界隈は、若いころをすごした思い出の土地であり、戦後の1950年(昭和25)になり急に懐かしくなって、東京から旅行に出かけているのではないだろうか。換言すれば、もし外骨が写る写真が大阪の土佐堀川沿いの情景だとすれば、1950年(昭和25)現在まで中之島の配水塔は建っていたことになる。


 戦後の肥後橋一帯を撮影した空中写真を確認すると、敗戦直後の1948年(昭和23)の写真には配水塔らしい影を確認することができるが、1961年(昭和36)の写真ではすでにビルが建設されている。佐伯の『肥後橋風景』に描かれた配水塔は、したがって1950年代の後半あたりに解体されているのではなかろうか?

◆写真上:西落合の外れに位置する、築84年が経過した荒玉水道野方配水塔。
◆写真中上:上左は、1932年(昭和7)制作の平塚運一が描いた『西落合風景』。上右は、1950年(昭和25)ごろに撮影された野方配水塔。下は、同配水塔の現状。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)11月下旬に制作された佐伯祐三『肥後橋風景』。中左は、中之島にあった配水塔の拡大。中右は、配水塔があったあたりの現状。下は、1929年(昭和4)に公開された溝口健二『朝日は輝く』から肥後橋上空の1シーン。
◆写真下:ともに肥後橋付近の空中写真で、1948年(昭和23/上)と1961年(昭和36/下)。戦後すぐの写真には、配水塔らしい建屋が見えている。